限界突破

DITTO

第1話 大阪に生まれて

 私は、日本の高度成長期が終わり、グループサウンズがブームになっていた1967年の夏に日本の大阪府の高槻市で生まれた。カックンが私のニックネームだ。私の父方の先祖は、江戸初期から長崎でオランダ語の通訳と翻訳を行う通詞として代々働いた役人である。母方は武士。


 私の父親は、大阪市役所で働いており、また母親は、音楽スクールでピアノをを教えていた。ちなみに、この年の第9回レコード大賞は、ジャッキー吉川と、ブルー・コメッツ(どの星よりも光り輝く彗星のように)のブルー・シャトウ(青い宮殿)であった。


 私には問題があった。背骨と仙骨の間に椎間板が無く、固まっているのだ。炎症はないが、椅子に座ると姿勢が前屈し、胃のあたりが圧迫されて苦しい。正しい姿勢を取ると、今度は座骨が椅子に当たって痛い。まるで、拷問なのである。


 今は私は、ベッドにうつ伏せになって、ノートパソコンで書いている。この姿勢が一番楽だ。また、後述するが、私は、30才でテンションが極端にアップダウンする双極性障害を30才で発症し、また交通事故に二度会遭い頸椎・腰椎のむち打ちもある。


 私が三才になって、家族は大阪府にある緑が多い千里ニュータウンの団地に引っ越した。1970年に日本万国博覧会(大阪万博EXPO’70)があり、芸術家の岡本太郎が製作した太陽の塔がある事で有名なまちだ。


 千里ニュータウンは、イギリスのニュータウンをモデルにして都市計画が行われている。まちの中心の千里中央駅にある阪急デパートの緑のガラスと白の鉄骨で幾何学的な模様を施したモダンな外壁を見て、私は、今になって思えばロンドンに住んでいるような気持になっていた。


 私は、三才になってようやく母親との会話が思い出される。幼稚園が始まる前日に、「お母さん、ぼく明日から幼稚園に行くの?」と聞いたこと。すると母親が、「そうよ、明日から幼稚園に行くのよ」と答えたことである。


 私たちの家族は郊外に住んでおり、また、何不自由ない暮らしだったが、この頃、大阪の都心は車の排気ガスで空気が汚染され、また、伊丹国際空港では飛行機の騒音の問題があった。


 また、学生運動が起こり全共闘及び新左翼が東京大学安田講堂を占拠した。さらに、作家の三島由紀夫が、自衛隊の基地で日本の独立を確立するためのクーデターを行い割腹自決を遂げた。


 私は、前述したように体の要である腰に障害があるし、30の頃から双極性障害(躁うつ病)を患っている。海賊だった先祖の悪行の業を、私が被ったということなのだろう。


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