【十三】論理

 鮎葉は驚いて多古島を見た。

 まさかこんなに早く犯人が見つかるなんて……。

 しかし多古島は、人差し指を口に当て、「しーっ」と鮎葉にだけ見えるように合図を送った。「少し様子を見ましょう」。そう言っているように思えた。


「ところで一つ教えて欲しい。私が犯人だとする、その根拠は何だったかな。万知さん?」

「犯行が行われたと思われる時間に、君が誰にも目撃されていない時間帯があったからだよ。十七時半に近いほど、犯行が行われた可能性は高いと多古島君も言っていたし、君がフリーになっている時間帯はそこに合致する」

「なるほど、『誰にも目撃されていないから犯人である』。それが共通認識なわけだね」

「ああ、そうだ。それじゃあ教えてもらえるかい? どうして君は――」

「悪いがその前に、一つ訂正させて欲しい」


 コーヒーに口をつけて少し間を置き、続ける。


「私は十七時半に自室の窓から絵上君を見たと証言したが……あれは嘘だ。私はあの時間、誰も目撃なんてしていない」


 全員の動きが、一瞬固まった。

 突如新しく加わった情報を必死で処理し、考える。砂金の証言が嘘だったとすれば、一体どういうことになる? いや、そもそもどうして砂金はそんな嘘を……?


「だ、だったらなんだって言うんっすか?」

「くく、まだ分からないかな? 君はあの時間帯に、私にしか目撃されていないんだ。その証言が消えた今、君は誰にも目撃されていない。つまり、絵上君も犯人だ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 弾かれるように絵上が声をあげた。思わず立ち上がってしまったのだろう、ひっくり返りそうになった椅子をあわてて止めながら、絵上は抗議する。


「適当なこと言わないでくださいよ! 自分が犯人だってバレたからって、そんな、俺まで巻き込むような真似……!」

「別に巻き込んじゃいないさ。君たちが定義した前提に則れば、君も犯人になってしまうというだけの話だ」


 ああ、それとも。と砂金は続ける。


「そんなに私に目撃されたいのならば、嘘の発言は撤回しようか。うん、私は確かに君を見たよ。この目で、しかと、ばっちりとね。これで君のアリバイは成立だ。おめでとう、君の無実は確定だ」

「……は?」

「はてさて、しかし妙なものだ。私が犯人だとすれば、どうして全く関係のない君のアリバイを証明するのだろうね? 目撃したという証言は、すなわち容疑者を減らす行為じゃないか。犯人なら普通、そんな自分の首を絞めるような行為はしないよなあ。なあ舞花さん、君はどう思う?」

「あ、あたしですか?」


 急に話題を振られ、戸惑いながらも舞花は応える。


「え、えーっと……その、例えば砂金さんと絵上さんが共犯だった、とか……?」

「冗談じゃないっすよ!」


 絵上は声を荒げた。


「なんで俺が犯人だったり共犯者だったり、そんな滅茶苦茶なこと言われなきゃいけないんっすか! いいっすよ。だったら俺も、証言を撤回します! 俺が舞花さんを見たっていうのは、勘違いでした」

「ちょ、ちょっと絵上さん⁉」

「遠目だったし、チラッとしか見てないし、見間違いだった気がしてきました。どうっすか。それだったら俺だけじゃなくて、舞花さんも犯人になるってことに――」

「それくらいにしておきましょう」


 静かに多古島が言った。

 ぴたりと、喧騒が止んだ。


「もう満足ですか、砂金さん?」

「ああ、十分だ。後は任せるよ」


 砂金は余裕たっぷりに笑って言うと、背もたれに体を預けた。


「満足って……どういうことっすか?」

「そもそも、現時点では砂金さんを犯人だと断定はできないということです。誰にも目撃されていないからアリバイが成立しない。すなわち犯人である可能性が高い、という仮定は一見正しいように思えますが、それなりに穴もあります。砂金さんが仰ったように、犯人が誰かを目撃したと証言することは、容疑者を減らす行為につながります。そんなことをした理由はなんだろうか? もしかしたら共犯なんじゃないか? そこまで想像の手を伸ばすのは、今の段階では不毛な言い争いを生むだけです」

「じゃ、じゃあ砂金さんは、それを示すために、わざと自分が犯人だって名乗り出たってことっすか?」


 砂金は肩をすくめた。


「まあ、そういうことになるかな」

「だ、だったらそのまま言ってくれれば良かったじゃないっすか……」

「すまないね。どうにも性分なんだよ。相手を言いくるめる時には、衝撃的な事実から語り始めて、自分のペースに持ち込んでいく。証券会社で働いていたころは、このやり方でずいぶんと客に株を買わせたものさ。とはいえ、少々やり過ぎだった感は否めないね。場を乱したこと、謝罪しよう」

「い、いえ……俺も熱くなり過ぎました。砂金さんも、舞花さんも、すみません……」


 いいよいいよと、舞花は手を振った。

 どうやら無事に場は収まりつつあるようだ。多古島が言う。


「元々、この情報だけで犯人を特定しようとは思っていませんでしたから。監視カメラのように時間と行動が客観的に記録されていない限り、個々人の証言には不確実性が伴います」

「なら、そもそも聞く必要がなかったんじゃないかい?」

「そんなことは絶対にありません。情報の精度が悪いとしても、皆さんから集まった証言はとても貴重です。犯人特定のために、大いに役立つと思いますよ」


 一拍。


「だけど私としては、もう少し情報を集めたいんです。そこでどうでしょう? 次は一度、森野さんの部屋に戻って、皆さんで現場検証を行うというのは? 法医学に明るい先輩の見解を踏まえつつ、議論を交わせればと思うのですが、いかがでしょう?」


 反対する者はいなかった。多古島は満足そうにうなずいて、ぽんと一つ手を打った。


「それではその前に、少し休憩を挟みましょうか」



 鮎葉がトイレから戻ってくると、砂金と多古島が話をしていた。

 他の面々も、コーヒーを飲んだり、伸びをしたり、窓からぼうっと庭を眺めたりして、各々思うように過ごしている。


「さっきはすまなかったね、多古島さん。少々派手にやり過ぎた」

「いえ、おかげで私が説明する手間も省けました」

「それなら良かった。さすがの私も、自分が単独で犯人扱いされるのは勘弁して欲しくてね。つい熱くなってしまったよ」


 砂金の言葉が少し気になって、鮎葉は問いかけた。


「横からすみません。単独で犯人扱いっていうのは、どういうことですか?」

「なに、簡単な話だよ。今の段階では、全員に犯人となる可能性が等しくあるということさ」

「全員に、等しく……?」


 砂金は一つ頷いて、声を落とした。


「ああ。例えば絵上君は『十六時過ぎくらいから、庭の色んな所で、ずっと絵を描いていた』と言っていたね。森野さんの部屋にはルーフバルコニーが設えられていたはずだ。庭のあちこちを見て回り、登れる場所を探し当てたのであれば、私が目撃した後で、そこから侵入・逃走することも可能だっただろう。

 他にはそうだな、霊山さんなんかも怪しいな。君たちは確か、ずっとタコの話をしていたんだろう? ふふ……その図を想像するとかなり笑えるが、まあそれは置いておくとして。だとすれば彼女は、その間ならいつ会話を聞いていたとしてもおかしくはないわけだ。霊山さんにも自由に行動できる時間が少なからずあったことになる」

「それを言ってしまうと、私と先輩のアリバイも相当怪しいですけどね。霊山さんが声を聞いただけなんて、ぶっちゃけ怪しいにもほどがあります。録音していた音声を流してしまえばいいだけですし。私と先輩が共犯だと考えれば、自由に行動できた時間は誰よりも多いです」

「ははっ、自分でそう言い切れるのはメンタルが強いね。事件を客観的に観察している証拠だ」

「それは砂金さんも同じだと思いますよ」

「なあに、私は客観視しているというよりは、傍観しているだけなのさ。君とは違うよ。……話がそれたね。こんな感じで、現状は誰もが犯人になり得る状態なのさ。そんな中で私一人だけ犯人扱いされるのは、ちゃんちゃらおかしな話だと思った、というわけなのだよ、鮎葉君」

「なるほど、よく分かりました。しかしそうなると、本当に怪しくないのは、椎菜さんくらいということになりますね」

「ふむ、どうしてだい?」

「だって……彼女は嘘をつけないじゃないですか」


 彼女は犯行予測時刻にずっと厨房にいたと言っている。彼女は嘘をつけないのだから、その発言だけは信頼できるはずだ。


「くく、鮎葉君は善人だね。椎菜さんの言うことを百パーセント信じているなんて」

「砂金さんは信じていないんですか?」

 砂金は目をつむって、喉を鳴らして笑った。

「人間は元来、嘘をつく生き物さ。そして彼女は人間であり、そんな彼女が自分は嘘をつけないと言っている。はてさて、信じきるにはいささか根拠が足りないように思えるね」

「自己言及のパラドクスですか。ロジックとして成立させるには、それこそ設定が甘いような気もしますが」


 多古島が言うと、


「そこはそれ、物の例えというやつだよ。そういう君は信じているのかい、多古島さん?」

「分かりません。ただ、森野さんが殺される前から、椎菜さんが嘘をつけないという情報は出回っていました。他でもない森野さん自身からです。だとすれば、今回の事件で初めて嘘をつくというのは、考えにくいのではないかと」

「初めてだからこそ、嘘をついているとは考えられないかい?」

「もしそうだとすれば、彼女は十年近く、森野さんと舞花さんを騙してきたことになります。可能性は低いと思います」

「可能性がないとは言わないわけだ。あらゆる事象に可能性という重みづけをして、数ある選択肢の中から、最もそれらしい答えを選び取る。それが君のやり方なのだね。素晴らしく実用的だ」

「そんな大層なものではありませんよ」

「そう謙遜するもんじゃない。謙遜は美徳というが、美しい徳は時に誰かを傷つけるものだよ。美しさにせよ何にせよ、秀でたものは等しく鋭利だ」


 砂金は楽しそうに片目をつむった。多古島に向けたものなのか、あるいは鮎葉に向けたものなのか、判然としなかった。


「さて、普段使わない頭を回転させているせいか、脳が糖分を欲してしょうがないね。椎菜さんはいるかい? 何か茶菓子をもらえるかな」


 しばらくして、椎菜が配ってくれたクッキーをつまみながら、鮎葉は周りの会話にも耳をそばだてた。

 絵上と話をしていた舞花が、ふと霊山に話題を振った。


「そういえば、水木ちゃんだったっけ? 芽々さんの部屋で話していた時、芥川龍之介の『藪の中』の話題を出したのって」

「う、うん。私だけど……」


 宙を見つめて何か考え事をしていた霊山は、突然話題を振られて驚いたように答えた。


「なんか変なこと言ったかな……?」

「ううん、そうじゃなくてね。単純に、今の状況が『藪の中』に似ていて面白いなーって思ったんだ」


 藪の中。

 四人の目撃者と、三人の当事者の告白から、殺人と強姦という事件の真相を暴こうとする短編小説だ。物語の登場人物は、それぞれ自分の視点から事件について知っていることを語るが、全員の意見を統合すると矛盾が生じ、何が真実か全く分からなくなってしまう、という巧みな構成になっている。


「舞花君、芥川とか読むんだねえ」

「もちろんです。これでも国語の成績はそこそこ良いんですから」

「はは、なるほどね。ふむ、確かに僕たち全員が証言を終えても、犯人が全く特定できなかったとこなんかは、ちょっとシンパシーを感じるところがあるねえ。あれって結局、犯人は分からずじまいなんだっけ? 確かいくつか論文が出ていたと思うけど」

「色んな説があるみたいですが……結局は、男の自殺だった、とする説が濃厚だと聞いたことがあります。現場の情景描写から推察すると、妻と盗人が嘘をついていると判断するのが妥当だとか……」

「やるせない話だねえ。つまり、巫女が口寄せした男の死霊の証言が、最も正しいことを語っていたというわけか」

「そういうことになります。あ、あくまで一つの説ですが……」


 話題を聞きつけて、砂金も加わる。


「くく。だが、そう聞くと、なんとも真実をついているようにも思えるね。生きている人間は、保身のため、あるいは誰かのために飄々と嘘をつくだろう。しかし死んでしまえば、嘘をつく必要もない。死んだ後には、守る物など何もないのだからな」


 人は生きているから嘘をつく。死んでしまえば、嘘をつく必要などない。

 砂金の言葉は真実をついているようにも思えたし、しかし死後の人間だって、何か隠したいと思うことがあるのではないかとも鮎葉には思えた。

 藪の中の論議では、必ず誰かが嘘をついていることが前提になっている。全員の意見が食い違っているのだから、その前提は間違ってはいまい。


 しかし確か、殺された男が自分の名誉を守るために嘘をついている、という説もあったはずだ。あまりにも格好の悪い死に方をしたことを恥じて、自死したと嘘をついたとか。もちろん事の真相は分からないのだが……。ともあれ、


「まあどれもこれも、生きている人間の妄想。死んだ人間に聞いてみなくては分からないことだねえ。今回で言えば、死んでしまった芽々君が、事件の真相を語ってくれれば色々進展しそうだけど……。はは、誰か藪の中の巫女みたいに、死霊の口寄せができたり――」


 その時。

 舞花がばっと手をあげて、立ち上がった。

 突然の行動に、皆の目線が一斉に舞花に集まる。

 何を思ったのか、舞花はポケットからごそごそと森野の遺書を取り出し、それを広げた。


「えっと……。これより皆さんに、芽々さんの遺書の、二枚目をお聞きいただきたいと思います」


 ダイニングルームの空気が一気に張り詰めた。

 だって?


「そんなものがあったんっすか? なんでいまさら……」

「まあ落ち着こう、絵上君。舞花君、続きを」


 万知の言葉を受けて、舞花は遺書を読み上げる。


「この遺書は、芽々さんの死について語っている時に、『森野芽々は死後、何を考えているか』が議題に挙がった時、読み上げるよう明記してあります」

「……なるほど。芽々君らしいねえ」


 万知が呟いた。

 死後、死者が何を考えているのか。死を見る会のメンバーであれば、誰かが言い出しそうなことではある。しかし、最初からそれを明示してしまうのは、森野の本意ではなかったのだろう。あくまでメンバーが自発的に考え、その議論に至った時に、サプライズとして自分が登場する。森野の心遣いと、ちょっとした茶目っ気が、遺書からあふれ出るようだった。


 まるで彼女はまだ生きていて、どこか物陰に隠れて、自分たちの議論を聞きながら優雅に微笑んでいるようで、鮎葉は思わず周囲を見渡してしまった。

 椎菜を含め、誰もがこの展開は予想外だったようで、舞花の方を食い入るように見つめている。


 一つ咳ばらいをして、舞花は続ける。


「もし誰かが、私が死後何を考えているかを議題に挙げた時、同封したボイスレコーダーを再生してください。それを聞いて、皆さんが何を考え、どんな議論を交わすのか。少しでも有意義な議論の種火になれることを祈っております――だそうです。こちらがその、ボイスレコーダーです」


 細長い銀色のボイスレコーダをポケットから取り出し、舞花はそれを机の上に置いた。手のひらサイズの小さな機械が、どうしようもなく存在感を放っている。


「それでは、再生します」


 かちりと。

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