【六】誘い

 翌日は午前中、森野の死生観についての講義を聞いて過ごした。「死と唐突の物語」という森野の著書を引用しながらの講義だった。

『人生は物語的であり、死の唐突さは理不尽な力をもってそれに襲い掛かる。読んでいる小説のページが突然破れたり、映画のフィルムが消えてしまうことを、いったい誰が予想できるだろうか?』

 独特の文体でつづられる文章は、妙に頭に残り、コアなファンがいると言う話も頷けた。

 やがて昼食の時間になり、椎菜と舞花が料理の用意を始めた。

 ひと品目が運ばれてくると、多古島が嬉しそうな声を上げた。


「わはー! タコだー!」

「はい。春野菜とタコのサラダになります。お好みで、ドレッシングを足してお召し上がりください」


 椎菜がお辞儀をして下がると、森野が多古島に問いかけた。


「多古島さん、もしかしてタコがお好きなんですか?」

「そうなんですよー。私の苗字って、タコがついてるじゃないですか。だからなんだか、親近感が湧いちゃって。ストラップとかも、ついついタコさんマークの物を選んじゃうんですよね」


 多古島は昔から「タコちゃん」というあだ名を付けられがちだった。女子でタコというのは、ともすればイジメにつながってしまいそうなものだけれど、多古島はむしろ喜んでそのあだ名を受け入れていた。彼女が持っている小道具には、大体タコが付いている。


「いいですね。私もタコ、好きなんですよ」

「あは、同じですね! タコのどの辺が好きですか? 見た目ですか? 味ですか? 触感ですか?」

「確かに味も美味しくて好きですが……私はタコの死に方が美しいと思うのです。タコのメスは交尾の後、卵を身体に宿したまま、六か月から十か月という長い間、巣の中で卵を守り続けるんです。飲まず食わずで、時に外敵と戦いながら、優しく卵を守り続けます。日に日に衰弱していき、やがて命の灯が消えかかる頃――子供たちは卵から孵ります。母は子と出会い、そして死にゆくのです。生と死がつながり合うさまが、なんとも美しいとは思いませんか?」


 なんだかタコを食べるのが申し訳ない気分になった。しかし鮎葉以外はそうでもないようで、砂金は興味深そうに声を上げた。足の調子は良くなったようで、今日も誰よりも早くテーブルに着席していた。


「面白い話だね。子のために身をやつすというのは、なるほど、確かに感動的に聞こえる。だが私は、タコが生物的弱者だからそうなった、という風にも捉えられると思うね」

「と、言いますと?」

「つまりだ。もしタコが海の中でも絶対的な強者であったなら、身を切るような育て方をしなくても済んだわけだ。大型の魚に食われないよう、タコはそういう生き方をせざるを得なかった。選択の余地なく、余裕がなかったわけだな。人間だって同じだろう? 余裕がある人ほどより良い死に方について考える。富裕層ほど、金にも時間にも、ゆとりがあるのだからな」

「一理あるかもしれないっすね」


 絵上が同意する。


「昨日もちょっと話しましたけど、トランジ、つまり富の虚しさを象徴するために墓に飾り付けをし始めたのは、貴族が始まりなんです」

「確かに、死に至る病で有名なキェルケゴールなんかは、親の遺産があってほとんど働いてなかったって話だしねえ。金があって時間があるほど、死後について思いを馳せるのかもしれない」

「で、ですが……」


 霊山が控えめに異論を挟む。


「富裕層以外の方も、考えていなかったわけではないと思います……。オカルトとかはまさにそんな感じで……」

「オカルトって言葉は確かもともと、十九世紀にファス・レヴィが唱えたんですよね? 確か詩人で思想家、だったかな? 割と最近生まれたカテゴリですよね」


 と、多古島。


「は、はい……。ただ、オカルト的概念はもっと昔からあって……。そもそもオカルトというのは、内的な死への恐怖を、外的な現象に置き換えたものなんです……。幽霊とか、物の怪とか、そういう概念は、割と庶民的な立ち位置の人たちが伝聞で伝えた部分が大きいと思います……」

「まあ、そもそも人口的に考えれば、庶民側の方がマジョリティのはずだしねえ。量的に見たら、そっちの考えが多く残る可能性はあるのかもしれないな」

「絵画にはオカルト的要素が取り入れられていたりもするので、色んな系譜の死の概念が、互いに影響を及ぼし合っている、ということなんでしょうね」


 昨晩と同じく、議論は絶えなかった。

 唐突さ、笑い、芸術、金、オカルト。死に対する独自の見解を交えつつ、各々が異なる角度から死について言及していく。彼らの意見に、正誤はなかった。どれもが事実であり、全てが死の持つ一つの側面だった。

 きっと死という概念は、いまだ全容不明な多面体のようなものなのだ。たった一つの価値観では説明し尽くせず、それゆえに、こうして幾人もの人間が集まって意見を交わし、少しでも本当の形に近づこうとしている。何百年前から語り続けられる深遠なテーマに、答えがあるとは思っていないのだろうけれど。


 やがて食後のコーヒーが運ばれてきて、ようやく一つ、話に区切りがついた。砂金が問う。


「それにしても、見事な料理だった。これは全部、姉妹二人で作ってくれたのかな?」

「ええ。身内の欲目かもしれませんが、中々の腕前だと思いますよ」

「違いない。私の家にもどちらか一人欲しいくらいだよ」

「ふふ、恐縮です」


 そういえば、と砂金が続ける。


「少々小耳に挟んだのだが、椎菜さんは嘘をつけないそうだね?」

「ええ」

「珍しい話だから少し気になってしまってね。なあ、鮎葉君。専門は違うかもしれないが、医者の目から見て、そういうことはあり得るのかな?」


 砂金に聞かれ、鮎葉はしばし沈黙した。実はこのことに関しては、鮎葉も少々気にかかり、昨晩寝る前に考えをまとめ、一つの結論を出してはいた。


 嘘をつけない、という文字面だけを追うと奇妙に思えるが、要は、何か特定の行動をとれない状態にあるということだ。だとすれば考えられる可能性は……。

 どうやら椎菜と舞花は奥のキッチンで片づけをしているようだった。話すなら今のうちだろう。鮎葉は言葉を選びながら答える。


「あり得ると思います。子供の頃からの蓄積による、一種の習慣のようなものだと思ってください」

「ふむ……。異論を呈するわけではないが、理解はできても、正直納得はしかねるね。習慣に絶対はないだろう? 十年間毎日ジョギングをしていた男性が、ある日突然やる気をなくして、惰眠をむさぼることだってあるはずだ」

「こんな話があります。サーカスに連れてこられた子象を思い描いてみてください。子象は足に鎖を付けられているんですが、最初は必死に逃げようともがきます。毎日、毎日、もがき続け、それを繰り返しているうちに、いつしか鎖の強さを自覚して、逃げることを諦めるんです。鎖がロープに変わっても、ロープが取れて、ただの白いリボンになっても、逃げないそうですよ」

「嘘をつかないという行為が、彼女にとっては当たり前になっている、ということか」

「砂金さんのおっしゃる通り『○○をする』をやめるのは意外と簡単です。ですが『××をしない』を覆すのは、僕たちが想像するよりもはるかに難しいんです」


 砂金は「なるほど」と腕を組んだ。周りを見渡すと、程度の差はあれ、みな納得したような顔つきになっていた。鮎葉は気付かれないように、静かに息を吐いた。


 それからしばらく雑談をしていると、ホールの振り子時計が音を立てた。壁にかかった時計に目をやると、三時を指していた。昼食をはさみつつも、午前の講義を含めば、実に五時間近く話していたことになる。


「夕飯まで、一旦自由時間にしましょうか。館内の設備は、引き続き自由に使っていただいて構いません。何か分からないことがあれば、椎菜か舞花にご相談ください」

「夕飯は昨晩と同じで、十八時でよろしいですか?」

「そうしましょう」


 森野は居住まいを正し、長テーブルに座った全員を一人一人見つめながら語り始めた。背後に設えられた大窓から差し込む光が彼女を包み込んで、どこか荘厳な雰囲気を作り出す。


「さて、早いもので、もう皆さんと過ごせる最後の夜となります。私としてはもっともっと話したいこともありますし、皆さんの死生観をお聞きしたい気持ちです。ですが、タイムリミットがついていてこそ、議論も思い出も深まると言うものです。一期一会にして刹那的。それこそが、私がこの会に求めている在り方でもあります。

 今晩は美味しい料理とお酒を楽しみながら、各々リラックスして、最も頭が回る状態で――」


 一拍置いて、森野は締めくくった。


「ここまで話題に上がらなかった、死について最も重要な事柄について話しましょう」




「お兄さん」


 各々が自分の部屋に向かう流れに乗ろうとした鮎葉は、肩を叩かれて振り返った。思ったよりも近いところに舞花の顔があって、思わず後ずさる。


「さっきはありがとうございました」

「さっき、というのは?」

「芽々さんに聞きました。姉さんの過去について、あえて言及しないでくれたって」

「ああ、椎菜さんの体質の件ですか」


 それらしいことを語って煙に巻いたが、実は鮎葉は、椎菜の体質について考えられる重要な部分を隠していた。

 ある行為に対する個人の嗜好性が、負から正へと転ずるのは難しい。これは事実だ。しかし真に重要なのは、その行為をする(あるいはしない)ということに対する「強制力」の存在だ。そしてそれは往々にして、過去の経験に紐づいている。

 考えられるのは『嘘をつくたびに罰を受け続けてきた』など、嘘をつくという行為と身体的な罰がリンクしている場合だが――


「姉さんは、その……両親が死んだときのことが、トラウマになっているみたいで……」


 どうにも、鮎葉が考えているケースとは違うようだった。両親の死と嘘をつけないことに、どんな因果関係があるのかは定かではなかったが、そこは深く追及しなかった。初対面で踏み込んでいい話ではないだろう。


「それで、できれば……姉さんにもその話は振らないでもらえると助かるかなー、なんて。きっとあんまり、いい気持ちがしないと思うので」

「もちろんです」

「ありがとうございます。えへへ、優しいですねお兄さん」


 ばいばいと手を振って、舞花は食堂から出ていった。彼女が椎菜とは真逆の陽気な性格になっているのは、もしかしたら姉を思ってのことなのかもしれない。人の死というのは、その後に残された人の在り方を変えることもある。自分が解剖を担当してきた被害者の遺族も、同じように。


 少し気分を変えたくてホールに出ると、多古島と絵上が、壁に飾られた絵画の前で何かを話していた。近づくと、声が聞こえる。


「そうなんですよー、イマイチ統一感がなくて。因みに、絵上さんの部屋には何が飾ってあったんですか?」

「フェルメールの『牛乳を注ぐ女』っすね。後、昨日見せてもらったんっすけど、霊山さんの部屋に飾ってあるのはコタンの『狩猟の獲物、野菜、果物のあるボデコン』でした」

「有名な静物画ですね。確か背景にべたっと塗られた黒色がメメントモリを彷彿とさせるとかなんとか。死がテーマなんでしょうか?」

「うーん。でも他の絵からはそういう印象受けないっすからねえ」


 鮎葉に気づき、多古島がちょいちょいと手招きした。


「先輩も一緒に考えてくださいよー。このお屋敷に飾られてる絵画が、何をテーマに集められているのか」

「いや、僕は絵画については知識がないから……。この絵も知らないし」


 昨日から視界によく入っていた、大きな絵画。どこかの部屋の一室で、絵を描いている男性や、身なりのいい少女、その他使用人のような人間が何人か描かれている。


「これは、ベラスケスの『ラス・メニーナス』って作品っすね。ちょっと不思議な作品で『どこまでが絵画で、どこまでが現実なのか』と批評家を驚かせたという話が残ってるんすよ」

「それだけリアルってことですか?」

「一見繊細に見えますけど、実は結構早いタッチで描かれてるんすよ。で、批評家たちを驚かせたのは、絵画の中にいる人物たちの目線です」

「目線、ですか?」

「そっす。まるで、俺たちの方を見ているように思えません?」


 画家と女官の目線は、こちらに向いている。感情の起伏に乏しい表情にぽつんと黒く塗られた瞳は、自分を責めているようにも、なじっているようにも、何か意見を求めているようにも思えて、なんとも言えず居心地の悪い気持ちになる。

 確かに、自分が絵画の中の人物に見つめられているような不思議な絵画だった。


「面白いですね」

「でしょ」


 絵上はにかっと笑った。最初の頃とはずいぶんと印象が変わった。ぶっきらぼうな話し方だが、人当たりはいい。特に絵について語るときは結構感情が出るようで、鮎葉は好ましく感じていた。


「絵という虚構と現実の狭間に成立する名画ではあるんっすけど……てっきり俺は、この屋敷には死にまつわる絵画が集められてると思ってたんっすよね。関係ないのかな?」

「森野さんに聞いてみるというのは?」

「はは、そうっすね。夕飯の時までに分からなかったら、そうすることにします」


 そう言うと絵上は自分の部屋に戻っていった。午後はスケッチをするつもりだと言っていたから、絵を描くための道具を取りに行ったのだろう。

 一方の多古島はというと、片手を顎に添えて、ぶつぶつと独り言をつぶやいていた。絵画のテーマ性について、引っ掛かるところがあるようだった。こういう状態になった多古島は、中々現実に戻ってきてくれないから面倒だ。

 と、その時。


「あの、すみません」


 後ろから声をかけられて、鮎葉と多古島は振り向いた。

 椎菜だった。


「お二人とも、お夕飯までの時間、なにかご予定はありますか?」

「いえ、特には」

「先輩に同じくです」

「そうですか。それでしたら、十六時頃に芽々さんのお部屋に来ていただけませんか?」

「森野さんの部屋に?」


 一泊して、屋敷の中と外の庭園は、一通り散策が済んでいた。しかし、二階の奥にある森野の部屋にだけは行ったことがなかった。二階にあがってすぐ、正面からまっすぐに伸びる廊下には障害物が一切ない。彼女の部屋の扉は何度か見ていたが、さすがになんの断りもなしに近づくのは憚られた。

 椎菜は一つ頷いて答える。


「はい。なんでも、お二人とぜひお話したいとのことでした」

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