【七】最後の会話

 十六時を少し過ぎ、日が傾き、辺りがオレンジ色に染まり始めた頃、多古島と鮎葉は森野の部屋を訪れた。

 二階に上がって真っすぐ進み、他の客室とは少し設えの異なる、両開きの扉をノックする。「どうぞ」と声がした。


「失礼します」


 部屋に入った瞬間、室内の明度の高さに、鮎葉はしばし目を瞬いた。

 森野の部屋には正面左右に一つずつ、窓がついていた。その内の正面の窓から西日が差し込んでいて、室内を強烈な橙色で照らしていた。


「ふふ、ごめんなさい。少し眩しいですよね」


 そう言って森野は、カーテンを半分閉めた。


「この部屋、元々はルーフバルコニーだったスペースを半分使って作ったんです。日の光をたくさん入れたくて。バルコニーにも出られますから、後でご案内しますね」


 森野は正面窓の前にある大きなデスクで、仕事をしていたようだった。「どうぞこちらへ」と、左側にあるソファに促される。来客との応対場所なのだろう。中央のガラステーブルを囲んで上品なソファが三つ配置されていた。


「もうすぐ椎菜が紅茶を持ってきてくれますから。おかけになって待っていてくださいね」


 多古島と鮎葉は言われるままに応接スペースに足を運んだ。

 どこに座ろうかと少し考えて、窓際に置かれたソファに足をのばそうとした。


「ああ、すみません。窓側のソファは空けておいてもらえますか?」


 私のお気に入りのポジションなんです、と言って森野は微笑んだ。

 鮎葉は内心首を傾げつつも、森野に従い手前のソファに腰かけた。多古島も鮎葉の隣に腰を下ろす。


「突然お呼びしちゃってごめんなさいね」

「いえいえ、個別にお話しできるなんて光栄です。……あ、そうだ」


 多古島はぽんと手を打って、一冊の本を取り出した。「死と唐突の物語」。森野の著書だった。


「これ面白かったです。サインいただけますか?」

「あら、ありがとうございます。もちろんいいですよ。後でお渡ししますね」


 森野は多古島から本を受け取り、自分のデスクの上に置いた。

 ほっそりとした指先が、ハードカバーの表紙の上を音もなく撫でた。


「多古島さんは、これを読んでどう思いましたか?」

「的を射ていると思いました」

「あなたの興味とは、真逆なのに?」


 再びソファに腰かけて、森野は問う。

 その表情は穏やかで、純粋に議論を楽しんでいるようだった。

 多古島は応えた。


「自分と対極な思想を頭ごなしに否定するのは、愚かなことですから」

「なるほど、賢い人の言葉です。ですが、隠し事はあまり上手じゃないようですね」

「どういうことですか?」


 森野は身動き一つせず、目を少し細めた。


「あなたの今の興味は、本当に『死の予測可能性』なんでしょうか」


 鮎葉の隣で、多古島の身体がわずかに跳ねた。森野は続ける。


「多古島さんの論文、拝見しました。専門外の分野なので、全てを把握できたわけではありませんが、趣旨は理解できました。死の唐突さへの反逆、あるいは恐怖から生まれた感情が原動力となり、これまで何人もの研究者が挑んできたテーマなのでしょう。壮大で、果てがなくて、合理的です。ただ、今のあなたからは、このテーマへの熱を感じません。大学院を修了後、研究も打ち切っていると聞きました」

「それは……」


 ねえ、多古島さん。口の中で転がすように名前を呼び、そうしてまた、同じ問いを投げかける。


「本当は今、どんなことに興味があるんですか?」


 数拍の間が空いた。

 森野はその時間すら楽しむように、身じろぎひとつせずに多古島の言葉を待っていた。

 しばらくして、多古島は「お見通しですね」と肩をすくめた。


「失礼しました。森野さんの言う通り、私の今の興味は『死の予測可能性』ではありません。あの場で語るには少々物騒で、極めて特殊な内容だったので、差し控えていました」

「構いませんよ」

「私の興味は……弔いです。それも、殺人事件の被害者専門の」


 多古島の言葉を聞くと、「なるほど」と森野は満足そうに息を吐いた。


「あなたの言う弔いというのは、つまり被害者の無念を晴らすということですね」

「その通りです」

「ずいぶんと、元の興味からは乖離しましたね」

「元々私の研究では、人の内的な要因からしか寿命を判別できませんでした。生まれながらにして人が持っている遺伝的ポテンシャルと、生後に摂取したエネルギーから予測を立てる。それだけでも十分に有意義だと考えていたんです。でも……ある時から、それでは意味がないと気付いたんです。だって人は――」

「外的な要因で容易く死んでしまうから」

「ええ。そして私は、自分の研究に空虚さを感じて」

「あなたは死者を弔うことを選んだ。そして弔いのために数多くの知識を吸収し、そしてあらゆる場所に顔を出すようになった。例えば」

「ここにいるように」

「充実感はありますか?」

「はい」

「ふと我に返ることはありませんか」


 一瞬、多古島の目線が鮎葉に向いた。


「いいえ。まったく」

「そうですか」


 多古島と森野は、将棋の早指しのように、言葉のキャッチボールをしていた。昨日が初対面だったはずなのに、すでに気心の知れた親友のように、会話がなめらかに進んでいた。森野は多古島の言葉を咀嚼するように、何度も小さく頷く。

 やがて微笑みを浮かべて、


「素晴らしいですね」


 そう言った。


「ありがとうございます。あなたのお話は、実に興味深い。今回来ていただけたことを、私は何より嬉しく思います」

「いえ。私こそ、とても勉強になっています」


 そうして二人は笑顔を交わした。鮎葉は無意識にひそめていた息を、そっと吐いた。その様子がおかしかったのか、森野がくすくすと笑う。


 と、その時。

 とんとんと扉がノックされ、椎菜が紅茶を運んできた。

 ちょうど良いタイミングだったので、鮎葉たちはありがたくそれを受け取った。なぜか森野の分は用意されていなかった。琥珀色の液体を一口すする。芳醇な茶葉の香りが、口の中で柔らかく溶けた。


「美味しい……。これも椎菜さんが淹れたんですか?」


 椎菜は頷いた。


「はい。お口に合ったようで何よりです」

「お店で飲んでるみたいですよ。椎菜さんって、本当に何でもできるんですね」


 鮎葉が言うと、森野が嬉しそうに声をあげた。


「ふふ、そうでしょう? 炊事洗濯掃除、なんでも器用にこなせるんです。私のもとで働いてもらっているのが勿体ないくらい。どこに出しても恥ずかしくない子なんですけど、これほどの器量良しとなると、見合う人も中々いない気がして。まあそれよりも前に、まずは社会人として一人立ちしてもらいたいのですが」

「芽々さん、その、それくらいで……」


 椎菜は顔を赤くして俯いた。しかし森野は気にすることなく、饒舌に椎菜をほめ続ける。


「本当はね、私この子は女優さんになればいいなって思ってるんです。だってほら、こんなに可愛いでしょう? それにね、高校の頃は演劇部に入っていて、お芝居もとっても上手なんですよ。ドラマとか映画とかに起用されたら、きっと一躍有名人に――」

「も、もう! 芽々さん!」


 恥ずかしさに耐えかねたのか、椎菜は耳の先まで赤くして、鮎葉たちに一礼すると部屋から出て行ってしまった。「あらあら」と森野が笑う。


「ね、可愛いでしょう? どうですか鮎葉さん。椎菜を連れて行ってくれてもいいんですよ。法医学者さんなら生活基盤もしっかりしてそうですし、私も安心して送り出せます」


 さっきまでの哲学者然とした雰囲気はどこへやら、娘や孫を可愛がるような口調で森野は言った。本気ではないと思ったので、鮎葉は「自分にはもったいないです」と返した。


 それからしばらくは、一転して椎菜と舞花についての話を聞いた。

 両親の死後、ふさぎ込んでいた舞花を、椎菜が支えていた話。そんな椎菜を見て、舞花が明るくふるまうようになった話。親の死を経て、舞花は看護学校に通うようになった話。舞花は段々と自分のもとを離れ始めていて、少し寂しいけれど、嬉しいという話。

 自分という存在が、彼女たちの糧になればいいと、彼女は語った。

 森野は死の本質は唐突さにあり、それをもとにした死生観を語るけれど……椎菜や舞花のことを大切に思う森野の気持ちもまた、彼女の中にある一つの死生観なのではないかと鮎葉は感じた。

 十六時四十分頃、多古島と鮎葉は部屋を後にすることにした。


「それでは失礼します」


 多古島が部屋を出て、鮎葉もそれに倣おうとした。

 しかしその前に、


「鮎葉さん、ちょっとだけいいですか?」


 森野は鮎葉にだけ聞こえるくらいの声で引き留めた。

 少し驚いたが、断る理由もなかった。

 多古島を先に戻らせて、改めて森野に向き合いながら問う。


「はい、なんでしょう?」

「単刀直入に聞きますね。鮎葉さんは、多古島さんのことをどう思っているんですか?」


 急に何の話だろうかと不思議に思いつつも、正直に答えた。やましい背景は特にない。


「あいつとは腐れ縁なんです。中学高校とずっと一緒で、大学は離れこそしましたが、なんやかんやと理由を付けて、呼び出したり呼び出されたり……。お互いに、暇つぶしに使ってる感じですね」


 暇つぶしに使い合う関係。自分と多古島の間柄を示す、実に的確な表現だ。

 そう鮎葉は思ったのだけれど……どうやら森野が求める答えとは違ったらしい。

 森野は「ああ」と吐息と共に言葉を落とし、続けた。


「すみません。質問の仕方が悪かったですね。聞き方を変えます。鮎葉さん、あなたは――」



「多古島さんの弔いについては、どう思ってるんですか?」



 鮎葉は。

 答えなかった。

 森野は意に介さず続ける。


「鮎葉さんは、優しいですよね。多古島さんはメールで、どうしても連れて行きたい人がいると言っていましたが……どうでしょう? あなた自身は、本当は乗り気じゃなかったんじゃないですか?」

「……そんなことありませんよ。あいつはちょっと変わってますけど、空気は読めるやつです。僕が本気で嫌だと言ったら、無理強いするようなことはしません」


 だから、ここに来たのは間違いなく自分の意志だ。


「彼女がそういう人だから、拒否しなかったのではないですか?」

「あいにく、僕はそんなに我慢強い人間じゃないんです」

「お二人の会話も興味深く拝聴していました。多古島さんのわがままや無茶ぶりを、あなたは柔らかく受け入れていましたね。否定をしませんでしたね」

「それは……」


 そうしなければ、ならないからだ。

 誰かが肯定しなければ、きっとあいつはつぶれてしまう。

 だから――


「怖いですか?」

「……どういう意味ですか?」


 言葉の真意が分からなかった。

 森野はまた細く息を吐き、理知的な瞳をすっと細める。


「なるほど、まだあなた自身も気付いていないということですか。ごめんなさいね。鮎葉さんを見ていると、どうしても口を挟みたくなってしまって。……あなたはどこか、似ているから」

「僕と森野さんが、ですか?」

「ふふ、お嫌ですか?」

「そういうわけでは……。ただ、似ている気があまりしなくて」

「いつか分かる日が来ると思います。そしてその時は、どうかこの言葉を思い出してみてください」 


 そうして彼女は。

 そっと。

 囁く。


「その献身を、エゴにしなさい」

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