第14話 ピアノ教師の由紀子先生

 帰国して、私は、半ば仕事を放棄して、梅田の中井楽器に入っていたカワイ音楽教室のドラムスクールに通い始めた。ドラムのスネアの「パン」、シンバルの「バシッ」という強烈な音が欲しかった。その話を会社でバンドをしている先輩にしたら、「ファンキーやなあ」と言って笑っていた。一方で、アイルランド人がリーダーのバンドでギターを弾くようにもなっていた。


 この頃、会社で面白いことがあった。会社に出入りしていた元左翼の教授がいた。コンサルタントの凄腕の人で京大出の人だったが、私の一つ上の先輩にやはり京大の人がいた。彼が、大学時代に入ったサークルがおもしろくなかったので、やめようかどうしようか迷った事を夕方教授と私に話していた。そしたら、教授が「やめたりしても、殺されたりしないんやろう?」と言って、私は爆笑してしまった。


 同時に私は、アメリカに行く決心を行動に移すことにした。これは、社長の知り合いの大学教授が私のうつ状態を見て、「君は今やりたいことを今すぐやりなさい」とアドバイスして頂いたことが、決定的にトリガーを引いた。


 しかし、会社を辞めるのが遅すぎた。大学を卒業した時点で、渡米するべきだったのかもしれない。いや、大学でアメリカ旅行を終えた時点、そこで退学し渡米するべきだったのだ。私は、レポートを適当なところまで書いて、あとは上司が書いてくれた。そして、6月に会社を辞めて、実家に戻った。


 両親からは、これからどうするつもりだと言われた。ラスベガスに行って、ツアーガイドになると答えた。父親は、イエスともノーとも言わなかったが、母親は、私がアメリカに行くことを面白がっていた。彼女が、時々アメリカに来たいというのが理由だった。


 恋人にアメリカに行くことを伝えると、あっさりと別れを告げられた。私が学生の時からの付き合いだったが、私は軽躁なので、女などまた簡単につくれると思っており痛くも痒くもなかった。


 会社からの退職金は、100万円だった。高橋君には、ラスベガスは気候が過酷なので、車は良いのを買ったほうが良いですよとアドバイスをもらっていた。それプラス100万円位貯めておこうと思い自動車製造のアルバイトを始めた。


 そして、同時に留学の手続きも始めた。ラスベガスのコミュニティ・カレッジに、ホテル・マネージメント学部トラベル・アンド・ツアーリズム学科があったので、ここに決めた。アルバイトで100万円を貯めて留学の手続きも終わった。


 ただ、グループレッスンで習っていたドラムの先生と、生徒のピアノ教師の由紀子先生、にラスベガスに行くという事が言い出せなかった。結局、レッスンが終わり、新梅田食堂街で彼らと飲んで、彼らが乗る電車の出発の寸前に切り出した。


 ドラムの先生は、あの話は生きていたんか!と驚き、由紀子先生には向こうに着いたら、手紙を書いてねと言われたのだが彼女のアドレスを聞かなかったことが、問題になった。そして、1998年のお正月過ぎに私は、ラスベガスに飛び立った。

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