第十一幕


 第十一幕



 身構えるイライダ、そして彼女の従僕ヴァレットであるアンドリーとボリスの三人を前にしたネクラーサは、咥えていた安煙草をぷっと地面に吐き捨てた。

「今夜は手下の野郎どもも一緒かよ。まあいい、ついでだから、全員纏めて相手してやろうじゃないか」

 真っ白な歯を剥いて猟奇的にほくそ笑みながらそう言ったネクラーサに、イライダは冷静かつ冷淡な口調でもって問う。

「あらネクラーサ、その口ぶりですと、まるでわたくし達があなたに後れを取るように聞こえない事もなくってよ?」

 イライダが澄まし声でもってそう言うと、ネクラーサは最初はくっくと人を小馬鹿にしたような含み笑いを零し、やがてげらげらと声を上げながら高笑いを漏らし始めた。そして高笑いついでに、イライダらを挑発する。

「後れを取るだって? そいつはまた、随分とお上品な言い回しだな? もっとはっきりと、あたしがお前らをぶっ殺しに来たって言ってくれよ、なあ、イライダ?」

「あらあら、それはまた随分と下品な言い回しです事。ですがネクラーサ、残念ながら息の根を止められるのはわたくし達ではなく、これから返り討ちに遭うあなた自身でしてよ?」

「ほざけ! 所詮は開祖エカテリーナの私生児に過ぎない、魔女の糞ガキが!」

 忌々しげにそう言ったネクラーサが、頑丈な革のブーツを履いた足でもって一歩前に進み出た。するとイライダもまた一歩前へと進み出て、ネクラーサとの距離を詰めようとするが、そんなイライダの行く手を二つの人影が阻む。

「イライダ様、偉大なるあなた様の手を煩わせる事もありません。ここは私どもにお任せください」

「ああ、そうだとも。こんな片目で不細工の尼さんなんざあ、俺ら二人だけで片付けてやるぜ」

 そう言いながらイライダの行く手を阻んだのは、彼女の従僕ヴァレットであるアンドリーとボリスの二人であった。二人とも如何にも高級そうな仕立ての良いダークスーツに身を包んでいるが、ボリスがきっちりと折り目正しく着こなしているのに対し、アンドリーは故意にボタンを外して着崩す事によって、彼らなりのファッションセンスを誇示している。

「何だあ? たかが魔女の手下風情が、このあたしの邪魔をしようってのかあ?」

 ネクラーサがそう言えって挑発すれば、アンドリーとボリスの二人は無言のままダークスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。そしてそのままネクタイとワイシャツ、更にスラックスと革靴と言った順番でもって、身に着けている衣服の類を次々と脱ぎ捨てる。

「おいおいおい、お前ら一体何してやがる? あたしは男のストリップを楽しむ趣味なんて無えぞ? あ?」

 眉間に深い縦皺を寄せ、小首を傾げながらそう言ったネクラーサを他所に、やがてアンドリーとボリスの二人は一糸纏わぬ全裸になると全身の細胞と言う細胞に力を込めた。すると彼らの肉体は空気を送り込んだ風船の様に見る間に膨れ上がり、全身の骨や筋肉が増強されたかと思うと、その身長がゆうに3mにも達する筋骨隆々の巨体の怪物へと変異する。

「どうだネクラーサ、これでもまだ、男のストリップに興味が無いだなどと言っていられるかな?」

 そう言ったボリスの頭部は人間のそれからネコ科のそれへと変異し、手足の指先に鋭い鉤爪が生えたその姿は、さながら全身の皮が剥がされて筋繊維が剥き出しになった人虎のそれであった。

「そうとも、俺ら二人のこの姿を前にして、これまでに生きて帰った奴は居ないぜ?」

 ボリスに続いてそう言ったアンドリーの頭部は鋭い牙が生えたイヌ科のそれへと変異しており、こちらはさながら、真っ赤な血の色に染まる筋繊維が剥き出しになった人狼のそれである。

「なるほどなあ、そんな姿に変身しちまうんだから、事前に服を脱いでおかねえと帰る時に着るもんが無くなっちまうって訳か。しかしいくら帰る時の準備をしたところで、どうせお前ら二人は纏めてここでおっんじまうんだから、何の意味も無えよ。……だろ?」

 人狼と人虎に変異してみせたアンドリーとボリスを前にそう言ったネクラーサは、修道服の袖口に左右の手を差し込み、長い柄の先端に鋼鉄製の鎚頭づちあたまを備える原始的な打撃武器、つまり一対の戦鎚せんついを取り出した。

「黙れ、この売女め!」

 紫電一閃、人ならざる異形の存在へと変異したアンドリーとボリスの二人が、赤い森の林道に立ち尽くすネクラーサに襲い掛かる。人狼と化したアンドリーは超音速を誇る瞬発力でもって地を駆け、人虎と化したボリスは、人智を超えた跳躍力でもって頭上からネクラーサの急所を狙う魂胆だ。

「遅い!」

 しかしながら、百戦錬磨のネクラーサは動じない。彼女はその場から一歩も動かず、タイミングを見計らって右の戦鎚せんついを振るった。するとその戦鎚せんついの重く頑丈な鋼鉄製の鎚頭づちあたまが、地を駆けながら襲い掛かって来たアンドリーの頭部を見事に捉える。

「ぽあ」

 意味を為さない頓狂な声を上げながら、戦鎚せんつい鎚頭づちあたまによる一撃をまともに喰らってしまった人狼たるアンドリーの頭部が、まるでコンクリートの壁に叩き付けた腐ったトマトの様に砕け散った。

「アンドリー!」

 相棒の名を叫びながら飛び掛かったボリスの頭部を、今度はネクラーサが振るった左の戦鎚せんつい鎚頭づちあたまによる必殺の一撃が、光芒一閃の見事なタイミングでもって捉える。

「おぱ」

 やはり頓狂な声を上げながら、人狼たるアンドリーの頭部に続いて、人虎たるボリスの頭部が屋上から投げ落とした腐ったスイカの様に砕け散った。いくらノスフェラトゥであるイライダと血の契約を交わし、不老不死の肉体を手に入れた従僕ヴァレットと言えども、その肉体を制御する脳髄や脊髄と言った脳神経系を破壊されてしまっては身動き一つ取れない。そんな訳で、二人揃って頭部が砕け散ってしまったアンドリーとボリスの肉体は赤い森の林道に力無く横たわり、彼らの女主人たるイライダの助けを待つばかりである。

「おいおいおい、ちょっと待ってくれよ! 如何にもゴツい見掛けと大仰な口先ばっかりで、随分と手応えの無いコケ脅しの糞野郎しか居ねえじゃねえか! なあイライダ、まさかとは思うが、こんな奴らがお前の切り札じゃないだろうな? あ?」

 頭部が砕け散った二体の従僕ヴァレット達の惨殺死体を前に、ネクラーサがイライダを挑発した。

「見損なわないでいただけるかしら、ネクラーサ。その二人は従僕ヴァレットとなってから未だ十年と経たない、尻の青い新参者に過ぎませんの。ですからわたくしの切り札などではなく、むしろ尖兵に過ぎませんので、あなたは安心して首を洗って待っていなさいな?」

 イライダがそう言って挑発し返すと、ネクラーサは真っ白な歯を剥きながら口角を吊り上げ、再び猟奇的にほくそ笑む。

「それを聞いて安心したぜ! さあイライダ、こんな見掛け倒しの雑魚どもは放っておいて、あたしと一緒に殺し合いを楽しもうじゃないか!」

 そう言ったネクラーサは、左右の手にそれぞれ一振りずつの戦鎚せんついを携えながら、獲物との距離を詰めるべく一歩前へと進み出た。そしてそんな彼女と真正面から対峙するイライダに、いくら魔術によって若返っているとは言え、あくまでも一介の人間に過ぎないオレクサンドルが問う。

「なあイライダ、前回の事もあるし、ここは一旦逃げた方がいいんじゃないかな?」

「安全な場所まで下がってなさい、オレクサンドル。前回は不覚を取りましたが、今回ばかりは負けません事よ?」

 ドレス姿のイライダもまたほくそ笑みながらそう言うと、一歩前へと進み出て、獲物であるネクラーサとの距離を詰めた。彼女の肩に留まっていたスズメフクロウのプーフが危険を察知し、全身の羽毛を逆立ててほうほうと鳴きながら、小雪が舞う夜空目掛けて飛び立つ。

「死になさい」

 最初に仕掛けたのは、イライダであった。冷静かつ冷淡な口調でもって彼女がそう言った直後、戦鎚せんついを携えたネクラーサの周囲の空間が一瞬にして延伸され、急激な断熱膨張によって空間内の気温が見る間に下降する。ところが絶対零度近くにまで気温が下降したその空間に囚われる前に、ネクラーサは人間離れした脚力でもって跳躍し、その姿は元の場所には無い。

「遅い!」

 先程のアンドリーのそれをも上回る、やはり人間離れした超音速の瞬発力でもってイライダとの距離を一気に詰めたネクラーサは、左右の戦鎚せんついを振るって彼女の頭部を打ち砕こうと試みた。しかしながらイライダもる者、彼女自身の周囲を取り巻く空間の重力に干渉し、一瞬にして宙に浮かび上がる事によってこれを回避してみせる。

「逃げるな、この魔女の糞ガキめ! 今すぐそこから下りて来て、正々堂々あたしと勝負しろ!」

 赤い森を縦断する林道の脇に生えた一本の針葉樹の梢に、重力を無視する格好でもって横向きに着地したイライダを睨み据えつつ、怒り心頭のネクラーサが地団太を踏みながら罵声を上げた。

「あらネクラーサ、そんなに悔しいのでしたら、あなたもここまで這い上がって来てみてはいかがかしら? もっともあなたのその身体では体重がかさみ過ぎて、このわたくしの様には行かないでしょうけどね」

 針葉樹の梢に横向きになって着地しながら、小馬鹿にするような口調でもってそう言ったイライダ。彼女に小馬鹿にされたネクラーサは怒髪天を突き、顔面を真っ赤に紅潮させると、アンダースローの要領でもって振りかぶった右の戦鎚せんついをイライダ目掛けて投擲する。

「喰らえ!」

 ネクラーサの掛け声と共に右の戦鎚せんついが投擲され、梢の上のイライダ目掛けて空を切りながら飛翔するが、彼女は再び重力に干渉する事によってこれを回避してみせた。そして華麗な身のこなしでもって宙を舞うと、先程とはまた別の針葉樹の梢に、やはり横向きになって着地する。

「逃げるなって言ってんだろ、この魔女の糞ガキめ! 下りて来い!」

 やはり怒髪天を突く勢いでもって激昂しつつ、罵声を浴びせるネクラーサ。すると先程投擲した右の戦鎚せんついが、まるでブーメランの様な軌跡を描きながら夜空を飛翔し、やがて手元に戻って来たこれを彼女は受け止めた。

「だったら、これならどうだ!」

 そう言ったネクラーサは左右の手に携えた戦鎚せんついを、僅かにタイミングをずらしながら交互に投擲し、これら二振りの戦鎚せんついが樹上のイライダに襲い掛かる。

「どうにも芸の無い、単調でワンパターンな攻撃じゃないかしら? 前回は不覚を取りましたけれど、そう何度も同じ手は通じません事よ?」

 樹上のイライダはそう言いながら彼女の周囲の空間の重力に干渉し、針葉樹の梢から梢へと宙を舞って移動しながら次々と襲い来る戦鎚せんついを回避し続け、その身体にはかすり傷一つ負ってはいない。

「糞! さかりがついた蚤みたいに、いつまでもちょこまかと飛び跳ねて逃げ回りやがって! この卑怯者め!」

 痺れを切らしたネクラーサはそう言って足を止め、左右の戦鎚せんついの投擲に意識を集中させた。しかしながらそんな彼女の迂闊な行動こそが、イライダの思う壺とも言うべき結果を招く。

「あら、ネクラーサ? 手元にばかり意識を集中させ過ぎて、足元がお留守になっているのではなくて?」

「何だと?」

 梢から梢へと飛び跳ね続けるイライダに警告されたネクラーサがはっと我に返るも、気付けば地中からじわじわと忍び寄った冷気が彼女の両脚をブーツごと凍結させ、身動きが取れない状況に陥ってしまっていた。

「しまった!」

 ネクラーサは後悔の言葉を口にするが、時既に遅しとは、まさにこの事である。

「詰めが甘いのではなくて、ネクラーサ? 前回のナイトクラブでの一戦とは違い、ここは地中にも大気中にも水分が豊富な森の中でしてよ? それに夜風に舞う雪礫に偽装すれば、わたくしの魔術による冷気をあなたの足元に忍ばせる事くらい、造作も無い事ではないかしら?」

 イライダがそう言って種明かしをする間も、彼女が断熱膨張によって発生させた冷気はネクラーサの両脚を見る間に這い上り、遂には下半身全体が凍結してしまっていた。

「糞! 糞! 糞! 糞! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやるぞイライダ!」

 口汚く罵るネクラーサに、イライダは引導を渡す。

「今度こそ死になさい、ネクラーサ」

 やはり冷静かつ冷淡な口調でもってそう言ったイライダは針葉樹の梢から赤い森の林道へと着地し、頭上に右手を掲げると、その手の指をぱちんと打ち鳴らした。するとその音を合図に冷気が一段と強まったかと思えば、細胞と言う細胞、体液と言う体液までもが凍結したネクラーサの下半身に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

「糞! ふざけんじゃねえぞ、この魔女の糞ガキめ! エカテリーナの私生児め!」

 断末魔の悲鳴ともつかない侮蔑の言葉と共に、ネクラーサの下半身が砕け散った。残された彼女の上半身だけが、林道に力無く横たわる。

「どうやら、これで終わったようね。正教会の修道女は生前の素行の良し悪しにかかわらず、誰であれ天国に掬い上げられるのかしら? それとも神の国を守るべく悪魔と戦うために、問答無用でもって地獄に落とされるのかしら? ねえ、ネクラーサ? どちらかお分かりになったら、教えてくださる?」

 イライダはそう言って勝ち誇るが、状況は未だ終了してはいない。

「ふざけんな……このメスガキめ……」

 喉の奥から絞り出すような掠れた声でもってそう言うと、下半身を失ったネクラーサが苦痛に顔を歪めながら、腕の力だけで起き上がった。そして左眼に当てた眼帯を震える指で捲り上げ、奇妙な幾何学模様文様が彫られた義眼を露にし、神に祈る。

「父なる神の御名において命ずる! 神の忠実なる下僕にして迷える子羊を導きし天使の力よ、我が肉体を触媒としてここに顕現せよ!」

 ウクライナ正教会モスクワ聖庁の武装修道女たるネクラーサはそう言って、彼女が仕える神と天使に懇願した。すると彼女の左の眼窩に埋め込まれた義眼が眩い光を放ちながら輝き始め、その光が彼女自身を包み込み、やがて天使の姿を形作ると同時に実体化し始める。

「どうだイライダ! これでもまだ勝ち誇っていられるか? あ?」

 やがて義眼が放っていた光が収束し、ネクラーサがそう言ってイライダを挑発したかと思えば、そこには異形とでも言うべきグロテスクな姿の天使が顕現していた。身の丈はおよそ5m、背中には天を駆けるための四対の翼と尻尾が生え、腕が生えているべき場所には脚が、脚が生えているべき場所には腕が生えた、逆さになった巨大な頭部が胴体を兼ねた奇妙な天使である。そしてその天使の頭部が在るべき場所に眼を向けると、そこにはやはり逆さになったネクラーサの上半身がげらげらと高笑いを漏らしながら、天使の胴体と融合するような格好でもって埋め込まれていた。

「あらあら、これはまた随分ととんでもない奥の手を隠していたものね、ネクラーサ?」

 異形の天使を前にしながらそう言ったイライダは、やはり冷静かつ冷淡な口調を維持し続けてはいるものの、その表情には若干の焦りの色が滲む。

「余裕ぶってんじゃねえぞ、この私生児のメスガキめ! これからお前の手脚を一本一本順番に引き千切って達磨にしてやってから、そのくっせえガキまんこにこの尻尾の先端を突っ込んで、処女膜をぶち破ってひいひい泣かせてやる!」

「やれやれ、そんな醜い姿に変わり果ててしまっても、相変わらず下品な口を利く女ですこと」

 呆れ果てたイライダがそう言いながらかぶりを振った次の瞬間、背中に生えた四対の翼をばさばさと羽ばたかせつつ、異形の天使と融合したネクラーサがその身を宙に躍らせた。身体の大きさと翼の大きさの比率、それに推定される重量と空気抵抗から逆算するに、物理的に起こり得ない現象である。そして異形の天使の胴体を兼ねた巨大な頭部の眼が眩い光を放ったかと思うと、およそ30mも離れた林道に立つイライダの左腕が、何の前触れも無く突然砕け散った。

「くっ!」

 左腕を失ったイライダは苦悶の声を上げ、残された左手でもって傷口をぎゅっと押さえながら、その場にうずくまる。

「どうだイライダ、これが神の力だ! 神の奇跡だ! あたしの左眼に移植された義眼は天使の骨を加工して作られた聖遺物であり、その潜在能力を行使すれば、こうして物理法則を無視して結果だけを顕現させる事が出来るのさ!」

 そう言ったネクラーサと融合した天使の眼が再び光ったかと思えば、今度はイライダの右腕が砕け散った。

「泣け! 喚け! 命乞いをしろ! お前らみたいな人ならざる異形の存在は、二度と人間様の前で色気を出したりせずに、真っ暗な穴倉の奥底でこそこそと地面に這いつくばりながら泥水を啜って生き永らえていればいいのさ!」

 ネクラーサはそう言って勝ち誇るが、彼女の視線の先でうずくまったイライダの眼からは、未だに闘志の炎が消えてはいない。

「誰が、あなたなんかに命乞いをするものですか! わたくしはイライダ! イライダ・エカテリーノヴナ! 我が最愛の母であり、偉大なる開祖エカテリーナが339番目の子でしてよ!」

 両腕を失いながらそう言ったイライダを、ネクラーサは嘲笑する。

「何が偉大なる開祖エカテリーナが339番目の子だ! その開祖である実の母親に裏切られたのは、他ならぬお前自身じゃないか!」

「……ええ、そうね。確かにあなたの言う通りじゃないかしら? ですがネクラーサ、たとえ何度裏切られようと、一度愛した人を忘れる事は決して出来やしない。人を愛すると言う事は、そう言うものではなくて?」

 イライダはそう言うと、誰がどう見ても形勢逆転は叶わない状況にもかかわらず、むしろ彼女自身が勝ち誇ったかのようにほくそ笑んだ。そしてそんな彼女の言葉と態度が、異形の天使と融合したネクラーサの逆鱗に触れる。

「そこまで言うんだったら、このあたしを打ち滅ぼしてみせな! そうでなけりゃお前の戯言なんて、所詮は負け犬の遠吠えなんだよ!」

 ネクラーサがそう言った直後、彼女らが死闘を繰り広げる赤い森の最深部の木々の枝葉をびりびりと震わせながら、奇妙な獣の唸り声が響き渡った。

「?」

 困惑するネクラーサの背後から、鬱蒼と生い茂る木々を掻き分けつつ、その奇妙な唸り声の主である一頭の牡鹿が姿を現す。それは身の丈10mにも達する、全身が真っ黒にただれた皮膚に覆われた巨大な鹿、つまり神話の時代の神の一族の末裔たる黒牡鹿チョルニーオレンそのものであった。そしてその黒牡鹿チョルニーオレンの首から上には幾本もの野太い触手が生え、しかもその触手がじゅるじゅると粘り付くような水音を立てながら、ぞわぞわと不気味な挙動でもってうごめいている。

「何だこいつは?」

 一層困惑するばかりのネクラーサに、黒牡鹿チョルニーオレンが唸り声を上げながら襲い掛かった。全身の皮膚が真っ黒にただれた四本足の巨体が眼の前の獲物に向かって体当たりを敢行し、轟音と共に両者が激突したかと思えば、首から生えた無数の触手が異形の天使を絡め取る。

「放せ! この化け物め!」

 ぬるぬるとした粘液を分泌しながら蠢く触手によって手足を絡め取られ、身動きが取れなくなった異形の天使と融合したネクラーサが、彼女の自由を奪わんとする黒牡鹿チョルニーオレンに罵声を浴びせ掛けた。しかし当然の事ながら、久方振りの栄養源となる獲物を捕らえた黒牡鹿チョルニーオレンは、そんな罵声など意に介さない。

「放せって言ってんだろうが! 調子に乗ってんじゃねえぞ、この糞気色悪い触手の化け物め!」

 するとネクラーサが一際大きな声でもって罵声を浴びせ掛け、異形の天使の逆さになった頭部兼胴体の眼が光ったかと思えば、彼女の腕を絡め取っていた黒牡鹿チョルニーオレンの触手が砕け散った。粉々になった触手の破片が周囲一帯に飛び散り、ぬるぬるの粘液まみれのそれらが赤い森の地面に落着すると、まるで陸に打ち上げられた魚の様にのたうち回る。

「どうだ! 思い知ったか!」

 異形の天使と融合したネクラーサはそう言って勝ち誇るが、彼女の思惑に反して、眼の前の黒牡鹿チョルニーオレンはまるで動じない。砕け散った触手に代わって新たな触手がネクラーサの腕を絡め取ったかと思えば、それらの触手が生えた首の根元がやにわに広がり、その中央に巨大な口蓋がその姿を現した。そしてその口蓋、つまり内側にびっしりと鋭い牙や頑丈そうな臼歯が生えた口と喉と食道とが、異形の天使の肉体を食い尽くさんと迫り来る。

「おい、ふざけんな! 放せ! 糞! 放しやがれってんだ、このケロイドまみれの糞畜生めが!」

 ネクラーサが罵声を浴びせ掛け、彼女と融合した異形の天使の眼が連続して光ると同時に、黒牡鹿チョルニーオレンの粘液まみれの触手が次々に砕け散った。しかしながら彼女の奮闘空しく、幾ら砕け散っても新たな触手が皮膚を突き破って次々と生えて来るばかりで、どうにも埒が明かない。そしてそれらの触手は異形の天使の手足や翼や尻尾や胴体に執拗に絡み付き、ゆっくりと、だが確実に、その首の中央にぽっかりと口を開けた口蓋へと獲物の肉体を送り込み続ける。

「おい、やめろ! やめろって言ってんだろうが、この粘液まみれの糞畜生め! やめろやめろやめろ! やめ……」

 やがて異形の天使の肉体が、それと融合したネクラーサの肉体ごと、東欧ウクライナの原始宗教の崇拝の対象たる黒牡鹿チョルニーオレンの口蓋の中へと飲み込まれた。まるで奈落の底の様に真っ暗な口蓋が巨大なトンネル掘削機の様にぶるぶると蠕動し、獲物を貪り食う際のぼりぼりと言った気味の悪い咀嚼音が発され、宵闇に沈む赤い森の木々の狭間に轟き渡る。

「どうやらこれでお終いのようね、ネクラーサ。現代の神に仕えるあなたが、神話の時代の神の一族の末裔に貪り食われる気分は如何なものかしら? もしよろしければ、教えてくださらない?」

 両者の死闘の一部始終を目撃していたイライダはそう言って問い掛けるが、当然の事ながら、既に黒牡鹿チョルニーオレンの胃の腑へと納められてしまったネクラーサからの返事は無い。そして異形の天使を生きたまま丸呑みにした挙句、その肉体を貪り食い終えた黒牡鹿チョルニーオレンはその首から生えた幾本もの触手をぞわぞわと蠢かせつつ、小雪が舞う夜空に向けて盛大なげっぷを漏らした。

「あら、お下品ですこと」

 冷静かつ冷淡な口調でもってそう言ったイライダに見守られながら、何十年、もしく何百年ぶりの食事を終えた黒牡鹿チョルニーオレンはゆっくりとした動作でもって踵を返し、赤い森の最深部の更にその奥へと足を向ける。どうやらこの神の一族の末裔は、異形の天使をネクラーサごと食い尽くした事によって充分に腹が膨れたらしく、もうイライダには興味が無いらしい。そして身の丈10mにも達する巨体を震わせつつ黒牡鹿チョルニーオレンが姿を消すと、後には両腕を失ってうずくまるイライダと無傷のオレクサンドル、それに頭部を失って林道に転がったままのアンドリーとボリスの首から下だけが残された。危険を察知して夜空に飛び立ったスズメフクロウのプーフは、未だ戻って来てはいない。

「イライダ、大丈夫かい?」

 思わぬ助け舟となった黒牡鹿チョルニーオレンが完全に姿を消してからおよそ一分後、呆気に取られていたオレクサンドルがはっと我に返ると、イライダの元へと駆け寄ってその身を案じた。

「ええ、ご心配なさらずに。この程度の怪我でしたら、ものの十分足らずで復元するのではないかしら?」

 若干の苦痛と共にそう言ったイライダの両腕の傷口からは肉色のあぶくがぼこぼこと湧き立ち、時を同じくして彼女の従僕ヴァレット達の失われた頭部もまた、ペースト状にした挽き肉にも似た肉色のあぶくに包まれる。そしてそのあぶくに血が通い、まるで多能性幹細胞が各種の器官に成長するかのような手順を経ながら骨や皮膚や筋肉へと変化すると、やがてイライダの両腕、それにアンドリーとボリスの頭部は完全に復元された。魔術によって時間と空間に干渉し、自身の肉体を最盛期の状態で維持し続けるノスフェラトゥの復元能力は、依然として健在である。

「ふう」

 復元された両腕の具合を確かめながらイライダが立ち上がり、頭部を失った事によって一時的に記憶の混乱と感覚の麻痺に襲われているアンドリーとボリスの二人もまた立ち上がると、人狼と人虎のそれから本来の人間の姿へと変異し直した。そして彼らの女主人に歩み寄ったかと思えば、うやうやしくこうべを垂れながらイライダの足元にひざまずく。

「申し訳ありません、イライダ様。あなた様の従僕ヴァレットたる我ら二人ともあろう者が、よりにもよってネクラーサごときに後れを取ってしまいました。この不始末に対する処罰は、何なりと甘んじて受け入れる所存であります」

「イライダ様、済まない。俺達が未熟だった。許してくれ」

 アンドリーはアンドリーなりに、そしてボリスはボリスらしく、それぞれの口調でもって謝罪の言葉を口にした。どうやら彼ら二人は自らの不甲斐無さを心から恥じ入り、イライダに許しを乞うているらしい。

「あらあら、そんなに気に病む必要は無くてよ、二人とも。どうせあなた方の様な未熟な若輩者には毛ほども期待してはいなかったのですし、むしろあのネクラーサを前にして尻尾を巻いて逃げ出さなかっただけでも、褒め称えて差し上げてもよろしいのではないかしら?」

 イライダはそう言うと、その言葉とは裏腹に、まるで汚物にでも向けるような軽蔑と侮蔑の眼差しでもってアンドリーとボリスを睨め回した。その視線には、彼ら二人の生殺与奪の権利は自分が握っているのだと言う無言の重圧が見え隠れする。そして彼女に睨め回された二人はより一層恥じ入り、生きた心地がしない恐怖に身を震わせ、肩を竦ませながらかしこまるばかりだ。

「アンドリー、ボリス、あなた方二人の処遇はおいおい決定するとして、今は一刻も早く服を着るべきではなくて? 忠実なる従僕ヴァレットがいつまでもそんな無防備な姿のままでは、主人であるこのわたくしの沽券にかかわりましてよ?」

「かしこまりました、イライダ様」

 イライダから辛辣なる皮肉と叱責の言葉を浴びせ掛けられた、一糸纏わぬ全裸のアンドリーとボリス。彼ら二人は声を揃えてそう言うと、深々と頭を下げて一礼してから立ち上がり、一度は脱ぎ捨てた衣服を拾い集め始める。拾い集められた衣服は赤い森の林道を覆う泥で汚れ、風に舞う小雪が染み込んでじっとりと濡れてしまっていたが、今はそんな些細な事にこだわっている場合ではない。そしてアンドリーとボリスの二人が全ての衣服を着用し終え、襟を正して泥を払うと、彼らの女主人たるイライダが改めて呼び掛ける。

「さて、と。ネクラーサに黒牡鹿チョルニーオレンと言った思わぬお邪魔虫達も退散した事ですし、そろそろわたくし達もキエフに帰る事としますけれど、三人ともよろしくて?」

 そう言って問い掛けたイライダはオレクサンドルと二人の従僕ヴァレット達の返事を待たず、ぴんと人差し指を立てた右手を高々と頭上に掲げると、肩を支点にしながらその手をくるりと回して虚空に円を描いた。すると描かれた円はきらきらと光り輝く円環となり、その円環の内側が、小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打ち始める。

「プーフ、そろそろ戻ってらっしゃい」

 小雪が風に舞う夜空を見上げながらイライダがそう言ったのを合図に、危険を察知してどこか安全な場所へと飛び去っていたスズメフクロウのプーフがほうほうと鳴きながら舞い戻って来ると、女主人たる彼女の肩に留まり直した。そして使い魔の帰還を確認したイライダは気を取り直し、自らが虚空に描いた円環の内側へとその身を躍らせる。いわんやダウンコート姿のオレクサンドル、それにアンドリーとボリスの二人の従僕ヴァレット達もまた彼女の後に続いた。

 イライダら四人と一羽が姿を消した赤い森には、雪雲に反射する月光すら届かない暗闇と、その場に立てば耳が痛くなるほどの真の静寂だけが残される。

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