第十二幕


 第十二幕



 気付けば円環を潜ったイライダら四人と一羽の姿は、首都キエフのアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの病室に在った。

「またここに戻って来たのか……今夜の楽しい夢も、もうお終いだな」

 寂しげにそう言ったオレクサンドルがちらりと眼を向けたベッドの上には、彼が防寒着に着替えた際に脱ぎ捨てたパジャマが散乱している。

「ええ、そうね、そろそろお別れの時間じゃないかしら? ですからオレクサンドル、もうすぐこの夢も醒めるでしょうし、あなたはベッドに横になってお眠りなさい」

 そう言ったイライダに促されるように、オレクサンドルは羽織っていた防寒着をダウンコートから順に脱ぎ去り、病院から支給されたパジャマへと着替え直す事にした。脱ぎ終えた防寒着は、イライダの脇に控えるボリスに手渡す。すると衣服を一枚着替えるに従って徐々に魔術が解除され始め、最終的にパジャマに身を包んだ彼がベッドに身を横たえた頃には、オレクサンドルは元の禿げ頭の老人へと変貌してしまっていた。そして完全に魔術が解除されるのとほぼ同時に、病室の扉が勢いよく引き開けられ、何者かが入室する。

「わっ、びっくりした!」

 入室するなりそう言ってびくっと身を竦ませたのは、誰あろう、オレクサンドルの実の娘のオクサーナであった。さほど広くもないアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの病室内に、イライダとオレクサンドルとスズメフクロウのプーフ、それにアンドリーとボリスの四人と一羽が所狭しと身を寄せ合っていたのだから、彼女が驚くのも無理は無い。そしてオレクサンドルの姿に気付くと、オクサーナは怒りとも安堵ともつかない微妙な表情をその顔に浮かべつつ、彼が横たわるベッドの元へと駆け寄る。

「父さん、今まで一体どこに行ってたの?」

「お前こそ、どうしてこんな時間に病院に居るんだ? 面会時間はとっくに終わっている筈だろう?」

「何言ってるの! 夕食の時間になっても父さんが姿を消したままだから、病院中の看護師さん達で手分けをしながら父さんを探していたんですからね? それで方々を探し回った結果、どうやら病院内には居ないようだから、こうして親族であるあたしが病院まで呼び出されたんじゃないの! それなのに父さんったら一人でのうのうと帰って来ているだなんて……迷惑を掛けた看護師さん達に、謝りなさいよ!」

 オクサーナはそう言って、ベッドの上の父親を怒鳴り付けた。

「それは……その……済まない」

 オレクサンドルは素直に謝罪し、肩を竦めて恐縮する。その姿は、まるで母親に叱られる幼い子供の様に見えなくもない。

「あたしにじゃなくて、謝るのは仕事を中断して父さんを探し回ってくれた看護師さん達に対してです! ほら、今からナースステーションに行って父さんが帰って来た事を伝えるから、ついでに父さんも一緒に来て頭を下げなさい!」

 ややもすれば呆れ果てているかのような口調でもってそう言ったオクサーナは、ようやく病室内のイライダと、彼女の二人の従僕ヴァレット達に眼を向ける。

「ところで、こちらの方々は一体どなた? あら、よく見たらあなた、以前もお見舞いに来てくれたイライダちゃんじゃないの。……もしかして、あなた達が父さんを外に連れ出していたの?」

 ドレスの両袖がずたずたに引き裂かれたイライダ、それに泥と雪で汚れたダークスーツに身を包んだアンドリーとボリスの姿を眼にしたオクサーナは、眉間に深い縦皺を寄せながらそう言って訝しんだ。するとベッドの上のオレクサンドルが身を乗り出し、咄嗟の方便でもって釈明する。

「いやいや、そうじゃないんだオクサーナ。そちらのお三方が、病院の外を徘徊していた僕をここまで送り届けてくれたんだよ」

「あら、そうなの? だったらそれでいいんだけど……父さんを送り届けてくれてありがとう、あなたは本当にいい子なのね、イライダちゃん」

 実の父であるオレクサンドルの方便を信じたオクサーナが感謝の言葉を述べたので、イライダもまた「ええ、どういたしまして」と言って表面上だけでも謙遜し、その場の空気を読みながら話を合わせてみせた。

「それじゃあ、あたしはナースステーションに行って父さんが帰って来た事を伝えて来るから、そこから動かないでね?」

 そう言って踵を返し、廊下の方角へと足を向けたオクサーナを、オレクサンドルは呼び止める。

「……なあ、オクサーナ」

「ん? 何、父さん?」

「今夜、僕は夢の中のプリピャチでカチューシャに会って来たよ」

「?」

 若干ながら認知症の兆候が見受けられる父から突然そんな事を言われても、彼の真意が汲み取れないオクサーナはぽかんと呆けるばかりだ。しかしそんな娘の様子に構う事無く、ベッドの上のオレクサンドルは語り続ける。

「カチューシャ、つまりエカテリーナはな、夫である僕や娘であるお前を裏切って一人でプリピャチから逃げ出した訳じゃなかったんだ。あいつは原発で働く僕に会いに、もしくは幼かったお前のためのポタシュームイオディンを手に入れようとして原発へと向かう途中、不慮の事故によって森の中で息を引き取ってしまったんだよ。それなのに何も知らなかった僕は35年間もの永きに渡って彼女を恨み続け、図らずも、その名誉を汚してしまった。果たしてこの僕に、今からでもカチューシャの名誉を挽回させる事は出来るものなのだろうか?」

 遠い眼をしながらそう言ったオレクサンドルは、何も無い虚空に向かって、深い深い溜息を吐いた。とは言え、35年前の真実を知ってしまった彼の真意は依然として不明瞭であり、イライダの魔術や赤い森での不思議な体験を目の当たりにしていないオクサーナには一向に汲み取る事が出来ない。しかしながらオクサーナもまた腕を組んで嘆息すると、考えを改めたらしい実の父に向かって忠告する。

「あたしには父さんが一体何を言っているのかよく分からないけれど、少しでも母さんに悪い事をしたなと思っているのなら、35年間分の懺悔の意味も込めて感謝の気持ちを表せばいいんじゃないかしら? そうすればきっと、優しくて慈悲深かった母さんは、父さんの事を許してくれると思うから」

「ああ、そうか……そうだよな、きっとカチューシャは許してくれるに違いない……」

 実の娘の忠告を耳にしたオレクサンドルはそう言うと、彼の左手の薬指に嵌められた二つの結婚指輪を、ためめつすがめつ眺め渡した。

「それじゃあ父さん、父さんの気が済んだのなら、あたしはナースステーションに行って来るから」

 そう言って踵を返し、再び病室から立ち去ろうとするオクサーナ。しかしながらそんな彼女に、オレクサンドルは感謝の言葉を述べずにはいられない。

「オクサーナ、お前もこれまで僕の面倒を見て来てくれて、本当にありがとう。心から感謝しているよ。お前はあのカチューシャに似た、本当に優しい自慢の娘だ」

 オレクサンドルがそう言うと、オクサーナは眼をぱちくりとさせながら、再びきょとんと呆ける。

「なあに、今日は一体どうしちゃったの、父さん? 何か悪い物でも食べた? あの偏屈で強情な父さんがあたしなんかに感謝するだなんて、珍しい事もあったものねえ」

 オクサーナはそう言って、物珍しげに小首を傾げてみせた。するとオレクサンドルは眼を細めて頬を赤らめながら、ベッドの上で気恥ずかしそうにはにかむ。

「きっと天国のカチューシャが、僕ら二人の間を取り持ってくれたんだよ」

 オレクサンドルがはにかみながらそう言った、その直後だった。不意に彼の心臓がどくどくと激しく脈打ち、肺が圧迫されてぜえぜえと呼吸が荒くなったかと思えば、全身の内臓と言う内臓が万力でもって締め付けられたかのような激痛を訴え始める。

「くっ……」

 肺と心臓が張り裂けんばかりの激痛に顔を歪め、動悸と過呼吸が治まらない胸を掻き毟りながらベッドの上で身悶える父の姿に、オクサーナは困惑の色を隠せない。

「どうしたの、父さん? 苦しいの? 大丈夫?」

 オクサーナはそう言ってオレクサンドルの身を案じるが、彼の容態は見る間に悪化の一途を辿るばかりだ。

「大変! あたしはお医者さんと看護師さん達を呼んで来るから、イライダちゃんは父さんの様子を見てて! お願い!」

 そう言い残したオクサーナが慌てふためきながら病室から立ち去ると、彼の様子を見ているように頼まれたイライダはベッドに歩み寄り、そのベッドの上で身悶えるばかりのオレクサンドルに尋ねる。

「あらあら、どうしたのかしら、オレクサンドル? 見たところ全身の臓器が悲鳴を上げているように見受けられますけれど、そんなに苦しくて? 今にも死んでしまいそう?」

「……ああ、どうやらこの僕にも、とうとうお迎えが来てしまったらしい……」

 相変わらずの冷静かつ冷淡な口調でもって問い掛けたイライダに、全身にびっしょりと脂汗を滲ませたオレクサンドルは息も絶え絶えな様子ながらも、一言一句をはっきりと発音しながら返答してみせた。

「でしたら、ここで一つ提案させてもらおうかしら? ねえ、オレクサンドル? あなた、血の契約を交わしてわたくし従僕ヴァレットになる気は無くて? さすればこのわたくしと共に、決して死ぬ事も老いる事も無く、悠久の時を生き続ける事が出来ましてよ?」

 イライダはほくそ笑みながらそう言うが、ベッドの上のオレクサンドルは身体をくの字に曲げながら激痛に耐え続けるばかりで、彼からの明確な返答は無い。

「いかがかしら、オレクサンドル? 余命幾許も無いあなたにとっても新たな従僕ヴァレットを欲するわたくしにとっても、両者共に決して損する事の無い、極めて魅力的な提案なのではなくて?」

 ベッドの傍らに立つイライダが重ねて問い掛けると、オレクサンドルは暫し逡巡した後に、ゆっくりと口を開く。

「……確かに魅力的な提案だが、僕は固辞させてもらうよ……」

「あら? どうしてかしら?」

「……僕は自然の摂理に反して生き永らえる事よりも、あくまでも一人の人間としての天寿を全うし、安らかに天に召される事を望むのさ、イライダ。そうでないと、先に逝ったカチューシャやペトロとあの世で合わせる顔が無いからね……」

 オレクサンドルはそう言うと、ベッドの上で毛布に包まれて横たわったまま、猛烈な勢いでもって嘔吐した。おびただしい量の吐瀉物が彼の胃や腸から堰を切ったように逆流し、周囲のあらゆる物体を汚染する。そしてシーツにぶちまけられたそれらの吐瀉物は総じてどす黒く、内臓から剥離したゼリー状の肉片や多量の血液が混入し、まるで溶けた人体のスープそのものであった。

「どうやらこれで、本当にお別れのようね」

 死の淵に立たされた老人を前にしながらも、イライダの冷静さと冷淡さは微塵も揺らぐ事は無い。

「……ああ、そうだねイライダ。本当に楽しい夢をありがとう。キミにも心から感謝しているよ……」

「いいえ、どういたしまして。それにあなたはこれからも夢を見続けるのよ、オレクサンドル。お休みなさい。良い夢を」

 その言葉を別れの挨拶としたイライダはベッドの上に身を乗り出し、オレクサンドルの血と吐瀉物まみれの唇に自らの唇を重ね、末期の口付けを交わし合った。そして二人の唇が別離すると同時に、病室の扉が勢いよく開け放たれたかと思えば、数名の医者と看護師達がストレッチャーを押しながら姿を現す。

「血圧低下! 心拍数減少! チアノーゼの兆候が見られます!」

「酸素吸入開始! 強心剤を投与! 集中治療室ICUの準備を急げ!」

「父さん、しっかりして! 父さん!」

 白衣に身を包んだ医者と看護師達、それに彼らをここまで連れて来たオクサーナらによる喧騒の輪からそっと抜け出すと、イライダと二人の従僕ヴァレット達は病室を後にした。そして市松模様のリノリウム敷きの床を歩きながら薄暗い廊下を渡り切り、金属製の手摺が美しい螺旋階段を下って建屋の一階まで辿り着くと、そのままアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの正面玄関の扉を潜る。

「やあ、イライダ。待っていたよ」

 臨床病院クリニカルホスピタルの前庭で、頭に牛の頭蓋骨を被った一人の幼女が、ふわふわと宙に浮かぶ不思議なうすに乗りながら待ち構えていた。つまりその幼女とは、イライダの母親である開祖エカテリーナとは勝手知ったる旧知の仲だったと自称する、魔女のヤガーである。

「あらヤガー、随分と久し振りじゃないの。医者嫌いのあなたがこんな場所に姿を現すだなんて、一体このわたくしに何の用なのかしら?」

 イライダは眉一つ動かさず、やはり冷静かつ冷淡な口調でもって眼の前のヤガーに問い掛けた。しかしヤガーは肩を竦めてかぶりを振りつつ、イライダに問い返す。

「強がるのはおよしよ、イライダ。本当はキミだって今すぐ病室に取って返して、あのオレクサンドルとか言う男を死の淵から救い出してあげたい筈さ。それなのにキミは、どうして彼を見捨てるんだい?」

「……オレクサンドルの心と魂は、天国で待つ彼の妻のものよ。彼はこのわたくしとは違って、愛するカチューシャに裏切られてはいなかったのですから、二人が再会する事こそが真の幸福なのではなくて? それに彼とわたくしは、ヴラジーミルの時の様に最後の言葉を交わし合えなかった訳でもないのですから、今更思い残す事は無くってよ?」

「ヴラジーミル? 誰だい、それは?」

「今は亡き、わたくしの最初の従僕ヴァレットの名前ですの」

 そう言ったイライダは、空飛ぶうすに乗ったヤガーの眼を真正面からジッと睨み据えた。すると睨み据えられたヤガーは深く嘆息し、天を仰ぐ。

「そうか、そう言う事なら仕方無いね。てっきりキミはあの男を三人目の従僕ヴァレット、いや、そのヴラジーミルとか言う男が最初の一人目だとすれば、これで四人目になるのかな? とにかく彼を新たな従僕ヴァレットにするだろうと予測していたのだけれど、どうやら当てが外れたらしい。あたしの未来を見通す眼も、すっかり曇ってしまったよ」

「それでヤガー、あなたの用件はそれだけかしら? でしたら、わたくしはこれで帰らせていただきましてよ」

 イライダはそう言い残すと、アンドリーとボリスの二人の従僕ヴァレット達を背後に従えながらヤガーの脇を素通りし、キエフの街の中心部へと続くアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの正門の方角へと足を向けた。

「待ちなよ、イライダ」

 立ち去ろうとするイライダを呼び止めたヤガーが、最後に忠告する。

「あのオレクサンドルとか言う男は、今夜は未だ死なない。一度は心臓が停止し、死の淵を彷徨さまようものの、それでもかろうじて一命を取り留める。しかしながら彼の寿命は、持ってあと七日が限界だ。七日後に集中治療室ICUから一般病棟に戻された直後、今度は多臓器不全でもって確実に死に至ると、あたしの未来を見通す眼が予言しているからね。だからキミが彼を従僕ヴァレットにするとしたら、この七日間が最後の猶予だ」

「あら、そうなのかしら? ですがわたくしの決意は揺らぐ事は無いので、あなたのその忠告は全くの徒労に終わりましてよ?」

 そう言ったイライダは、その場から足早に立ち去ろうとした。しかし彼女は数歩歩いたところで不意に足を止め、背後を振り返る事無くヤガーに尋ねる。

「彼は、苦しんで死ぬのかしら?」

「いいや、苦しむ間も無く一瞬にして意識を失って、そのまま半時と経たない内に帰らぬ人となる筈だよ。この予言ばかりは決して外れる事は無いと、断言出来る。あたしの命を賭けてもいい」

「そう。でしたら本当に、これで思い残す事は無くってよ」

 その言葉を最後に、イライダは再び臨床病院クリニカルホスピタルの正門の方角に向かって歩き始め、今度は決して足を止める事は無い。彼女の肩に留まったスズメフクロウのプーフが、二つ結いにされた透き通るように真っ白な女主人の頭髪を、彼女を慰めるかのようについばみ続ける。

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