エピローグ


 エピローグ



 かつてはソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国の一つであったが、連邦の崩壊を経て、現在は独立した東欧の一国家となった共和制国家ウクライナ。そのウクライナの首都であり、また同時に国内最大の都市でもあるキエフに、今宵もまた夜のとばりが下りていた。

 キエフの街の中心部とも言える独立広場には多くの観光客や地元民が集まり、宵闇に包まれた首都の景色を眺めるともなしに眺めながら、思い思いの手段でもって真冬の東欧の空気を満喫する。そして独立広場から道なりに一㎞ほど北西に位置する五つ星の高級ホテルインターコンチネンタルキエフに眼を向けてみれば、ホテル内に店舗を構えるレストラン『コム・イル・フォー』での食事を終えたイライダが、ドアマンが開けた扉を潜って戸外の空気にその身を晒すところであった。

「イライダ様、どうぞお乗りください」

 彼女の従僕ヴァレットであるアンドリーはそう言いながら、ホテルの前を走るロータリーに停められていたメルセデス・ベンツ社製の大型高級車、クラスGLAの後部座席のドアを開けた。精巧に作られたドアは如何にも重そうに見えながらも、ドイツの職人の見事な腕前を反映してか、その重さを感じさせないほどスムーズに開閉する。するとイライダはさも当然とでも言いたげな表情をその顔に浮かべつつ、アンドリーに礼を述べる事も無いまま、上等な革張りの後部座席に厳かに乗り込んだ。そして優美な曲線でもって構成された車体を威圧的に黒光りさせたベンツGLAの運転席には長髪のボリスが、助手席には短髪のアンドリーが腰を下ろすと、三人を乗せた高級車は宵闇に包まれたキエフの街に躍り出る。

「それでイライダ様、これから如何なさいますか?」

「そうね、予定していた用事も済ませた事だし、今夜はもう休みたいから、まっすぐ屋敷に向かってちょうだい」

 運転席のボリスの問いに、後部座席の中央に足を組みながらどっかと腰を下ろしたイライダが、ややもすれば勿体ぶったような口調でもって返答した。するとボリスは「かしこまりました」と言ってからハンドルを切り、ホテルの前を走るヴェリカ・ジトームルスカ通りを、東の方角に向かって疾走し始める。

「ふう、ちょっと食べ過ぎたかしら?」

 疾走するベンツGLAの車内で、フルコースの料理を残さず平らげた事によってぱんぱんに膨らんだ腹部を撫でさすりながら、イライダが呟いた。 すると不意に、二つ結いにした頭髪を何者かによってついばまれたので、眼を開けたイライダはその正体を見極めようと視線を巡らせる。

「あらプーフ、あなただったの」

 果たしてイライダの髪をついばんだ何者かの正体は、いつの間にか彼女の肩に留まっていた一羽の小鳥、つまりスズメフクロウのプーフであった。スズメフクロウはヨーロッパ大陸に生息する種類としては最小のフクロウ目であり、その体重は成鳥であっても、僅か100gにも満たない。

「駄目よプーフ、飼い主の髪をついばんだりなんかしちゃ。ほら、駄目だってば」

 イライダはそう言いながら、肩に留まったプーフの羽毛に覆われた頭を指先でもって優しく撫でる。撫でられたプーフは気持ち良さそうに眼を閉じながらも、イライダの食事中はずっと車の中に取り残されていた事を抗議するかのように、彼女の真っ白な髪を小さなくちばしでもってついばみ続けた。

「まったくもう、プーフは悪い子ね。誰に似たのかしら」

 女主人の頭髪を悪戯についばみ続けるプーフを叱責しながら、再び車窓に眼を向けたイライダは、ある事に気付く。

「あら?」

 独立広場から続くフレシチャーティク通りを南下中に信号待ちのために停車したベンツGLAの車窓から垣間見えたのは、何の変哲も無い、どこにでも在るようなバスの停留所であった。そして今からほんの数か月前、その無人の停留所で出会った一人の老人の事を思い出したイライダははっと息を呑み、運転席でハンドルを握るボリスに告げる。

「ボリス、行き先変更よ。今すぐペチェールシク大修道院に向かってちょうだい」

「は?」

「ペチェールシク大修道院に向かってちょうだい!」

「は、はい!」

 イライダから二度にも渡って命令されたボリスは強引にハンドルを切り、クラクションを鳴らして周囲の車輛を押し退けながらUターンすると、彼が運転するベンツGLAをミハイロフルシェフスキー通りに進入させた。そしておよそ十分後、キエフ市内を流れるドニエプル川から程近いペチェールシク大修道院の前で停車したかと思えば、女主人に先んじて降車したアンドリーが後部座席のドアを開ける。

「ご苦労」

 忠実なる従僕ヴァレットの一人であるアンドリーの行為を労いながら、イライダがアスファルトで舗装された路面へと軽快な足取りでもって降り立った。今にも小雪が舞い落ちて来そうな夜空を見上げた彼女の眼前に、宵闇に沈むペチェールシク大修道院の敷地内のウスペンスキー大聖堂が、まるで天を突き上げるような威容を誇りつつそびえ立つ。

「ここから先は、わたくし一人で事を済ませます。ですからあなた達二人は、ここで待っていなさい」

 イライダがそう言うと、アンドリーとボリスの二人はうやうやしく頭を下げながら「かしこまりました、イライダ様。お気を付けて」と言って彼女を見送ったので、見送られたイライダはスズメフクロウのプーフを肩に乗せたままペチェールシク大修道院の敷地内へと足を踏み入れた。とっぷりと夜も更けたこの時刻では祈りを捧げるべき大聖堂はその門戸を閉ざしており、大修道院の敷地内には観光客であれ地元民であれ、人の気配は殆ど無い。そして大修道院に併設された墓地にまで足を踏み入れた彼女は、やがてその墓地の一角に建つ真新しい墓標の前で足を止めた。

「……久し振りね、オレクサンドル」

 そう言ったイライダが見つめる真新しい墓標には、やはり真新しい鑿痕さっこんでもって『オレクサンドル・ダニーロヴィチ・カルバノフ 1952-2021』と言う墓碑銘が刻まれており、誰かが供えた枯れ掛けの花束もまた見て取れる。つまりこの墓標の下に、あの禿げ頭の老人ことオレクサンドル・カルバノフが埋葬されているのだ。

「……ねえ、オレクサンドル。あなたは天国で、あなたのカチューシャと再会出来たのかしら?」

 イライダがそう言って問い掛けても、当然の事ながら、天に召されたオレクサンドルからの返事は無い。

「……わたくしはあなたと違って愛するカチューシャに裏切られ、あの世で再会すると言う切なる願いも叶わず、心と魂にぽっかりと大きな穴が穿たれたままでしてよ。ですからこの穴を少しでも埋めようと、あなたをわたくし従僕ヴァレットにして差し上げるつもりでしたのに……そんなあなたをまた別のカチューシャに奪われてしまうだなんて、なんとも皮肉なものね」

 そう言ったイライダは肩を震わせ、スズメフクロウのプーフが彼女の真っ白な頭髪を小さなくちばしでもってついばみ、女主人を慰めようと試みる。

「……本当に、男って馬鹿なんだから」

 オレクサンドルの墓前でそう言うと、イライダは少しだけ泣いた。


                                    了

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イライダの悪戯 大竹久和 @hisakaz

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