第16話 うつとニャンコ先生

 さて、ラスベガスに再度到着し、高橋君が数日間彼のアパートのリビングに泊めてくれた。そして、今度は彼の後輩の田村君がルームメイトを探しているのを聞きつけてきてくれた。この頃、私の軽躁は、まだゆるく続いていた。


 私は、田村君の2LDKのアパートに引っ越すことにした。リビングが12畳くらいあり、部屋は二つあり、各7畳くらいあった。これで月に700ドル(7万円)くらいだったから、ものすごく安いと感じられた。


 田村君は、岡山出身で柔道二段だった。彼は、私が引っ越ししてすぐに、自分で焙煎したコーヒーを入れてくれた。私は、インスタントでもかまわないので、おしゃれだなと思った。また、彼は、コンピューターが大好きで、当時40万円もしたIBMのノートパソコンを使っていた。それで、沖縄のアメリカ軍の海兵隊と音声通話をしていた。


 また、彼は、どういう訳かグリコ・森永事件の最重要参考人として事情聴取を受けた宮崎学のデビュー作「突破者」を持っていた。アメリカで日本語を母語とする人には分かると思うのだが、ものすごく日本語の活字に飢える。それで、私も読んだのだがリアリティが感じられる本で、グイグイと紙面の中に引っ張られていった。


 車は、トヨタの中古を買った。それまで、田村君は自転車で一キロ先のスーパーマーケットまで、バックパックを背負い食材を買いに行っていたから、私の車は重宝された。ところで、ジョニー高橋君には、ステファニーと言う台湾人の彼女がいた。そして、休みの日に、こっちのアパートでカレー・パーティーをすることになった。その時に、ステファニーと同じ台湾人の女友達でエレンも連れて行っていいですかと言うので、まったくかまわないですよといった。


 当日会った、ステファニーとエレンは、小柄でチャーミングだった。彼女たちは、大学で田村君と同じホテル・マネージメントの勉強をしていた。私は、台湾には親日の人が意外と多いと言うことを知らなかった。私たちは、カレーとビールで、アメリカに永住できるかどうかなどを話して、その日はお開きになった。彼らが帰った後、田村君とあんな彼女できたらいいねと話した。


 さて、私は、ドラム教室のピアノの由紀子先生にアドレスを聞くのを忘れていたと前述した。しかし、文通していたドラム教室の生徒に、私のアドレスを彼女に伝えてもらえたのだが、そこまで、頭が回らなかった。


 男子生徒の一人に由紀子先生は、どうしているかと聞くと、それが彼女は体調と崩しまって、と言う。私は、彼女のことが好きだったし、勘違いかもしれないが、彼女も私に好意をもってくれていたと思う。それで、私は、彼女をうつ病にしてしまったのかと直感的に思った。


 さて、私が入学したコミュニティ・カレッジだが、一年で卒業できるコースを取った。そして、半年ほど英語を自分なりにみっちりやった。すると、不思議なもので結構、会話が聞き取れるようになっていた。しかし、専攻していたトラベル・アンド・ツーリズムの授業に学生が集まらず、授業が開けない状況にあった。それで、学校側からは、授業が開始されるまで週20時間までならアルバイトをしても良いと言われていた。


 高橋君にアドバイスを受けていたアルバイトを始める際のソーシャル・セキュリティ・ナンバーは取ってあった。貯金も減ってきていたのでこちら側としては、むしろアルバイトができることは、願ったりかなったりだった。また、日本人観光客が大挙して訪れていたので、会社の社長に言われて、週20時間などとっくに突破して働いていた。


 アルバイト先は、高橋君と同じブルー・スカイという旅行会社にした。仕事の内容は、単純で空港に着陸したお客さんをホテルにチェックインさせることと、その逆でホテルからチャックアウトして飛行機で離陸させること。そして、この単純な仕事とは別に、アリゾナ州にあるインディアン居留地内のグランド・キャニオン・ウェスト・リムへ、お客さんを連れて行く仕事もあった。


 仕事は、高橋君がていねいに指導してくれた。グランド・キャニオンの大体の流れを言うと、1920年代の大不況時代のニューディール政策の一環として造られたフーバーダムの観光、お土産屋さんの寄っての買い物、そしてウェスト・リムの観光である。


 国立公園内にあるグランド・キャニオンのほうが、有名なのだが、ウェスト・リムの方も、なかなか見ごたえがあり感動させる。昔は、このコロラド川から1.5キロ上の陸地から、対岸まで粗末なゴンドラが架けられており、高価な化粧品の材料になるツバメの糞を取りに行っていた。このウェスト・リム・ツアーは、ひとつを除いて何のクレームもなかった。それは、ある人が大失敗してくれたことが理由なのだが、それはあとで書く。


 ケリー、ジャック、高橋君、ステファニー、ジュリア、エレンとは付き合いが続いていた。ルームメイトの田村君は、大学で日本人留学生の女の子と付き合うようになっており、良い感じだった。私は、ボストンの吉本とも連絡を取り合っていた。


 しかし、ある事件をきっかけに田村君と仲たがいしてしまった。当時、彼は大手旅行代理店でインターンをしていた。私は、コミュニティ・カレッジの授業が提供されず、アルバイトだけしていれば良かったのだが、彼は違った。大変な大学の授業もあり、旅行代理店の仕事との両立でクタクタだった。


 ある夕方、私が帰宅すると、アパートのドアが半開きになっており、彼のカバンが立てかけられていた。そして、彼のカバンには、彼が大切にしていた例のIBMのノートパソコンが入っていた。私は、ドアを開けてカバンを持ってリビングに入ったのだが、彼の部屋から物音がしない。


 嫌な予感がした私は、アパートの守衛のところに行って相談し、警察を呼んでもらった。パトカーがすぐに到着し、アパートを捜索してくれることになった。十数分後、彼らが私たちのところへ戻ってきて、寝ていたと言って帰って行った。そして、私はアパートに戻った。


 田村君は、後頭部を手でなでながら、まいったなあという顔をして、「コレもんで構えていたもんね」と言って、手首を交差させ左手に懐中電灯、右手にピストルで構える格好した。私は、可笑しくてつい笑ってしまった。すると、彼はきつく私をにらんだ。それで、私はこう言った。


 「あのねえ、ドアが半開きになって、君の大事なノートパソコンが入ったカバンが立てかけられていた訳や。誰だっておかしいと思うやろ。ここは、アメリカやで」


 すると、彼は黙り込んでしまった。


 問題は、その冬だ。私は、軽躁の後のうつ状態になっていたが、かねてからアパートの外で暮らしているメスの黒猫が気になっており、たまに餌をやっていた。ラスベガスの冬は、意外と寒く我慢できなくなった私は、彼女をアパートで飼う事にした。


 しかし、田村君は猫を飼ったことがなかったらしく、キッチンに上がったことなどが気にいらなかったようだ。また、ニャンコ先生は、部屋に閉じこめられることが嫌で、気ままに外出したがるために、私はアパートのドアを半開きにしていた。


 すると、数日後、しびれを切らした田村君が、「カックンさん、ドアを半開きにするなって俺に言ったよね!」と、大声を出した。私が、「あーん?今と前では状況が違うやろ」と言うと、田村君はこう言った。


 「僕は、もう、このアパートを出ます」


 こうして、我々は、別々に住むことになった。私は、コミュニティー・カレッジの音楽のクラスで知り合いになっていたエリックというITエンジニアが、ルームメイトを探しているのをおぼえていた。まだ、ルームメイトを募集しているかメールを送ってみた。答えはイエスであり、彼のアパートを見に行くことになった。

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