【二十二】定義

 

 


 医学的には、自発的な呼吸の停止、心肺の停止、瞳孔の肥大化の三点を指標とし、不可逆的に停止したことを確認したのち、死の判定を下す。

 一方で、脳死という概念も存在する。心肺機能に問題はないが、脳幹を含む脳機能が全停止している場合に下される死の判断であり、賛否両論はありながらも、主に臓器移植の問題と隣接しながら、今も議論が続いている。


 人間を人間たらしめているものが脳なのだと仮定すれば、脳機能が停止した時点で死亡判定を下すのは、間違った判断ではないといえる。

 一方で、生命維持装置の力を借りながらも、肉体は健康だと考えるのであれば、脳死状態の人間は、まだ生きている。


 肉体か、脳か。医学的には二つの死が存在している。

 医学という一側面から見ただけでも、死には二つもの考え方が存在している。


「ショーペンハウアーは現世の他に、イデア界と呼ばれる本質的な世界が存在していると考えていた。個体の死はイデア界の仮象でしかなく、大した意味はないと捉えていた。いや……もっと古くを遡れば、ソクラテスは魂の不死を信じていた。魂と呼ばれるものは死を受け入れない。だから肉体の死は本質的な死ではない、と」

「……魂なんてあるはずないじゃないっすか」

「物理主義の観点から話せばそうなるね。だが、二元論的な見方をすれば、人間とは魂と身体が合わさってできているものだ。身体の機能が失われたとしても、魂が失われたとは限らない」

「くく……では魂はいつ死ぬのか、なんてことを考え出すと、キリがないね。目に見えないものの生き死にを考えるなんて、それこそ雲をつかむような話じゃないか」


 魂の有無については重要な問題ではないのだろう。

 重要なのは、死のとらえ方が人によって異なっていてもおかしくないということ。

 そして椎菜は、心肺が停止した状態を死んでいるとは認識していなかったということだ。


 彼女は嘘をついてなどいなかった。


 十七時二十分に森野の部屋を訪れて、

 椎菜に死んだ両親の話をして欲しくないと言っていた、舞花の言葉を思い出した。


『いい気分はしないと思いますから』


 鮎葉はあの言葉を、故人の話は彼女にとって辛い記憶だから、話題にあげないで欲しいという意味だと勝手に受け取っていた。けれど……実際は違ったのだ。

 椎菜は自分の両親がまだ生きていると思っている。そんな話は鮎葉を戸惑わせるばかりだから、聞かない方がよいという意味だったのだ。


「思えば違和感はありました。舞花さんはあくまで今回、ヘルプに入っているだけの役割のはずです。実際、ほとんどの給仕や対応をしていたのは椎菜さんでした。なのにどうして、森野さんの遺書を読み上げたのは舞花さんだったのか」


 森野さんの遺書は、自分が死んだ後に読み上げるよう注意書きが入っていた。だから、嘘のつけない椎菜には、読み上げることが出来ない。


「心臓が止まっても、人はまだ生きているなんて……。そんなことを、本気で、心から信じているってことっすか……?」


 実際、信じがたい話ではあった。

 故人はまだ、自分の心の中で生きている。

 彼を、あるいは彼女のことを思い出すたびに、自分の中で生き返る。

 あの人が残してくれた言葉が、辛い時や苦しい時、自分を励ましてくれているんだ。

 まるでまだ隣にいるようで、いつもいつも、勇気づけてくれているような気がするんだ。

 そんな言葉を耳にすることはあるけれど、だけどその人たちだって知っている。

 本質的には、その人は死んでいるのだということを。


「海外では珍しい話じゃないさ。例えばメキシコでは、人の死を深く悲しむことはない。葬式は非常に明るく、死んだ人間を見送る。彼らは天の上での第二の人生を信じているからね」

「だけど、ここは日本っすよ? そんなのって……」

「メキシコというのは、ひとつの例だよ。死に対する価値観は往々にして異なるという話さ」


 しかし一方で、絵上の言うことももっともだと鮎葉は感じた。死に関わる解釈は、当然周りの環境によって形作られ、その環境の土台となるのは、身を置いている国の風土である。

 だから恐らく、椎菜の思想に関わっている経験と言うのは、恐らく――

 多古島は続ける。


「さて、これで犯行時間は大幅に変わりました。森野さんと最後に会ったのは霊山さんで、その時間は十七時前後。三十分近くの空白時間が生まれ、アリバイの確認なども含めて、一から仕切り直さなくてはならなくなりました」


 多古島の目線を受けて、鮎葉はそっと立ち上がり、多古島の陰に隠れながら、椎菜の背後に回り込んだ。


「しかしその前に、念のため確認しておきたいことがあります。ねえ椎菜さん、もう一つだけ教えてください。あなたは――」



?」



 そこから先は、まさに怒涛の展開だった。

 椎菜の手が翻ると、メイド服の裾からサバイバルナイフを取り出した。

 一瞬、窓から差し込んだ日の光を反射して、ナイフの切っ先は勢いよく、椎菜の喉元に向かって跳ね上がる。

 多古島と鮎葉は同時に動いた。多古島は姿勢を低くし、椎菜の足元を崩して手元を狂わせにかかった。鮎葉は椎菜の手元に飛びついた。

 体勢が崩れ、ナイフの軌道が逸れて、椎菜の顔の横すれすれを銀色の軌跡が走った。

 鮎葉は手の中のほっそりとした手首がもがくのを、必死に押しとどめた。 

 そんな攻防が行われている背景で。


「姉さん、やめて!」


 舞花が叫び声をあげていた。

 椎菜の目線は、多古島でもなく、鮎葉でもなく、まっすぐに舞花の目を見据えていた。


「姉さん、あたしの話を聞いて」

「舞花、あなたはもう関わっちゃダメ」

「姉さん」

「私のことは放っておいてくれればいいから――」

「聞いてったら!」


 ずんずんと椎菜に近づいたかと思うと、両の手で彼女の顔を挟み、顔を近づけて、


「姉さんはもう十分頑張ったよ。これ以上苦しまなくていい、悩まなくていいんだよ」

「舞花……」

「芽々さんのメッセージ、本当はちゃんと届いてるんでしょ? 分かってるんでしょ? だからさ、姉さん……」


 囁いた。


「嘘をついて?」


 お願いだから……。

 最後の言葉は、宙に溶け込むほどに小さかった。


「あ……」と、椎菜は呆けたように声を漏らした。鮎葉の手の中で暴れていた手首の力が、すっと引いていくのが分かった。

 椎菜の手からサバイバルナイフを抜き取って、鮎葉は遠くへ投げた。床に転がるナイフの音が、空虚に部屋の中に響く。しかし椎菜はそれにすら気づいていないように、だらんと両手を下げて、浅く、呼吸を繰り返していた。

 少しの間をおいて、多古島が再度問いかける。


「椎菜さん、改めてお聞きします。あなたは森野さんを殺しましたか?」

「わ、わた、しは……」


 椎菜の唇が震えていた。


「わたし、は……」


 乱れた呼吸を整えて、下ろした手を、再度ぐっと握りしめて、


「私は……」


 そして椎菜は、笑って言った。



「はい、私が森野さんを殺しました」



 頬の上を、透明な涙が伝って落ちた。

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