日記帳と手首と患者

犬丸寛太

第1話日記帳と手首と患者

 今日は私の退院の日。


 一年前、私は、自宅で首を吊った。

 私は元々精神薄弱気味だった。それでも何とか大学受験、就職活動と“普通の人”になるために精一杯努力した。でも結局“普通の人”にはなれなかった。

 社会で生きていくのはとても大変だ。

始めの頃は順調だった。自分でも本当に頑張ったと思う。でも、働き始めて数年経った辺り、上司の期待、客先からの圧力、そして自分からの強迫を受けて仕事を辞めてしまった。

 当時の事はもうおぼろげだけど苦しかった出来事だけは覚えている。

 会社での飲み会で課のエース、期待のホープだと言われたこと。

 休日も夜も返上して時間ギリギリまで作った資料を客先で馬鹿にされたこと。

 過呼吸でも打ち合わせに参加したし、言葉が話せない時はエディタを使ったし、左手が動かなくなった時は右手でタイピングした。

 やがて別の部署に異動して、一人だけ定時で帰る日々が続く中で私は上司にこぼした。

 

 「私だけ仕事もせずに定時で帰って良いんでしょうか・・・。」


 「ちゃんと定時まで仕事してるじゃないか。」


 「でも皆さん残業しています・・・。」


 「ゆっくりで良いんだよ。」


 どうして皆こんなに強いんだろう。どうして私はこんなに弱いんだろう。

 上司の優しさは私には凶器に見えた。

 そんな日々の中で私はいよいよ他人の言葉が理解できなくなった。仕様書の文字はどこか異国のものになった。

 何もかもが壊れてしまって、ようやく私は上司に退職を告げた。

 上司は引き留めてくれたが、煤だの埃だので汚く散らかった頭でなんとか説得し私は退職する事となった。

 ロビーで話を終えた私は上司の指示に従い社外での業務を装って自分のデスクからカバンだけを掴み取りいつもよりずっと早い時間の電車で家へ帰った。

 空いている電車の中、いつもは座れない座席に座り、頭を抱える事しかできなかった。

 何とか部屋の前までたどり着き、部屋の鍵を取り出す。

 手が震えて、鍵穴に刺さらない。何とか左手で押さえつけ部屋に入る。

 季節は冬、冷えた暗い部屋の窮屈な玄関で私は大声で笑った。涙が止まらなかった。会社へ持っていくつもりで置き忘れていた地元のお土産を食べ散らかした。


 “普通の人”になりたかった私は“普通じゃない人”になってしまった。


 地元に帰った私は空港に迎えに来てくれた父に言われた。


 「よく生きて帰ってきた。」


 まるで戦争帰りの兵士にかける言葉のようだが、その位私の顔つきは酷かったらしい。

 家を出る前のまま綺麗に掃除されていた自分の部屋で私はただじっとしていた。

 何か月たったのか、少しずつ体調を戻した私は自殺を決意した。

 ホームセンターでロープを見繕い、場所は庭の柿の木にしようと思ったが、この柿の木は亡くなった祖母が種から育てたもので父も大切にしていた。

 結局私は部屋の壁の高い所に衣服掛けを取り付けそこを最期の場所に決めた。

 椅子に上り、ロープを首に回す。

 大量の睡眠薬をウイスキーで流し込み、意識が途切れないうちに私は椅子を思い切り蹴り飛ばした。

 ロープが首に食い込む。かろうじて呼吸はできていたかもしれない。締め上げられた頸動脈がやかましくドクドクしている。

 何も苦しい事は無かった。何も無い私に失う恐怖は無かった。命も。


 目を覚ますと私は口の中にチューブを入れられていた。虚ろな視界に私の内容物らしきものを吸い上げているチューブが見える。どうやら胃洗浄を受けているらしい。

 睡眠薬の効果で多幸感に包まれていた私は看護師に軽くジョークを言ってみた。

 

 「ゴールデンウィークなのに大変ですねぇ。」


 それきり私の意識はまた途切れた。


 次に目を覚ました時、私は車椅子に乗っていた。明るい。朝のようだ。

 母親に押され、何とか駐車場の車へ乗り込む。まだ薬の影響が残っているのか上手く体が動かない。

 家へ帰る車内で母から事情を聴いた。大きな音がして部屋に向かうと私が首を吊っていた。その他にも何か言っていたような気がするが、私は、時間を間違えたなと見慣れた地元の景色を眺めながら思っていた。


 その後、色々あって私は入院病棟のある精神科へ入ることとなった。それもそうだ。今の私はいつ、何をしでかすかわからない。両親は夜も眠れないだろう。

 それからは何も無かった。妄想型の患者と違って特に拘束されることも無かった。

 セラピストとの面談や、メンタルヘルスの講習会、入院患者との懇談会。色々あったが何も感じなかった。

 大部屋のカーテンで仕切られた窓際のベッドでひねもす外を眺める日々が続いた。


 ある夏の日、窓の外に小さな面会客が現れた。エアコンの室外機の上に暑苦しい赤錆色のぼさぼさの毛玉が飛び乗ってきた。

 子猫のようだ。母猫は居ないのだろうか。戯れに窓を開けてみる。とことこと寄ってきて私の差し出した指にスンスンと鼻を近づけてきた。

 何かの確認が終わったのか小さくニャンと鳴いてまたどこかへ行ってしまった。

 明くる日も子猫は現れた。次の日も、その次の日も。

 ぼさぼさの毛で分からなかったがよく観察するとひどく痩せこけている。

 人間のエゴだが私は少し可哀相に思ってしまった。その日からできるだけ味の付いていないものを選んで自分のご飯を少し分けてあげた。

 毎日毎日私に会いに来てくれるのだ。これくらい多めに見て欲しい。

 そんな日々の中私は母に日記帳をねだった。

 表向きは自分の精神状態を自分で記録するため、本当は子猫の成長記録をつけてみたかった。

 ほどなく日記帳は私の元に届き、私は早速その日から子猫の成長日誌をつけ始めた。


 猫の成長は早いものだ。季節が秋へ変わるころにはぼさぼさの毛玉が凛々しい獣へと変わっていた。

 自分で餌をとることができるようになったのかそのころから猫はあまり姿を見せなくなった。窓の外をのぞいた時たまにちらと姿が見えるくらいで以前のように室外機に飛び乗って私を見つめることは無くなった。

 日記帳のページはまだ随分余っている。

 仕方なしに私は本来の意味で日記帳を使い始めた。

 しかし、書くことは何もない。

 はじめの頃は猫の事で一杯だった日記帳。


“今日も何も無かった”


これだけが延々と続くようになった。


季節が冬に変わり、私はもう日記帳など放り投げていた。猫の事で一杯になる予定だったページは窓の外のように真っ白だ。


また何も無くなってしまった。


私は今度は母に刃物をねだった。

 当然承服しかねる母に猫で一杯だった頃の日記帳を見せこの子の切り紙細工を作りたいと嘘を言った。

 日記帳をこんなことに使っていたのかと呆れられたが母はしぶしぶ了承してくれた。

 付け加えて、この事は病院側には相談しないでほしいとも伝えた。当然病院内への不必要な刃物の持ち込みは禁止だろうからと。

 しばらくして、私の元にこっそりと小さな細工用の刃物が届いた。

 私には、当然切り紙の心得は無いし、何より対象のあの猫はもういない。

 使い道は一つ。手首を切るためだ。

 どんなに小さな刃物でも何度も刃を入れじっとしていればそのうち失血死するだろう。

 今度こそ失敗しない。消灯後一時間ほど過ぎ、朝食が運ばれてくるまで十時間以上ある。

 私は最後に遺書でも書いてやろうと思い立ち日記帳を広げた。


 夏の頃は猫の様子が紙面一杯に書かれている。


 秋になると例の言葉が呪詛のように続く。


 冬のページには何も無い。何も。


 何も無い今日のページに感謝と謝罪の言葉をしたためようとした時だった。

 窓の外にあの猫がいた。いつかの夏の日のように冬毛でぼさぼさしている。体は随分と立派になっていたが。

 最期の最期に会いに来てくれたのだろうか。

ちっとも来てくれなくなっていた癖に。薄情者め。

 ともあれ最期を見届けてくれるならそれはそれで悪くない。私は音を立てないよう静かに窓際を向いて座り刃を手首に当てる。

 思い切り刃を握りしめた瞬間窓からカツカツと音がした。

 猫が窓を爪で引っ掻いている。寒いから入れろという事だろうか。しかし、猫が病室に入ってくれば周囲の患者にバレるかもしれない。申し訳ないが、我慢してほしい。もう、失敗はしたく無い。

 気を取り直して、いくぞという時、今度はニャーニャーと鳴き始めた。

 これはまずい。このまま鳴き続けられたら周囲が不審に思うかもしれない。

 致し方ない、強引だけど追い払うしかない。

 デコピンすれば帰ってくれるだろう。

 そう思って私が窓を少しだけ開けたその時だった。


 「痛っ!」


 猫はほんの少しの窓の隙間からするりと腕を入れ私の指先を引っ掻いた。

 隣から私を心配する声が聞こえる。病室内もにわかに騒がしくなってきた。

 気が付くと猫は居なくなっていた。

 私はまた失敗してしまったと思ったが、引っ掻かれた指先が随分と痛い。

 ほんの少し引っ掻かれただけなのにドクドクと血が止まらない。

 なんとか血を止めようと手近にあった日記帳で思いっきり指を挟んでみる。


 痛い痛い痛い。


 私はたまらずナースコールを押した。

 何事かとすぐに看護師が駆けつけてくる。

 刃物の事は隠しながら事情を説明し、手当をしてもらう。

 手当の最中、看護師は例の猫の話をしてくれた。

 どうやらあの猫は看護師の間では有名だったらしく、母親に放棄され死にかけていたらしい。

 看護師達総出で保護しようと乗り出したこともあったらしいが、死にかけの癖にすばしっこく結局捕まらなかった。

 仕方なく、毎日心配しながら遠目に見ているとある日を境に随分と元気になって、体格も立派な猫になったのだとか。

 手当を終え、立ち去ろうとする看護師が血まみれになった日記帳を持ち去ろうとした。

 何故だかわからないが私はそれを拒み、どうにか説き伏せて日記帳を取り返した。

 あと去り際、無暗に窓を開けないようにと注意された。私だって開けたくて開けたわけではない。

 騒ぎも収まり、静かな病室の中、私は日記帳を抱きしめながらベッドに横になった。

 きれいに手当してもらったのにまだジクジクと指先が痛む。

 首を吊った時は何も感じなかったのに。

 その日はそのまま寝てしまった。久しぶりによく眠れた気がする。


 夜が明けて次の日、またあの猫がやってきた。仕返しの為にデコピンをしてやろうと前日の看護師の言葉も忘れ窓を少しだけ開ける。

タメの無いデコピンで勘弁してやろうと絆創膏の巻かれた指を猫に近づけると初めて会った時のようにスンスンと鼻を鳴らしながら顔を近づけ、ペロリとひと舐めすると、疾風の如く立ち去ってしまった。

その日以来、また猫は来なくなったが、私は日記を書き続けた。今度は猫の事では無く自分の事を。

 

 季節は春。日記帳の最期のページを書き終え自分のバッグにしまう。

 「その日記帳持って帰るの?血だらけじゃない。」

 母の尤もな意見に私は答えた。

 「まぁ、なんていうか生きてる事の証明というか、大切な思い出というか・・・。」

 煮え切らない私の返事に母は不満げだが、思いは伝わったようで「そう。」と一言だけ呟いて病院の出口へと向かった。

 母に遅れないように私もかつての自分のベッドから立ち上がる。今度は自分の力だけで。

 ふと窓の外を眺めるとあの猫が遠くからこちらを見ている。脇には子猫がちょこんと座っていた。

 私は心の中でありがとうと呟いてみた。

 猫は小さく口を動かして、すぐに近くの茂みに隠れてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日記帳と手首と患者 犬丸寛太 @kotaro3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ