【十六】恋の境界線
玄関を抜けて周囲に目を配ると、暗闇の中でじんわりと光る赤色を見つけた。近づいてみると、暗闇のグラデーションはやがて大柄な男性の形を成した。
月を見ているのかもしれなかった。
月を通して、在りし日のことを思い出しているのかもしれなかった。
どちらにせよ、背中からにじみ出た哀愁に、どこか近づきがたいものを感じた。
近しい人を失い、悲しみに暮れる人間への接し方は二つある。
事務的に接するか、そもそも話しかけないかだ。
鮎葉は往々にして後者を選択するのだけれど、今回ばかりはそうはいかなかったので、夜闇に浮き出た背中に話しかけた。
「万知さん、そろそろ時間です」
森野の部屋に向かった多古島と鮎葉は、しかし万知がまだ来ていないという報告を受けた。探しに行こうとする多古島を引き留めて、こうして鮎葉がその役を買って出たというわけだった。
「もう皆、集まっているのかな?」
「はい。準備はできています」
「そうか」
万知は鮎葉の顔を見ることなく、タバコをふかし続けた。
この二日間で、彼がタバコを吸っているところを、鮎葉は初めて見た。
「少しだけ、話して行かないかい?」
「でも……」
「一本、吸い終わるまでの間でいい。君もどうだい?」
鮎葉に喫煙の習慣はなかった。
ただ、相手と同じ行動を取ることには、それなりにメリットがある。近年日陰者になりつつある喫煙者であれば、なおさらのことだった。
「いただきます」
情報収集の一貫だと考え、鮎葉はタバコを受け取った。万知が付けてくれたライターの火を借り、煙を吸い込む。久しく入れていなかったからか、肺が痙攣し、せき込んだ。
「はは。さっき僕もそうなったよ。無理をさせたね」
「万知さんは、禁煙してたんですか?」
「うん。芽々君はタバコが嫌いだったからね。嫌煙家のフリをしていたのさ」
それだけで、万知がなぜここにいるのか、どうしてタバコを吸っているのか、十全に理解できた。
「君と多古島君は、どういう関係なんだい?」
万知の問いに、鮎葉は端的に答えた。
そしてその内容が、森野に説明した時と全く同じだということに気付いた。
しばしの沈黙の後、万知は口を開いた。
「君は、多古島さんに家の合鍵を渡せるかい?」
「合鍵、ですか……?」
少し考えて、まあいいかと頷いた。
家の中がぐちゃぐちゃにされそうで、そこだけは許容しがたいが。
「じゃあ例えば、明日までに終わらせなければならない大切な仕事があった時、彼女から悩み事を相談したいと電話がかかってきたら、君はどうする?」
また少し考えて「電話を優先します」と答えた。万知は満足そうに「そうかい」と言った。
「何の心理テストですか?」
「ん? 恋の境界線の話だよ」
少なくとも僕はそうだった。煙と共に、万知は夜空に向けて吹いた。
「僕は研究バカでねえ。自分の知的好奇心を満たすための時間を、他人に割くなんてとんでもない。愛だの恋だのなんて、その際たる例だ。バカげている。そう思ってたんだよ」
「少し、分かります」
「だけどね、椎菜君と舞花君を引き取りたい。どうしたらいいだろう、と泣きそうな声で電話をかけてきた時、僕は年甲斐もなく朝まで彼女の相談に乗ったものだよ。翌日の講演会の資料なんてそっちのけでね」
「それが初恋だったでことですか」
万知はこそばゆいように顔をしかめた。
「そんな瑞々しいものじゃなかったさ。だけどまあ、彼女と一緒に、姉妹を育てる気はあったね。あっさり断られたけどさ」
「……どうしてですか?」
「理由は教えてもらえなかったよ。ただ、『私が一人で育てたい』と言って聞かなかった。芽々君の真意は、結局最後まで分からなかったな」
タバコの灰がぽとりと落ちて、万知は吸殻をポケット灰皿に捨てた。鮎葉も最後に一口吸って、万知に倣う。
「君は、僕のようにはならないようにね。僕は彼女とは長い付き合いだったけど、色々と気付くのが遅すぎたから」
「勉強になります」
「はは、いけないね。歳を取ると、何かと若者に話をしたくなる。……さあ、戻ろうか。芽々君の死の真相を突き止めないとね」
万知は屋敷の方へ歩を向けた。
「それにしても、一人で探しに来るなんて随分と勇敢だねえ。もし僕が犯人だったら、どうするつもりだったんだい?」
「僕が殺されれば、万知さんが犯人であるとすぐにバレてしまいますからね。もし万知さんが犯人だとしても、そんな不用意なことはしないでしょう」
「なるほど、賢いね」
だからといって、安全が完全に保証されたわけではないけれど。
だからこそ、自分が来たわけだけれど。
それは言わなかった。
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