第九幕


 第九幕



 イライダら四人と一羽が夜のプリピャチとチェルノブイリ原子力発電所を訪れてから数日後、黒一色のネクタイを締めた喪服姿のオレクサンドルは、キエフ市内を流れるドニエプル川から程近いペチェールシク大修道院の墓地の一角に立っていた。彼の娘であるオクサーナもまた涙の滲む目頭をハンカチで拭いながら父の隣に立ち、その周囲には、およそ十数人ばかりの親戚縁者達の姿もまた見て取れる。

「それでは故人の血縁者を代表し、オレクサンドル・カルバノフ氏に式辞を述べていただきます」

 やがて振り香炉でもって乳香を焚きながら祈りを捧げていた司祭がそう言って、棺を囲む葬儀の列席者達の中からオレクサンドルを指名した。指名されたオレクサンドルは重々しい足取りでもって一歩前に進み出ると、頑丈なモミの木で出来た棺の前に立ち、暫しの間を置いてからゆっくりと口を開く。

「……故人であるペトロ・イヴァーノヴィチ・ゼレンスキーは愛されて然るべき我が従弟であり、また同時に、掛け替えのない最良の友でもありました。今から68年前の1953年にルーツクの街で生まれた彼は、歳が近かった私と共にそこで育ち、やがて警備員の職を得てプリピャチへと移住します。私達二人はチェルノブイリ原子力発電所で肩を並べて働きながら、当時の祖国、つまりソヴィエト社会主義共和国連邦に奉仕する事に何の疑問も抱いてはおりませんでした」

 そこまで言い終えたところで、オレクサンドルは一旦言葉を切った。そして沈痛な面持ちでもって棺を見つめながら、再び口を開く。

「……しかしながら、皆様もご存じの通り、私達が働くチェルノブイリ原子力発電所は決して忘れ得ぬ史上最悪の爆発事故と環境汚染を引き起こしてしまいました。そして事故処理作業者リクビダートルの一員として除染作業に従事したペトロは高い線量の放射能でもって被曝し、職務を全うしてキエフに避難した後も、全身に転移した悪性腫瘍と白血病によって苦しみ続ける事になります」

 今にも小雪が風に舞いそうな曇天の空の下、滔々と式辞の言葉を口にするオレクサンドルも他の列席者達も、墓地を見下ろす針葉樹の枝に留まった何者かの視線に気付いてはいない。そしてその何者か、つまりスズメフクロウのプーフはこちらの様子をつぶさにうかがいながら、小さな声でもってほうと鳴いた。

「これプーフ、もっとちゃんと前を向いていてちょうだいな。でないとわたくしの耳に、オレクサンドルの声が届かないじゃないの」

 墓地から遠く離れたキエフ郊外に建つ邸宅の、窓と言う窓が戸板でもって塞がれた真っ暗な居室の中からイライダが命じると、彼女の使い魔であるプーフは羽毛を繕うくちばしの動きを止め、ジッと前を見据える。太陽からの直射日光が降り注ぐ日中は出歩けないイライダは、視神経によって伝達される電気信号を一時的に共有したスズメフクロウのプーフの眼を通しつつ、ペトロの葬儀の様子を垣間見ているのだ。

「……それでは最後に、私の率直な心の声でもって、式辞を締め括らせていただきたく思います」

 イライダが聞き逃していた間にも葬儀は粛々と進行し、やがてオレクサンドルによる式辞もまた佳境を迎える。

「……我が最愛なる従弟にして最良の友ペトロよ、願わくば天国にあっては健やかなる肉体を取り戻し、決して病に苦しむ事無く永遠の喜びを享受せん事を、心から祈らん。神の祝福のあらん事を。アミン」

「アミン」

 ウクライナ正教会に於ける肯定を意味する言葉を列席者一同でもって復唱し、厳粛な葬儀の幕は閉じた。そしてあらかじめ重機によって掘られていた墓穴の底へと棺が吊り下ろされる直前、埋葬業者も兼ねた墓守の男の元へと歩み寄ったオレクサンドルが、恐縮しながら懇願する。

「今頃になってこんな事を言うのもなんだが、納棺し忘れていた故人の思い出の品があるので、少しだけ棺の蓋を開けてはくれないものだろうか。勿論無理にとは言わないが、そこをなんとか、頼む」

 オレクサンドルに懇願された墓守の男は重機を操縦する手を止め、少しばかり面倒臭そうな顔をしながらも、一旦地面に下ろした棺の蓋の上半分を開けてくれた。白日の下に晒された棺の中では礼服姿のペトロの遺体が横たわり、彼の死を惜しむ人々によって手向けられた色とりどりの生花や思い出の品々と共に、二度と眼を覚ます事の無い永遠の眠りに就いている。

「すまんなペトロ、これを忘れていたよ」

 詫びの言葉と共にオレクサンドルが喪服のポケットから取り出したのは、中央に槌と鎌による意匠が施されたエナメル製の旧ソ連の勲章、つまり国家に貢献した模範的人民にだけ授与される赤旗勲章であった。

「これを忘れずに持って行かないと、あの世で待っている家族や友人達に自慢出来ないもんな」

 そう言ったオレクサンドルは、ペトロの遺体が着ている礼服の胸に赤旗勲章を縫い留めると、堰を切ったようにぼろぼろと涙を零れ落とす。そして遺体の頬にそっと触れ、滴り落ちた涙を指先でもって拭ったが、死後数日が経過しているペトロの肉体はまるで氷の様に冷たい。

「ペトロ、じゃあな。俺もすぐにそっちに行くから、先にあの世で待っててくれよ」

 遺族の代表でもあるオレクサンドルが別れの言葉を告げると、棺は閉じられた。そして墓守の男が再び重機を操り、重く頑丈な棺を墓穴の底へと吊り下ろす。

「それでは皆様、最後のお別れの時です。故人との思い出を胸に抱きつつ、土をお掛けください」

 やがて墓穴の底に棺が横たえられると、やはり振り香炉でもって乳香を焚きながら、葬儀の司会進行役も兼ねた司祭がそう言った。するとオレクサンドルを筆頭に、故人であるペトロの親戚縁者達がシャベルでもって土くれを掬い上げ、それを墓穴の中に次々と投じる。

「ペトロ叔父さん、あの世では病気が治って、どうか元気な姿でいますように」

 喉元に刻まれた大きな傷跡を隠すために、喪服の下にタートルネックのニットを着込んだオクサーナ。彼女もまたそう言って咽び泣きながら、墓穴に土くれを投じた。

「……ねえ、ペトロ」

 咽び泣くオクサーナが墓穴に土くれを投じる一方で、キエフ郊外の邸宅から使い魔の眼を通して葬儀の様子を垣間見つつ、イライダは呟く。

「あなたは本当に、心から満足しながら死と向き合えたのかしら?」

 物言わぬ死者に向けて疑問を呈したイライダは、頭上に掲げた右手の指をぱちんと打ち鳴らし、彼女の使い魔であるスズメフクロウのプーフとの神経回路の共有を解除した。そしてクイーンサイズのベッドの上に積み上げられたふかふかの毛布やクッションの山の中に潜り込み、窓と言う窓が塞がれた真っ暗な居室の片隅でそっと眼を閉じると、深く静かな眠りに就く。

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