第2話 小学生の自殺未遂
さて、私が小学校に入って、世界に目を向けるとベトナム戦争が起きていた。私の小学校一年生を担当した先生が、米兵が子供を股裂きにして殺している、だから私は、アメリカを絶対許せないと言っていた。後述するが、私がラスベガスのカレッジに留学した時にブルース・ジャムセッションで知り合ったベトナム帰還兵で作家兼ベースストのエルウッドは、ベトナムで何をやったかは、言えない、言えばお前は俺の言うことを信じなくなると言った。
私は、学校のあと、幼馴染と工作したりして遊んでいた。そして、テレビでアニメーションやヒーローものを見る事が多かった。また、私は絵を書くのが大好きだった。映画では、母親と見た小さな恋のメロディが強く印象に残っている。
ところで、私は、算数が大の苦手科目だった。父親が私の算数のテスト結果を見て頭を抱えた。私に教えるのだが、分からなかった。父は、真っ赤な顔をして身を乗り出して怒る。それを見て、怖くなり私が泣く。そして、父は「泣くな!」と言って私の口を手で塞いだ。私はアレルギー性鼻炎があったので鼻でうまく呼吸することができず殺されると思った。以後、私にとっての父は恐怖そして憎悪の対象となった。
1972年に弟が生まれた。その頃から、私は、スイミング・スクールに通ったが、コーチに、うるさく指導されるのが嫌だったので、サウナで時間を潰したりトイレに隠れたりしていた。今でもプールで泳ぐのは嫌いだ。つまらない。
この頃、私は、二度家出している。一回目の家出は、家から、500メートルから離れたところで、怖くなり家に引き返した。しかし、二回目はこんな事ではダメと思い、決行したのだが、今度は500メートル離れたたところで同じ小学校に通う、初対面の友だちと仲良くなった。そして、友達と野球場の土手をコロコロ転がりながら遊んでいるところを、買い物帰りの母親に見つかった。母に、服をこんなに汚してと叱られて帰宅した。しかし、二回目の家出は、楽しかった。親元を離れたときの自由。私は、それに早熟にも気づいてしまった。
また、私は、自殺未遂を起こしている。おもちゃのブロックで作った完成品を母親に早く片付けてご飯を食べなさいと言われ、言い返されなかったことが二度続き、悔しくて、プラグを右手の親指と人差し指でつまんでソケットに入れた。片手だったので、電気は人差し指から親指に抜けてビリっとしただけだったが、両手でつまんで入れたら危なかった。
1969年には、音楽の祭典ウッドストック・フェスティバル、また、1972年には、1966年にアメリカのロサンゼルスで起こったワッツ暴動から7周年のワッツスタックスが、ワッツ地区にあるロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで開催されている。ワッツスタックスは、10万人の黒人を集めてロサンゼルスで開催されたソウルミュージックの祭典で、ブラック・ウッドストックとも呼ばれている。トリを務めたアイザック・ヘイズも素晴らしいが、私の一推は、ザ・ステイプル・シンガーズ のレスペクト・ユアセルフである。
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