第十幕


 第十幕



 やがて季節は巡り、今年もまた冬将軍の姿が見え隠れするようになった、とある初冬の週末。本格的な冬の訪れには未だ未だ間があるものの、しんしんと底冷えするような天候と気温のキエフの街を吹く風は冷たく、見上げる空にははらはらと小雪が舞っていた。そして日没からおよそ一時間が経過した頃、メルセデス・ベンツ社製の大型高級車であるクラスGLAが木立に囲まれた遊歩道を通過し、アレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の前で停車した。

「アンドリー、ボリス、あなた達はここで待ってなさい」

 停車したベンツGLAの後部座席から地面へと降り立ったイライダが背後に控える彼女の従僕ヴァレット達、つまりアンドリーとボリスに向かってそう命じたが、命じられた二人はこれに異を唱える。

「いいえ、イライダ様。そうは参りません。今日ばかりは、私達もご一緒させていただきます」

「ああ、少しばかり癪に障るが、俺もボリスと同意見だ。聞けば以前、あの死に損ないのじじいと一緒に夜の街に繰り出したところを、よりにもよってネクラーサに襲われて死に掛けたって言うじゃねえか。イライダ様が死ねば俺達二人も揃って死んじまうんだから、最後の最後までボディガードとしての責務を果たさねえと、死んでも死に切れねえよ」

 そう言ったアンドリーもボリスもイライダの瞳をしっかりと見据え、自らの意見を撤回する様子は見受けられない。

「あら、そうなの。そこまで言うからには、二人とも覚悟は出来ているようね。でしたら今宵はあなた達も一緒に病室まで赴き、わたくしの夜遊びに相伴させてあげても良くってよ? さあ、付いていらっしゃい」

「ありがとうございます、イライダ様」

「ありがとよ、イライダ様」

 それぞれの口調でもって感謝の言葉を口にしたアンドリーとボリスの二人は、彼らの女主人であるイライダに付き従い、臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の中へと足を踏み入れた。診察時間も面会時間もとうに終了した病院内はしんと静まり返り、薄暗い正面ロビーに人の気配は無く、どうにも警備が手薄である。そして無人の受付を横目に廊下を渡り、金属製の手摺が美しい螺旋階段を駆け上ると、オレクサンドルが入院する病棟の四階へと辿り着いた。

「ここが、そのオレクサンドル様の病室ですか」

 廊下沿いにずらりと並ぶ病室の一つの前でイライダが足を止めると、ボリスがそう言って確認し、白く艶やかな頭髪を二つ結いにした女主人の返事を待つ。

「ええ、そうでしてよ。しかしながら老人は宵寝の習慣が身についていると言いますから、未だ寝ていないと良いのですけれど……どうかしら?」

 そう言ったイライダがこんこんこんこんと病室の扉を四回ノックしてみれば、歳老いた男性の声でもって「どうぞ」との返答が耳に届いたので、彼女は扉を引き開けた。すると病室の主であるオレクサンドルがベッドの上で半身を起こし、イライダとアンドリーとボリス、そしてイライダの肩に留まったスズメフクロウのプーフの三人と一羽を笑顔と共に出迎える。

「こんばんは、オレクサンドル。いい夜ね」

「やあイライダ、プーフ、よく来てくれたね。それとそちらのお二人は……イライダ、キミのお知り合いかい?」

「こちらの二人は、髪の短い方がアンドリーで、髪の長い方がボリスと言いますの。どちらもわたくしの忠実な従僕ヴァレットであり、また同時に、頼りになるボディガードでもありましてよ? ですがオレクサンドル、以前にも一度だけ、二人はあなたと出会っているのですけれど……どうやらその様子ですと、覚えてはいらっしゃらないようね」

 イライダはそう言ってアンドリーとボリスを紹介するが、残念ながら、歳老いたオレクサンドルが彼ら二人の従僕ヴァレット達の顔と名前を憶えている様子は見受けられない。

「済まないが、覚えていないねえ。どうも最近は歳のせいか、物忘れが激しくて仕方が無くて、本当に申し訳無い」

 そう言ったオレクサンドルはつるつるに禿げ上がった後頭部をぽりぽりと掻き毟り、若干ながら認知症が進行しつつある自身の病状を恥じ入りながらも、敢えておどけてみせる事によってその深刻さを誤魔化した。そして一度だけごほんと咳払いを漏らし、気を取り直すと、改めてイライダに尋ねる。

「それでイライダ、今日はまた一体全体どう言った用件でもって、こんな殺風景な僕の病室を訪れたんだい? まさか、只のお見舞いじゃないんだろう?」

「そうね、まずはその、ペトロの件に関してお悔やみを申し上げようと思って馳せ参じたと言えばいいのかしら?」

 決して喪に服している訳ではないが、如何にも高級そうなフリルとレースがあしらわれた真っ黒なドレス姿のイライダはそう言ってかしこまると、うやうやしく頭を下げる事によって哀悼の意を示してみせた。

「この度は、ご愁傷さま。わたくしイライダ・エカテリーノヴナはあなたの従弟であるペトロ・ゼレンスキーの冥福を、心からお祈り申し上げましてよ」

 このイライダの言葉と態度に、病院から支給された安っぽいパジャマ姿のオレクサンドルは、少しばかり面食らう。

「ああ、イライダ。キミみたいな小さくか弱い女の子が、そんなにかしこまらないでくれ。ペトロはきっと、彼なりの天寿を全うしたに違いない。それに死の間際には、唯一の心残りだった祖母の形見の聖像画イコンを拝む事が出来たのだから、安らかな最期を迎えられたんじゃないかな」

 オレクサンドルはそう言うが、イライダは納得しない。

「あら、本当にそうかしら?」

「……と、言うと?」

「果たして全身を癌に犯され、生涯独身のまま伴侶にも子孫にも看取られる事無く、多臓器不全でもってもがき苦しみながら亡くなったペトロが、本当に安らかな最期を迎えられたと言えて?」

「まあ、それは確かにそうなんだが……」

 イライダの辛辣な言葉を耳にしたオレクサンドルの言葉尻は曖昧で、もごもごと口籠るばかりだ。

わたくし自身の経験則から言わせていただきますと、人生とは総じて、裏切りと失望の繰り返しでしてよ? 一度も裏切られた事無く、また失望した事も無いなどと言う稀有な存在は、そうね、生まれたばかりの赤ん坊くらいのものじゃないかしら? 勿論その赤ん坊が、自らを生んだ母に裏切られたと感じ、失望していたとしても何の不思議も無いでしょうけどね」

 冷笑するような表情と口調でもってくすくすとほくそ笑みながらそう言ったイライダに、どうにも困惑顔のオレクサンドルは重ねて問う。

「わざわざそんな事を言いに来たのかい、イライダ? だとしたら、最近の僕はあまり身体の調子が良くないので、今日のところはこれでもうおいとましてくれると助かるんだが……」

 どうやら多少なりとも気分を害したらしいオレクサンドルは努めて冷静を装いながらそう言って、イライダら一行に暗に退室を促すものの、当のイライダはそんな彼の意向を気にする素振りも見せない。

「あら? 何を言っているのかしら、オレクサンドル? 本題はむしろ、ここからでしてよ?」

 やはり冷笑するような表情と口調でもってくすくすとほくそ笑みながらベッドに歩み寄ると、そのベッドの上で半身を起こしたオレクサンドルに、イライダは問う。

「ねえ、オレクサンドル。あなたは未だ、プリピャチの街でやり残した事がある筈でしてよ? チェルノブイリ原子力発電所から立ち去る際に、円環を潜る直前のあなたが何やら名残惜しそうな表情を浮かべましたのを、このわたくしが見逃していたとでも思って?」

「……」

 このイライダの問い掛けに対して、オレクサンドルは再びもごもごと口籠り、無言を返事とした。

「あらあら、強がるのはおよしなさいな、オレクサンドル。自分の欲望や願望に正直にならなければ、先程あなたが言及しましたペトロの様に、安らかな最期を迎える事が出来なくなりましてよ? それとも何かしら? その願いは口にするのもはばかられるほど、惨めでみっともないそれなのかしら?」

 イライダの様な、少なくとも見掛け上は年端も行かない少女にそこまで言われてしまっては、オレクサンドルも口を開かざるを得ない。

「……僕は、もう一度プリピャチに行きたい」

 意を決してそう言ったオレクサンドルに、イライダは重ねて問う。

「そうなの、やっぱりあなたは、もう一度プリピャチに行きたかったのね。それで、プリピャチに行って何をしたいのかしら?」

「あの日、カチューシャ……つまり僕の妻のエカテリーナの身に何が起きたのか、そして彼女がどこに姿を消したのか、それを確認しておきたいんだ。でないといつまで経っても心残りが解消されず、後悔しながら死ぬ事になるだろう」

 オレクサンドルがそう言って秘めたる胸の内を吐露すると、イライダは相変わらずくすくすとほくそ笑みながら手を伸ばし、ベッドの上の彼の右手をそっと握り締めた。すると皺だらけで骨ばっていたオレクサンドルの右手から次第に皺が消え失せ、筋肉と皮下脂肪の厚みが増したかと思えば、乾燥し切った不毛の大地の様にひび割れていた皮膚もまた瑞々しさを取り戻す。そして彼の右手に端を発した奇跡は腕を這い上って全身へと伝播し、気付けば皺だらけで禿げ頭の老人だったオレクサンドルは、ふさふさの頭髪を湛えた若き青少年へと変貌していた。力の源泉である母が亡くなって以来その力が半減してしまっているとは言え、時間と空間に干渉するイライダの魔術は今尚健在であり、人一人を若返らせる事くらいは造作も無い。

「アンドリー、例の物を! ……さあオレクサンドル、外は冷えますから、これに着替えてちょうだい」

 イライダに命じられたアンドリーは彼女が言うところの『例の物』、つまりキエフ市内に店舗を構える衣料品店の袋をオレクサンドルに手渡した。手渡された袋の中身はニットのセーターとデニムパンツとスニーカー、それにダウンコートや手袋と言った初冬のウクライナの戸外を歩き回れるだけの防寒着一式であり、イライダの意を汲んだオレクサンドルは無言のままそれらに着替える。

「どうやら、これで準備は整ったようね。それでは皆々様、そろそろ出発しようじゃないかしら?」

 やがてオレクサンドルが防寒着に着替え終えると同時に、右手の人差し指をぴんと立てながらそう言ったイライダは、何も無い虚空に向かって右腕を高々と掲げてみせた。そしてコンパスの様にくるりと右腕を回して大きな円を描いたかと思うと、描かれた円はきらきらと光り輝く円環となり、その円環の内側が小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打ち始める。

「さあ、参りましょうか」

 そう言ったイライダが先陣を切る格好でもって、軽快な足取りを維持しつつ、ゆらゆらと波打つ円環の内側へとその身を投じた。するとダウンコート姿の若きオレクサンドルもまた彼女に続いて円環に身を投じ、最後にアンドリーとボリスの二人が、一切躊躇する事無く無言のまま後を追う。そして次の瞬間にはイライダとオレクサンドルとスズメフクロウのプーフ、それにアンドリーとボリスの四人と一羽の姿は、宵闇に沈む無人の街並みの一角に在った。

「……ここは?」

 耳が痛くなるほどの静寂に包まれた無人の街並みの一角で、はらはらと小雪が舞う夜空を見上げながらオレクサンドルが問うと、彼の隣に立つイライダがスズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま答える。

「ここは、首都キエフから遠く離れたプリピャチの住宅街でしてよ。前回来た時に覚えたペトロのアパートメントに座標を合わせてみたのですけれど、どうやら思惑通り、上手く移動出来たのではなくて?」

 如何にも自信ありげな口調でもってそう言ったイライダの言葉を裏付けるように、眼の前の壁面には見覚えがある落書き、つまり真新しいピカチュウが色鮮やかなペンキでもって描かれていたので、ここはかつてペトロが住んでいたアパートメントのエントランスに相違無い。

「それで、わたくし達はこれからどこに行けばいいのかしら、オレクサンドル?」

 立場が逆転し、今度はイライダがオレクサンドルに問うた。

「今回はもう少し西側の区画に建つ、僕と僕の家族が住んでいたアパートメントが目的地だ。そこで時間を巻き戻してもらって、あの日あの時一体何があったのか、その事実を突き止めるんだ」

そう言って踵を返したオレクサンドルが西の方角へと足を向け、大地を踏みしめるような足取りでもって脇目も振らずに歩き始めたので、イライダら三人と一羽もまたその後を追う。そして巨大な墓石の様に建ち並ぶアパートメント群の間を縦横に走る、事故以前にはおよそ五万人の市民が行き交っていたであろう街路に足を踏み入れてみれば、そこには人っ子一人、猫の子一匹の姿も見当たらない。その上季節が季節なため、以前この地を訪れた際には鬱蒼と生い茂っていた雑草は枯れ果て、広葉樹の葉は落ち、幹と枝だけになった木々のシルエットがうら寂しさに拍車を掛ける。

「それでオレクサンドル、あなたが住んでいたアパートメントと言うのは、ここから遠いのかしら?」

「いや、すぐそこ……ここだ」

 枯れ木と枯れ草に覆われた人気の無い街路を一心不乱に歩き続けた末に、そう言ったオレクサンドルは、一棟のアパートメントの前で足を止めた。そのアパートメントもまた窓と言う窓から灯りが消え失せ、人が住んでいる気配はまるで無く、巨大な墓石の様な黒々としたシルエットが天に向かってそびえ立っている。

「このアパートメントの十階……つまり最上階が僕の部屋なんだが……やっぱりエレベーターは動いてないらしいな」

 独り言つような口調でもってそう言ったオレクサンドルの言葉通り、アパートメントのエレベーターは通電していないばかりか、そもそも人が乗るべきシャフト内の籠そのものが失われてしまっていた。おそらくは事故のどさくさに紛れてこの地にやって来た火事場泥棒の手によって持ち去られ、今頃は廃品業者に鉄屑として売り払われてしまったに違いない。

「でしたら、階段を利用するしか手段は無いのではないかしら?」

 オレクサンドルと共にアパートメントのエントランスに足を踏み入れたイライダはそう言うと、スズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま上階へと続く階段を駆け上り始め、オレクサンドルと二人の従僕ヴァレット達もまた彼女に続く。雲と雲の狭間から微かに差し込んで来る月明かりに照らされた階段は薄暗く、ガラスを失った窓越しに舞い落ちた小雪がうっすらと降り積り、一行の登攀を邪魔するばかりだ。

「八階……九階……十階。ここね」

 重力を無視するかのような、まるで宙を舞うかのような軽快な足取りでもって階段を駆け上がり、やがてアパートメントの十階に到着したイライダはそう言って足を止め、後続の到着を待つ。

「待ってくれよ、イライダ。魔女であるキミは平気なのかもしれないが、いくら若返っているとは言え、僕はキミ達とは違って何の力も持たない生身の人間に過ぎないんだ。こんなペースでもって階段を駆け上がり続けたりなんかしたら、肺と心臓が破裂してしまう」

 イライダに続いてアパートメントの十階に到着したオレクサンドルはそう言って呼吸を荒げ、その心臓は早鐘を打ち、今にも昏倒してしまいそうな塩梅であった。

「あらあら、オレクサンドルったら。あなた、もう少し身体を鍛えた方が良いのではなくて?」

 疲弊し切ってしまったオレクサンドルがぜえぜえと呼吸を荒げる一方で、そう言ってほくそ笑むイライダと彼女の二人の従僕ヴァレット達はてんで涼しい顔のまま、およそ十階分の階段を駆け上がったと言うのに汗一つ掻いてはいない。

「それで、あなたが住んでいた部屋はどこなのかしら?」

 暫しの間を置いてからイライダが問い掛けると、ようやく呼吸が整い始めたオレクサンドルは額に浮かぶ汗をダウンコートの袖で拭い、廊下の先を指差した。

「あっちだ。あっちの方角の奥から二番目の部屋に、僕と僕の家族は住んでいたんだ」

「そうですの。でしたらこんな所でもたもたしていないで、先を急ぎましょ」

 そう言ったイライダに先導されながら、彼女の使い魔であるスズメフクロウのプーフと若きオレクサンドル、それにアンドリーとボリスの四人と一羽は即席のパーティーを形成しつつ、アパートメントの廊下を歩き続ける。

「ここね」

 やがて廊下を渡り切ったイライダら一行は、かつてオレクサンドルとその家族が住んでいたと言う部屋の前で足を止めた。ところが火事場泥棒によって持ち去られてしまったのか、そこに在った筈の扉は蝶番ちょうつがいごと取り外され、アパートメントの廊下から玄関が丸見えの状態である。

「さあ、オレクサンドル。部屋の中を案内してちょうだい」

「あ、ああ」

 イライダに促されたオレクサンドルはごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めると、アパートメントの廊下から玄関へと足を踏み入れた。実に35年間もの永きに渡って風雨に晒され続けた室内は荒れ放題で、真っ黒なカビや染みだらけの壁紙は漆喰と共に剥がれ落ち、割れた窓ガラスの破片が床一面に散乱してしまっていて足の踏み場も無い。

「……ここで僕らは、家族揃って生活していたんだ」

 やはり蝶番ちょうつがいごと扉が持ち去られてしまったドア枠を潜り抜け、廊下からリビングへと至ったオレクサンドルは感慨深げな口調でもってそう言うと、周囲をぐるりと見渡した。するとガラスを失った窓から差し込んで来る仄かに青白い月明かりを頼りに、リビングから一続きになったダイニングとキッチン、それにバスルームの一部の様子がぼんやりと見て取れる。しかしながら、かつてはテーブルやソファ、それに冷蔵庫やテレビと言った家具や家電の数々が並べられていたであろうそれらの部屋はもぬけの殻でしかなく、火事場泥棒による略奪の徹底ぶりを如実に物語るばかりだ。

「ここに僕の椅子が、そしてこっちには子供用の小さな木製の椅子があって、その椅子に腰掛けたオクサーナに、いつも僕がベビーフードを食べさせてやっていたんだ。ああ、懐かしい……懐かしくて堪らない……」

 一身に幸福を享受していた往時の自分達の姿を思い出して感極まったのか、今となっては一切の痕跡が残されていないダイニングの随所を指差しながらそう言ったオレクサンドルの瞳に、うっすらと涙が滲む。

「ねえ、オレクサンドル。わたくしはどの部屋の時間と空間に干渉し、過ぎ去りし日々の光景を再現すればよろしいのかしら? 出来ましたら思い出に耽るのはその点をご教示願った後にしていただけますと、助かるのですけれど?」

 しかしながら冷静と冷淡を旨とするイライダは皮肉交じりにそう言って、感極まったオレクサンドルの涙に水を差す事を躊躇ためらわない。

「……え? あ、ああ、そう言えばそうだったね。それじゃあこのリビングの時間を巻き戻し、チェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こした当日の正午頃を再現してもらえるかな?」

 気を取り直したオレクサンドルがダウンコートの袖で涙を拭いながらそう言うと、もぬけの殻となったリビングの中央に立ったイライダは頭上に右手を掲げ、その指をぱちんと打ち鳴らした。すると彼女を中心とした周囲の空間の時間が巻き戻り始め、剥げ落ちていた壁紙や漆喰が再び壁面を覆い、風雨に晒され続けた事によって生じたカビや染みと言った経年劣化もまた消え失せる。そしてたっぷり35年間分の時間が巻き戻ったかと思えば、チェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を引き起こした1986年4月26日の正午過ぎになると、大小二つの人影が室内に姿を現した。大きい方の人影は長く艶やかな金髪が美しい妙齢の女性であり、キャビネットの上に置かれた電話の受話器を握る彼女の背後では小さい方の人影、つまり未だ三歳か四歳くらいの女の子がソファに腰を下ろしながら熱心に絵本を読んでいる。

「カチューシャ……それに、こっちはオクサーナか? ……ああ、オクサーナがこんなに小さい!」

 オレクサンドルは感慨深げな口調でもってそう言うと、時間が巻き戻された事によって略奪される以前の姿を取り戻したリビングとそこに住む家族を前に感極まり、再びその瞳に涙を滲ませた。

「こちらの方は随分と真剣な面持ちですけれど……電話の相手は、果たしてどこのどなたでして?」

 オレクサンドルがカチューシャと呼んだ妙齢の女性、つまり彼の妻であるエカテリーナはその美しい顔に鬼気迫る表情を浮かべながら、受話器の向こうの人物の言葉に耳を傾けている。

「たぶん、電話の相手はこの僕だと思う。事故が起きたあの日の昼頃、夜勤だった僕は夕方まで発電所に残って事故の状況整理に追われていたんだが、その際に一度だけ自宅に電話を掛けたんだ」

 オレクサンドルがそう言って、イライダの疑問に答えた。

「あら、そうですの。でしたらオレクサンドル、あなたはこの時の電話でもって、あなたの妻であるカチューシャに何を伝えたのかしら?」

 イライダが改めて問うと、オレクサンドルは暫し逡巡した後に、35年前の記憶の糸を手繰りながら返答する。

「僕の記憶が確かならば、チェルノブイリ原子力発電所の四号炉が爆発したと言う事実を、包み隠さずカチューシャに伝えてしまった筈だ。今にして思えば、本当に馬鹿な事をしたもんだよ。発電所からの電話は全て盗聴されていたと言うのに、そんな事も忘れて、国家の威信よりも家族の身の安全を第一に考えてしまったのさ」

「盗聴? それは、どなたによって?」

「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の関係機関、それに国家保安委員会KGBのどちらか、もしくはその両方によってさ。とにかく当時のソヴィエト連邦内の公共機関の電話は、全て盗聴されていると考えた方がいい。それなのに僕は、機密扱いだった発電所の爆発事故の詳細を、よりにもよってその発電所内に設置された公衆電話でもってべらべらと喋ってしまったんだ。本当に、後悔してもし切れない」

 そう言ってオレクサンドルはかぶりを振るが、イライダの疑問は尽きない。

「それで、事故の詳細を告げられたカチューシャは、一体どのような反応を示されたのかしら?」

「カチューシャはこう見えても、学生時代には僕と一緒にハリコフ国立大学で物理学を専攻し、何であれば僕よりも成績優秀な才女だった。だから爆発事故の事を告げると、その深刻さと危険性を即座に理解したよ。だから僕は彼女に、ポタシュームイオディンを用意するように言ったんだ」

「ポタ……何ですの、それは?」

「ポタシュームイオディン。いわゆる『安定ヨウ素』と呼ばれる錠剤の一種さ。爆発した四号炉の炉心が露出し、大気中に飛散した放射能の内の大部分は放射性ヨウ素131と放射性セシウム134、それに放射性セシウム137とストロンチウム90の、主に四種類だ。これら四種類の放射能の中でも放射性ヨウ素131は経口摂取でもって人体に吸収され、甲状腺で蓄積された挙句、重篤な内部被曝を引き起こしてしまう。だから害の無い安定ヨウ素であるポタシュームイオディンを先回りして服用する事によって、放射性ヨウ素131の吸収を阻害しなければならない。さもなくば、遠からず甲状腺癌を発症してしまうに違いないからね」

「なるほどねえ、あなたがそのポタシュームイオディンとやらを用意するように言いつけた根拠は、理解出来ましてよ?」

 イライダはそう言って得心し、白くか細い首を静かに縦に振った。彼女の隣では幻のカチューシャが受話器を握ったまま、その受話器の送話口に向かって何事かを怒鳴り続けているものの、イライダの魔術では当時の音声までは再現出来ない。しかしながら彼女の夫であるオレクサンドルが、その辺りの事情を説明してくれる。

「とは言え、たとえ原子力発電所で働く電気技師であったとしても、一介のプリピャチ市民に過ぎない僕の家にそんな特殊な薬物の錠剤が備蓄されている筈もなくってね。勿論言うまでも無い事だが、ポタシュームイオディンは街の薬局にも売ってはいない。だから僕は、何とかして発電所の医務室からポタシュームイオディンを手に入れて帰るから、それまでは放射能から身を守るために家の中でジッとしていろと命じたんだ。それなのに、ああ、それなのに……」

 沈痛な面持ちでもってそう言ったオレクサンドルはがっくりと肩を落とし、項垂れ、言葉を失ってしまった。

「その様子ですと、カチューシャはあなたの言いつけを守らなかったのね?」

 イライダがそう言って問い質せば、肩を落としながら項垂れてしまっていたオレクサンドルはゆっくりと顔を上げ、重い口を開く。

「ああ、その通りだよ、イライダ。事故の状況整理に追われた僕が夜になってからようやく帰宅してみると、カチューシャの姿はどこにも無く、真っ暗なリビングの中央で小さなオクサーナだけがわんわんと泣いていたんだ。つまり放射能の恐ろしさを誰よりも熟知していたカチューシャは、僕とオクサーナを見捨てて、一人でさっさとプリピャチから逃げ出してしまったのさ」

「そうなの、カチューシャはあなた方親子を残して姿を消してしまったのね。それで、その後のカチューシャの足取りは追えて?」

「いいや、散々手を尽くして探したが、あの女の消息は未だに不明のままだ。きっと今頃はどこか放射能に汚染されていない安全な国に逃げおおせて、身分を偽ってのうのうと暮らしている事だろうさ。まったく、薄情な女だよ」

 口惜しそうに歯噛みしながらそう言ったオレクサンドルは、天を仰ぎつつかぶりを振り、脳裏に浮かぶカチューシャとの思い出を忘れ去ろうと試みた。だがしかし、脳髄に染み込んだ記憶がその程度の行為でもって消え失せてくれる筈もなく、むしろ瞼の裏に浮かぶカチューシャの笑顔が鮮明になるばかりである。

「あら、どうやら電話が終わったみたいね」

 やがてそう言ったイライダの視線の先で、口をぱくぱくと動かしながら無音のまま怒鳴り続けていた幻のカチューシャが受話器を置き、彼女の背後で絵本を読んでいるオクサーナの元へと歩み寄った。そしてオクサーナの肩を抱いたカチューシャは、絵本から眼を離した娘に何かを言い聞かせているものの、その内容をうかがい知る事は出来ない。

「カチューシャがオクサーナに何を言い聞かせているのか、オレクサンドル、あなたには想像出来て?」

「さあね、知りたくもない。でもきっと、僕が帰って来るまで部屋から出るなとか、そんな事を言い聞かせているんだろうさ。プリピャチから一人で逃げ出すのに、小さな子供が一緒だと邪魔だからね」

 彼女の夫であるオレクサンドルがそう言いながら深い溜息を吐く一方で、幻のカチューシャは小さなオクサーナに何事かを言い聞かせ終えると、リビングから出て行ってしまった。

「あら、どこに行くのかしら?」

 そう言ったイライダがカチューシャの後を追えば、彼女は寝室で身支度を整えてから廊下を渡り、玄関へと足を向ける。

「やっぱりオクサーナを置いて逃げるつもりなんだな、この売女め!」

 オレクサンドルは舌打ち交じりにそう言って罵倒するが、イライダの着眼点は違う。

「しかし遠出をするにしては、あまりにも軽装過ぎるのではなくて? 都会の成人した女性が化粧品も着替えも持たず、そこまで遠くに逃げようなどと考えるものなのかしら?」

「言われてみれば、確かにそうだが……」

 イライダの指摘に、オレクサンドルはもごもごと口籠った。そして小さなハンドバッグ一つを手にした幻のカチューシャが、やはり幻の玄関扉を潜ってアパートメントの廊下へと姿を消したので、イライダら四人と一羽もまた彼女の後を追う。

「さあ、オレクサンドル。カチューシャがこれから一体どこに行くのか、その行方を最後まで見届けましょ? でないとあなたが彼女に対して抱いている疑念を晴らす事も、もしくは疑念が事実であったと証明する事も、そのどちらも出来なくってよ?」

 冷笑するような口調でもってそう言ったイライダを先頭に、彼女ら一行は、オレクサンドルとその家族が暮らしていた部屋を後にした。時間と空間に干渉するイライダの魔術はもはや部屋そのものではなく、廊下を歩くカチューシャと、その周囲にこそ展開されている。すると幻のカチューシャはアパートメントの廊下を足早に渡り切り、エレベーターの籠に乗り込んだかと思えば、今度は階下へと姿を消してしまった。

「まったく、忙しいったらないじゃない」

 やはりそう言ったイライダに先導されながら、四人と一羽は幻のエレベーターに乗ったカチューシャを追って、来た道を引き返すようにしてアパートメントの階段を駆け下り始める。とは言え、ノスフェラトゥのイライダとその従僕ヴァレットであるアンドリーとボリスはともかくとしても、生身の人間に過ぎないオレクサンドルは割れたガラスの破片や崩れ落ちたコンクリートの瓦礫に足を取られてしまい、それらが散乱する階段を思うように駆け下りる事が出来ない。

「どうしたのかしら、オレクサンドル? 急がないと、カチューシャを見失ってしまいましてよ?」

「そんな事言ったって、僕の足ではこれが限界だよ!」

 まるで宙に浮くような軽快な足取りのイライダに急かされたオレクサンドルは、彼女の後を追いながら弱音を上げ、今にも瓦礫や雪に足を取られて転倒してしまいそうだ。

「あらあら、手が掛かるお爺ちゃんねえ。ボリス、どうやらオレクサンドルが抱っこをご所望らしくてよ?」

「かしこまりました、イライダ様」

 イライダの真意を即座に汲み取ったボリスはそう言うと、ほんの少しだけ足を速め、オレクサンドルの背後へとそっと忍び寄る。そしてもたもたと覚束無い足取りの彼の背中と膝の裏に素早く腕を回し、いわゆる『お姫様抱っこ』の体勢でもって、若きオレクサンドルの華奢な身体を抱え上げてみせた。

「うわっ?」

「喋らないでください。舌を噛みます」

 忠告されたオレクサンドルは、舌を噛まないように上下の歯を固く閉じ合わせ、口をつぐむ。すると彼を抱え上げたボリスは先行するイライダの後を追いながら、やはり体重をまるで感じさせない軽快な足取りでもって階段を駆け下り続け、気付けばアパートメントの一階のエントランスへと達していた。そしておよそ十階分の階段を駆け下りながら汗一つ掻いてはいないイライダと二人の従僕ヴァレット達、ボリスの腕から地面へと降り立ったオレクサンドル、それにスズメフクロウのプーフの四人と一羽の眼の前で現実には存在しないエレベーターの扉が開き、幻のカチューシャがその姿を現す。

「随分と急いでいるようね」

 そう言ったイライダらの視線の先で、エレベーターを降りた幻のカチューシャは鬼気迫る表情を維持したまま、やはり足早にエントランスを横切ってアパートメントから退出した。そして小雪が舞う空の下、南東の方角に向かって小走りでもって駆け出し始める。

「この時、プリピャチの大気中には眼に見えない放射能が大量に飛散していた筈だ。そんな状況下で走ったりなんかしたら、鼻や口から微細な放射能を吸いこんでしまい、内部被曝を避けられない事くらいカチューシャは知っていただろうに」

 イライダと共にカチューシャの後を追いながら、オレクサンドルはそう言って首を傾げた。放射能の怖さを重々承知しているにしては、彼の妻であり、また物理学を専攻する学生でもあったカチューシャの行動は軽率に過ぎる。しかしその間もカチューシャは街路を歩き続け、建ち並ぶアパートメント群の脇を通過すると、やがてプリピャチの敷地の外へと足を踏み出した。

「このまま街道を真っ直ぐに進むと……」

「ええ、チェルノブイリ原子力発電所の方角じゃないかしら?」

 オレクサンドルの呟きに対してそう言って相槌を打ったイライダら一行は、前を行く幻のカチューシャを追いながら、街道を歩き続ける。すると1㎞も歩かない内に、彼女は街道沿いに設置された検問所で足止めされてしまった。どうやら軍や警察や消防と言った公的機関、もしくはチェルノブイリ原子力発電所の職員しかこの先の区画に足を踏み入れる事が出来ないらしい。

「無理だよ。事故の十二時間後には、軍による規制線が敷かれてしまっているんだ。いくら夫が関係者だからって、一介の電気技師の妻が正面出入口からチェルノブイリ原子力発電所の敷地内に侵入する事は許可されない」

 オレクサンドルがそう言って解説する間も、幻のカチューシャは彼女の前に立ちはだかる軍人達を相手に喧々諤々の口論を繰り広げていたが、やがて踵を返して検問所を後にした。そしてこちらへと引き返して来るカチューシャの顔には、怒りと失望の色が如実に見て取れる。

「どうやら、検問は通過出来なかったみたいね? これで諦めて、街に戻るつもりなのかしら?」

 スズメフクロウのプーフを肩に乗せたままそう言ったイライダやオレクサンドル、それに二人の従僕ヴァレット達は、彼女らの脇を文字通りの意味でもって素通りしながら歩き続ける幻のカチューシャを再び追跡し始めた。するとカチューシャは街の出入り口の手前で、検問の兵士達の眼が届かなくなった事を確認すると左折し、今度は南西の方角へと進路を変える。

「? この道、覚えがあるぞ?」

「ええ、以前この地を訪れた際にゲンナジーの車で通った、赤い森へと続く道ね」

 そう言ったイライダの言葉通り、真南の方角へと進路を変えたカチューシャは、やがて赤い森の中へと足を踏み入れた。

「一体どこに行く気なんだ、カチューシャの奴は?」

「さあ、どこかしらね。それをはっきりさせるためにも、彼女の後を追うのでしょう?」

 オレクサンドルの疑問に答えたイライダがそう言いながら森の中に足を踏み入れようとすると、彼女の従僕ヴァレットであるボリスがそっと耳打ちするような格好でもって忠告する。

「イライダ様、これ以上この件に深入りなさるのは如何なものかと……」

 しかしながらイライダは、このボリスの忠告に耳を貸さない。

「あら、ボリス。身の程もわきまえずにこのわたくしの行動に口を挟むだなんて、あなたも随分と出世したものね? それとも何かしら? 今のあなたの呟きは、わたくしの聞き間違いでして? どうなの、ボリス?」

「……申し訳ありません、イライダ様。ご気分を害されたのであれば、心から謝罪いたします。私の出過ぎた真似を、どうかお許しください」

 ボリスは居住まいを正してかしこまりながらそう言うと、機嫌を損ねた彼の女主人に向けて、うやうやしくこうべを垂れた。

「分かればよろしくてよ、ボリス。さあ、それではカチューシャの追跡を再開しようじゃないかしら?」

 冷静かつ冷淡な口調でもってそう言ったイライダを先頭に、彼女ら四人と一羽は先行するカチューシャの後を追いながら、宵闇に沈む赤い森の中を歩き続ける。

「いくら事故当時の季節が春であったとは言え、あんな靴でもって一人で森の中まで足を踏み入れるのは、極めて危険だったでしょうに」

 そう言って彼女の身を案じるイライダの言葉通り、前を歩く幻のカチューシャはヒールの高い革のパンプス履きで、碌に舗装もされていない森の中では足元が危なっかしくて仕方が無い。そして小半時が経過し、遂にカチューシャが森の最深部に足を踏み入れた頃になってから、不意に彼女は立ち止まった。そしてきょろきょろと首を巡らせながら、周囲の状況をうかがう。

「あら? どうしたのかしら?」

 不審がるイライダら四人と一羽の視線の先で、幻のカチューシャは舗装されていない獣道同然の林道から外れたかと思うと、鬱蒼と木々や雑草が生い茂る森の只中へと足を踏み入れた。そして10mばかりも林道から外れた針葉樹の狭間でくの字に腰を曲げたかと思えば、人の手が届かない雑草と苔に覆われた地面に向かって、胃の内容物をげえげえと吐き出し始める。

「誰も見ていないと言うのにわざわざ道を外れてから嘔吐するだなんて、まったく、女のたしなみと言うのは厄介なものね」

 イライダはそう言うが、彼女の隣で幻のカチューシャの様子を観察するオレクサンドルの疑問は尽きない。

「この時、赤い森にはチェルノブイリ原子力発電所の方角から吹いて来た風に乗って、木の葉の色が変わるほどの大量の放射能が降り注いでいた筈だ。それらの放射能による急性放射線障害が、カチューシャが嘔吐している原因なのか? いや、それにしては症状が現れるのが早過ぎる気がしなくもないが……」

「もしかしたら、悪阻つわりの可能性も考えられなくて?」

 そう言ってイライダが仮説を唱えると、疑問を呈したオレクサンドルは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をこちらに向ける。

「え? それってつまり……」

「カチューシャはこの時、妊娠していたと言う事よ。それともオレクサンドル、彼女の夫であるべきあなたには、一切の心当たりが無いのかしら?」

「いや、心当たりが無い訳じゃないけども……まさか彼女が妊娠していただなんて……そんな事が……」

 頭を抱えながら狼狽するオレクサンドルを他所に、やがて胃の内容物を全て吐き出し終えた幻のカチューシャは、ここまで歩いて来るのに利用した林道まで引き返そうと踵を返した。そしてふらふらと覚束無い足取りでもって一歩を踏み出したところで、不意に事件は起きる。彼女が履いていた革のパンプスのヒールが野放図に生い茂った針葉樹の根っこに引っ掛かり、咄嗟に手を突いて受け身を取る間も無く、勢いよく前のめりに転倒してしまったのだ。

「カチューシャ!」

 咄嗟に彼女の名を叫びながらカチューシャの元へと駆け寄ったオレクサンドルは、かつての妻を抱え起こそうと手を差し伸べるも、その手は幻の身体をすり抜けるばかりで手応えが無い。

「カチューシャ? おい、カチューシャ? どうした?」

「あら、どうしたのかしら? 様子が変ね?」

 森の最深部で転倒したカチューシャが地面に倒れ伏したままなかなか起き上がろうとしないので、オレクサンドルとイライダはそう言って互いの顔を見合わせながら、一体彼女の身に何が起きたのだろうかと不審がる。いくら急性放射線障害の症状が現れていたとしても、こうもあっさりと、殆ど何の前触れも無いまま頓死するとは考えられない。するとうつぶせの状態で突っ伏したままのカチューシャの喉元を中心に、木の葉が堆積して出来た腐葉土状の地面を真っ赤な鮮血がじわじわと濡らし始め、やがて小さな血溜まりを形成する。

「カチューシャ!」

 かつての妻の名を叫んだオレクサンドルの声が聞こえた訳ではないのだろうが、彼が声を張り上げてそう言った次の瞬間、幻のカチューシャはがばっと勢いよく起き上がった。起き上がった彼女の喉には長さ10㎝ばかりの傷口がぱっくりと口を開け、その傷口からあぶく状の鮮血が肺の収縮や心臓の鼓動に合わせてごぼごぼと噴き上がり、周囲の血管を圧迫して止血しようにも、どうにも手の施しようがない。そして地面に広がる血溜まりの中央に眼を向けてみれば、倒木となった針葉樹の枝が見て取れ、硬く鋭利なその先端が真っ赤な血に濡れている。つまりカチューシャは木の根につまずいて転倒した際に、運悪く、たまたまそこに在った倒木の枝の切っ先でもって喉を切り裂いてしまったのだ。

「カチューシャ! しっかりしろ、カチューシャ! ああ、糞! こんな時、僕はどうすればいいんだ!」

 切り裂かれた喉を押さえながら見る間に血まみれになる幻のカチューシャの姿に、オレクサンドルは泡を食った様子でもっておろおろと取り乱すが、眼の前で繰り広げられているのは35年前の光景なのだから如何ともし難い。

「ああ、カチューシャ! 死ぬな! こんな所で死ぬんじゃない! カチューシャ! カチューシャ!」

 悲痛な声でもって叫びながら彼女の身を案じるオレクサンドルの願いも空しく、顔面蒼白のカチューシャの意識は徐々に遠退き始め、今度は仰向けの体勢でもってその場に昏倒した。まるで糸が切れた操り人形の様に、鬱蒼と木々が生い茂る森の中に転がるカチューシャの肢体。彼女が身に着けている春色のニットのワンピースとコートは真っ赤な血で染まってしまっていて、もはや見る影も無い。そして最後に一際大きな血のあぶくをごぼっと喉から吐き出すと、カチューシャは誰に看取られる事も無く、一人寂しく息を引き取った。

「カチューシャ……」

「どうやらここがカチューシャ、つまりあなたの奥様の終焉の地のようね、オレクサンドル」

 冷静かつ冷淡な口調でもってそう言ったイライダ、そして頭を抱えて狼狽するばかりのオレクサンドルの足元に、彼の妻であったカチューシャの物言わぬ遺体が転がる。

「……イライダ、もういい。時間を巻き戻すのを止めてくれ」

 オレクサンドルが蚊の鳴くような声でもってそう言うと、イライダは頭上に掲げた右手の指をぱちんと打ち鳴らし、時間と空間に干渉する魔術を解除した。すると彼女らの足元に転がっていたカチューシャの遺体が消え失せ、木の葉が堆積して出来た腐葉土だけが残される。

「ここに、カチューシャが眠っているんだ……ここにカチューシャが……」

 譫言うわごとの様にぶつぶつと呟きながら、その場にひざまずいたオレクサンドルは、幻のカチューシャの遺体が転がっていた箇所の地面を素手でもって掘り返し始めた。人の手が入っていない森の最深部の腐葉土は柔らかく、スコップやシャベルと言った専用の道具が無くても掘り返し易い。そしてものの10㎝も掘り切らない内に、虫に食われてぼろぼろに朽ち果てたニットのワンピースとコートに包まれたカチューシャの白骨死体が、堆積した腐葉土の中からその姿を現した。

「カチューシャ……こんな姿になっちまって……」

 白骨死体の傍らにひざまずいたオレクサンドルはそう言って声を詰まらせ、両の瞳からぼろぼろと滂沱の涙を零れ落としながら、咽び泣き始める。

「どうやらこれで、はっきりしたのではないかしら? 今から35年前、カチューシャはあなたやオクサーナを見捨ててプリピャチから逃げ出した訳ではなく、チェルノブイリ原子力発電所を目指して森の中を歩いていた際に不慮の事故でもって亡くなったと言う事でしてよ?」

 やはり白骨死体の傍らに立ちながらそう言ったイライダに、オレクサンドルは嗚咽交じりに問う。

「だとしたらカチューシャは、一体何故、どうしてチェルノブイリ原子力発電所を目指したんだ? 僕は家の中でジッとしていろと命じたし、僕の命令に素直に従ってさえいれば、彼女は死なずに済んだのに!」

「さあ、何故かしらね。オレクサンドル、事故現場で働くあなたが心配で発電所まで様子を見に行ったか、それとも医務室に有ると言うポタシュームイオディンをオクサーナのために一刻も早く手に入れたかったか、その理由は今となっては謎のままね」

 小雪が舞う北風に吹かれながらイライダがそう言うと、オレクサンドルはその場にひざまずいたまま泣き崩れた。

「とにかく良かったじゃないの、オレクサンドル。あなたはこのわたくしとは違って、カチューシャに裏切られてはいなかった事が証明されたのだから。違って?」

「……ああ、確かにその通りだ。カチューシャは僕を裏切ってなんかいなかったんだ。それなのに、何も知らない僕は35年間にも渡って彼女を恨み続け、薄情者だとか裏切り者だとか言った言葉でもってカチューシャを罵り続けていただなんて……」

「どれだけ悔やんでみたところで、今となっては詮無い事よ。忘れなさい」

 そう言って命じたイライダが、今度はオレクサンドルに問う。

「それでオレクサンドル、これからあなたはどうするつもりなのかしら? いくら遺体が発見出来たとは言え、その全てをキエフに持ち帰る事は出来なくってよ?」

「そうか、確かにその通りだ。だったらせめて、これだけでも持って帰ってやろう」

 オレクサンドルは泥だらけの手でもって涙を拭いながらそう言うと、その手を再び腐葉土の中へと突っ込み、カチューシャの白骨死体の左手を掘り出した。そして皮膚と肉が削げ落ちて真っ白な骨片と化した左手の薬指から、白金プラチナ製の結婚指輪をそっと取り外す。

「今の僕には、このくらいの事しか出来ないんだ。分かっておくれ、カチューシャ」

 カチューシャの結婚指輪を手にしたオレクサンドルは一頻り慟哭し、やはり泥だらけの手でもって再び涙を拭いながらそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

「どうかしら、オレクサンドル? そろそろ気は済んで?」

「ああ、そうだねイライダ。夢の中とは言えカチューシャの最期の瞬間にも立ち会えたし、彼女が僕やオクサーナを裏切った訳じゃない事も証明されたから、もうこれ以上思い残す事は無いよ。後はカチューシャの遺体をちゃんとした墓に埋葬出来れば完璧なんだが……そこまで贅沢は言ってられないか」

「ふうん、随分とあっさりしたものね? もっと取り乱すかと思いましたのに」

「あれからもう、35年も経ってしまっているからね。勿論これまで知り得なかった事実を知って驚いてはいるが、僕も棺桶に片足を突っ込むほど耄碌もうろくした身だ。たとえどんな結末が待ち受けていようとも、カチューシャは二度と僕の元には戻って来ない事くらい覚悟していたよ」

 オレクサンドルがそう言うと、イライダはくすくすとほくそ笑みながら彼の右手を指差す。

「あら、何を言っているのかしら? カチューシャでしたら、もうあなたの元に戻って来ているのではなくて?」

「え?」

 驚いたオレクサンドルがイライダに指差された右手に眼を向けると、そこにはカチューシャの遺体から取り外した結婚指輪が握られていた。

「ああ、そうか……確かに、そうなのかもしれないね」

 何かを悟ったかのような口調でもってそう言ったオレクサンドルは、掌の上の結婚指輪をぎゅっと握り締めると、その手を額の高さに掲げながら亡き妻の冥福を祈る。

「それではオレクサンドル、そろそろこの辺りで、キエフに帰る事にしてもよろしいかしら? こんな森の中を歩き続けたものですから、わたくし、もういい加減疲れてしまいましたの」

 イライダがそう言って問い掛けると、問い掛けられたオレクサンドルは無言のまま首を縦に振った。そこで彼女ら四人と一羽は腐葉土を踏み分けながら倒木やくさむらを乗り越え、ここまで歩いて来るのに利用した林道まで取って返すと、イライダは右手を頭上に掲げる。だがしかし、ぴんと立てられた人差し指によってキエフに帰るための円環が虚空に描かれる直前、彼女の肩に留まったスズメフクロウのプーフが全身の羽毛を逆立てつつほうと鳴いた。

「どうしたの、プーフ?」

 自身の使い魔にイライダが問えば、林道の先、鬱蒼と生い茂る針葉樹の陰から何者かの声が届く。

「探したぜ、イライダ。お前、こんな所で一体何してやがった?」

 その声が発せられた方角に眼を向ければ、宵闇に沈む赤い森の真っ暗闇の中で、小さな赤い光がぼうっと瞬いた。そこに佇む何者かが口に咥えた安煙草の葉が燃焼する際の、微かな光である。

「まあ、お前がここで何をしていようと、あたしがこれからする事には何の影響も与えないがな」

 そう言って安煙草の煙をくゆらせながら姿を現したのは、修道服に身を包んで左眼に眼帯を当てた長身の白人女性、つまりウクライナ正教会モスクワ聖庁の武装修道女たるネクラーサ・スカチェフであった。

「ネクラーサ……」

 予期せぬ天敵の出現に、イライダと彼女の二人の従僕ヴァレット達は、眼前のネクラーサを睨み据えながら身構える。

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