第2話

 「水の起源」という名の展示会に来たのは、全くの偶然だった。久々に東京に来た帰りに、なにか展覧会でも見て帰ろうと思ってインターネットで調べ、知ったものだった。

 一歩中に入った瞬間、どこかで見たことがある空間だと思う。BGMなのか、耳をすますとわかる程度に、かすかに水の音がする。

 会場は小学校の教室一つ分くらいの広さだったが、薄暗く、展示品を一望することは難しい。よって、少しずつ歩きながら全体像を把握していくことになる。

 まず、仏像の写真や、水神を描いた絵などが手前に並ぶ。弁財天も現れる。少し歩いたところに解説があり、水は人々の生活になくてはならないものであり、古くから信仰と切り離せないものだった、という趣旨の説明がされている。

 祥子は以前、「水が生まれるところ」というテーマで絵を描いたことがあった。そこで自分は、山の絵を描いたことを思い出した。その水はどこからくるのか。天から降ってきたものなのだ。そうして山の上から流れた水は川を流れ、町を通って海へと出ていく。それが蒸発し、雲になり、また山へ注ぎ……そう考えると、結局のところぐるぐるまわっているだけで、水はどこから来たのか、なんて考えても無駄なのではないか、とも思えてきた。けっきょく水の起源とは何なのだろう。

 突然、祥子の足が止まった。そこにあった写真には、見覚えがあった。あのときはスクリーンに映し出されていたので、ここまで鮮明な色ではなかったが、それは確かに一年前の夏に見たものだった。

 そして彼女は理解した。この空間には、あの時の講演を彷彿とさせる空気が漂っているのだ。

 果たして、彼はそこにいた。祥子が何気なく入り口に目をやると、彼が会場に入ってきたところだった。祥子は思わず立ち往生した。講演のときには、曇りの日の摩周湖のような色合いの長袖シャツと、濃い灰色のズボンで、クールビズとはいってもフォーマルな格好だったのだが、今の彼は暗いブルーのハイネックのセーターと、色があせ始めたブラックジーンズという、学生でもおかしくないような服装だ。あの時より若く見えなくもないが、間違いなく本人だろう。彼の勤める大学は、新幹線で数時間かかるところにあるはずだ。東京でばったり見かけるだなんて、思いもしないことだった。

 せめて講演の内容を覚えていれば話のきっかけにもなるだろうが、「きれいな写真に感動しました」などと言ってもあほな学生めと黙殺されて終わるかもしれない。共通の知り合いなど一人もいないので、どういう性質の人であるのかまるで知らないのである。

 無意識のうちにじっと見すぎてしまったようで、彼はこちらに顔を向け、目が合った。目を反らす機会を逸してしまい、そのまま数秒間見つめあう形となる。

 彼はゆっくり近づいてきた。

「すみません、僕、人の顔をあまり覚えられないんです。どこかでお会いしたんでしたっけ」

 相手に不快な印象を与えないよう配慮した様子に、祥子はますます慌てた。

「もしかして、この間一緒に調査に行った学生さんですか?」

「違います、あの、この間、一年前くらい、夏の暑い日に、講演されてましたよね。森林内の水循環をテーマに。あのとき会場にいたんです。だから、あの時の方かなと思って、ついじっと見てしまったんです。失礼しました」

 祥子はしどろもどろになりながら、どうにか返答した。

「ああ、あの時の。つまらない話で、すみませんでしたね」

「いえ、とてもきれいな写真ばかりで。感動しました」

「ああいう写真、好きなんですか?」

「はい、どれもこれも、水がどうやったら一番きれいに見えるか、考え抜いて撮られたもののような気がして。感心してしまいました」

 言ってしまってから、「感心した」なんて偉そうだったと思い、うつむいた。

「特に考えて撮ったわけではありません。僕にはただ、わかるんです」

 祥子は驚いて顔を上げた。彼の表情からは、特に何も読み取れそうにない。

「今日の展示も、実は僕が陰でお手伝いしているんです。あの写真が気に入ってもらえたのなら、こちらも気に入ってもらえたんじゃないかと思うのですが」

「はい、とても」

 祥子は力強く首を縦に振った。

「でも」

「なんでしょう?」

「なんだか、私、よくわからないんです。とても心惹かれるんですけど、なんなんだろうって思ってしまって。考えても仕方ないのかもしれませんが」

 祥子は聞いていいのかどうか迷ったが、聞いてみることにした。

「水の起源って、けっきょく何なんですか?」

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