【十五】回想
五年前。
多古島彩絵の家族は死んだ。
当時話題になっていた、連続強盗殺人犯に運悪く狙われてしまい、その時家にいた両親が命を落とした。
その日鮎葉は、多古島を誘って、少し離れたところにある娯楽施設で休日を過ごしていた。雪の降らない、黒くて冷たい夜だった。食事が終わった後、二人してマフラーに顔をうずめながら、海岸線をのたりのたりと歩いていた時。
多古島のスマホに電話がかかってきて……そして残酷な現実を知ることとなった。
警察から説明を受け、事情聴取を受けている間、一体彼女が何を考えていたのか、鮎葉は今でも分からない。号泣することも、怒りをあらわにすることもなく、努めて、努めて冷静に警察の話を聞き、しっかりはっきりと受け答えをしていた。あまりに彼女の対応が普通だったからか、その時事情を説明していた刑事が眉をひそめたほどだった。彼女を知らない人から見れば、まるで他人事のように状況を受け入れているように見えたことだろう。
しかし、鮎葉は気付いていた。
あの時、多古島の腹の奥では、憤怒とも憎悪とも言えない、なにか形容しがたい感情が、ぐつぐつと煮えたぎっていたのだろう。仮面を被ったように一部も変わることのない彼女の表情は、十年以上の付き合いがあった鮎葉ですら見たことのないものだった。
だからこそ、鮎葉は気付くべきだった。
その数日後、多古島から電話で、法医学にまつわるいくつかの質問を受けた。恐らく家族の死に関わることだろうと推測はしたものの、彼女なりの死の受け止め方なのかもしれないと、鮎葉はその質問に答えた。
連続強盗殺人犯の逮捕と、多古島が重傷を負ったという連絡を受けたのは、同じタイミングだった。
当時市内では、全く別の人物が関わっている猟奇殺人事件が頻発しており、警察は十分な人数を捜査にあてることが出来ていなかった。そのことに気付いていたのかは定かではないが、とにかく多古島は、警察よりも早く連続強盗殺人犯の正体を突き止め、単独で乗り込んだらしい。
結果として、彼女が事前に連絡をしていた警察の手によって犯人の身柄は拘束され、逮捕に至ったものの、先に乗り込んだ彼女は犯人の反撃を受け、病院に搬送されることとなった。
幸い、命に別状はなかった。
病院のベッドの上で目を覚ました多古島は、傍に控えていた鮎葉を見て、そしてそっと呟いた。
「先輩。私は間違っていませんよね?」
多古島の行動原理は、聞くまでもなく単純だった。
彼女の家族は唐突に死んだ。当然、遺書も遺志も、彼女に遺す暇などなかった。
それが彼女にとって、どれほどの辛さだったのか想像に難くない。最愛の家族が突然消え、後には何も残らない。その空虚さと向き合うことは、ひどく難しい。
だからこそ多古島は、家族の遺志を自ら定義した。
家族を殺した犯人を捕まえること。それこそが、家族が最期に望んだことであり、遺志であり、一つの弔いの形である、と。
本当は諫めるべきだったのだろう。
彼女の未来を思うのであれば、厳しく「お前は間違っている」と言うべきだったのだろう。
だけど、家族を失い、絶望と葛藤の境界線上で、かろうじて自分を保つ方法として自分なりの弔い方を選んだ多古島を、鮎葉は否定することができなかった。
「ああ、お前は正しいよ」
鮎葉が言うと、多古島は嬉しそうに笑った。
今でも夢に見るくらいに、鮮烈な笑顔だった。
以来、多古島は「弔い」に重きを置くようになった。
多様な分野の学問に手をつけて、あらゆる場所に顔を出し、そうしてひとたび事件に遭遇すれば、迷わず犯人を特定するために行動を開始する。それが死んだ人のためになるのだと信じて疑わず、そしてきっと……あの時自分が取った行動が間違っていなかったのだと、確信するために。
だからだろう。
つい先ほど、森野が残したボイスメッセージに、多古島はひどく動揺している。
「私は今、とても幸せです」
その言葉は、これまでの多古島の行動原理に反するものだった。
殺された人間が幸せなわけがない。
殺された人間が最期に残すメッセージは、犯人への恨みだけのはずだ。
それが彼女の拠り所だったのだ。
やはり付いて来てよかったと思った。
あの日から、鮎葉は決めていた。
例えそれが間違った選択だとしても、これから先何度でも「死」と関わり続ける多古島の傍にいて、彼女を肯定し続ける。
多古島が心に傷を負わないように。そしていざとなれば、自分が盾となって、多古島の身を守れるように。
それが、鮎葉が多古島にできる唯一のことだった。
「お前は間違ってない。大丈夫だ、自信を持て」
鮎葉が言うと、
「……じゃあ、手伝ってくれますか?」
「当たり前だ。これまでだってずっと、そうしてきただろ?」
「……そうですね」
そうでした、と。多古島は口の中で転がすように言った。
いつの間にか鮎葉の袖をつかんでいた多古島は、思い出したように手を離し、何事もなかったかのように、ぷらぷらと振った。
「調子、戻ってきたか?」
「何言ってるんですか? もともと調子なんて悪くないですけど」
「よく言うよ。さっきまであんなにへこんでたクセに」
「分かってませんねえ。あえてですよ、あえて。あまりにも先輩の活躍が少ないから、私がこうして気を遣ってあげたんじゃないですか。むしろ感謝して欲しいくらいですね」
「分かった分かった。お前の言う通りだよ」
ハッタリもふてぶてしさも、ここまで突き抜けるといっそ清々しかった。
「それにしても」
多古島は宙をかき混ぜるみたいに、くるりと人差し指を一周させた。
「冷静になって考えてみると、さっきの森野さんの言葉は、ちょっとおかしいですよね」
「そうか?」
「ええ。だって、思い出してみてくださいよ。森野さんが握っていた紙には、なんて書いてありましたか?」
そうだ、そもそも犯人を捜すきっかけとなったのは、森野が握りしめていた紙、そこに書いてあった一言だったではないか。
「――私は後悔している」
「その通りです。つまり彼女は死の直前には『後悔』し、死後は『幸せ』であったということになります。考えるまでもなく、これは矛盾しています」
「だけど……おかしくないか? あの紙に書かれていた筆跡も、もちろんボイスレコーダーに記録されていた声も、どちらも森野さんのものだったじゃないか」
筆跡に関しては遺書との照合を行い、すでに一致していることを確認している。
声紋の照合を行えるような機械はないが、椎菜や舞花も含めて八人もの人間が、別人の声と聴き間違えることはないだろう。
「一番に思いつくのは、あの声を記録した時と今日とで、考えが変わった、とかですが……。あんまりしっくりきませんね。何かを見落としてる可能性の方が高そうです」
眉間にしわを寄せ、唇をもにゅもにゅといじりながら、多古島は不満そうに続ける。
「うー……なんかこの事件、気持ち悪いんですよね……。劇自体は台本に沿ってちゃんと進行しているのに、観客席からポップコーンを投げつけられてる感覚っていうか……」
「なんだよその例え」
初めて現場を目撃した時といい、どうにも今日の多古島は、風変りな表現をすることが多いように思えた。
「私にもよく分かりません。そして、直感で分からないものをうだうだ考えていても仕方ありません。まずは現場検証。全部の情報が揃ってから、再度考え直しましょう……っと。どうやらしびれを切らして、誰かが迎えに来てくれたみたいですね」
扉がノックされ、ゆっくりと開かれた。
顔を出したのは霊山だった。
「あのー……お取込み中すみません……」
「いえいえ、こちらこそ勝手に出て行ってすみませんでした。もう皆さん、森野さんのお部屋に集まってますか?」
「はい、皆さん向かわれ始めています……。ただ、椎菜さんが倒れてしまって……」
「え?」
聞くところによると、多古島が出ていったその後すぐに、椎菜がその場で倒れてしまったらしい。十人近い人間の接待に、親代わりだった森野の死。彼女はずっと、気丈に振舞っているように見えたけれど……やはり、心労がたまっていたのだろう。
「今はお部屋で休んでもらってます」
「それがいいですね。明日、警察に連絡するまでに、少しでも回復していればいいんですが……」
「そうですね……。あ、それと」
霊山が続ける。
「私が来たのはその件を伝えたかったわけではなくて、ちょっと気になることがあったからなんです……」
「気になること?」
ずいっと一歩、多古島は霊山に近づいた。
「どんなことですか?」
「あのほんと……大したことじゃないかもしれないんですが……」
「構いません。どんな些細なことでも、今は情報が欲しいですから」
「えっと……そのですね……実は――」
そこで霊山は口をつぐんだ。
みるみるうちに、顔が青ざめていく。
鮎葉は少し顔を傾けた。
霊山の背中を、誰かが触っている。
静かに、舞花が佇んでいた。
「水木ちゃん。こんなところで何してるの?」
「ま、舞花ちゃん……」
「そんなとこにいたら、多古島さんたちの邪魔になっちゃうよ?」
ね? と微笑んで、舞花は霊山の袖を引っ張った。
多古島が声をかける。
「違うんです、舞花さん。実は――」
「た、多古島さん!」
しかし、霊山がそれを遮った。
舞花には聞こえないくらいの声量で、ぼそぼそと呟く。
「あの……また後ほど……」
そうしてそのまま舞花に引きずられるように、霊山は二階へと消えていった。
急な展開にぽかんと、ただ横に立って眺めていただけだった鮎葉は、多古島に問う。
「えっと……つまり、どういうことだ?」
「……分かりません。とにかく今は、二階に向かいましょう。話は全て、それからです」
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