10−5「死者の提案」

『エージェント・カサンドラも秘めた想いはあるかもしれない。だが、その怒りを君にぶつけてしまう道理はない。昨日入った2人も彼女に対して不信感を抱いていたようだが、我が劇団に入った後はそれも些細なことへと変化した…実際、今の彼らに苦しむ様子は見られない…そうは思わないか?』


 客席で大賀見が指さす先には大道具を運び出す元撤去班の佐藤と須藤がいた。


 二人の顔は土気色になってはいるが、どこか満たされた様子で苦しさや悲しみの色はない。


「…でも、名前で縛っているんでしょ?」と僕はとつぶやき掃除機の延長コードを客席の1番下まで伸ばす。


 昼休みではあったが、時間が押しているので作業しやすいよう清掃を先にしてくれとのカサンドラの指示に従ったものだ…何の作業かまでは聞けなかったが、他にも数人に指示を出していたので、たぶん重要なことだろうと僕は推測する。


 だが大賀見は、そんな僕の様子に大仰に肩をすくめてみせた。


『否定はしない。意識を完全に掌握している者もいるし、残している者もいる。イエスマンだらけの集団よりは、ある程度自由意思を持った者もいる方が集団として面白みがあると思うゆえの判断なのだが…おっと、そんなことを話しているうちに君が気にしているお嬢さんが来たようだ』


 そう言って、大賀見は座席から姿を消す。


 変わって舞台袖から出てきたのは、髪をゆるい三つ編みにした中世の村娘風の衣装の翼さん。彼女は自分の着ている衣装が恥ずかしいのか、少し周りを気にしながら僕の方へとやってくる。


『…警備員室で困っていたら、舞台衣装の人たちが来てこれを貸してくれたの。今はこれしか服がないからごめんなさいって言われて…でも、変だよね?』


 恥ずかしそうに自分の服を見る翼さん。


 でも、その姿は正直めちゃくちゃ可愛いかった。

 …いや、女優なんだから可愛いのは当たり前なんだろうけど、やっぱり可愛い。

 

 僕はしばらく彼女に見とれていたが、先ほどの失態を思い出して慌てて謝る。


「…いや、というか僕の方こそ、ごめん。仕事がどうしても外せなくって結果的に警備員室に君を置いてきぼりにしてしまって。まだ寒さは感じる?」


 それに彼女は首を振った。


『ううん、寒さはもう収まったの。衣装さんから聞いたけど本当はお仕事中だったんでしょ?邪魔をしちゃってごめんなさい。でも、今は昼休みだって聞いて…難しいなら後にするけど、妹についてちょっと話したいことがあって』


 そして劇場にかけられたデジタル時計を見る翼さん。


 時刻を見るとまだ昼休みの半ば。

 カサンドラの姿は見えないが、多少の余裕くらいはあるだろう。


「いいよ。少しだけなら」


『…ありがとう』


 僕と翼さんは話をするために1階の南階段へと移動した。


 周囲には誰もおらず、階段下の収納スペースには雑多に物が積まれ、それを隠すように1枚の衝立が前に置かれている。翼さんは衣装が汚れるのを危惧したのかすこしためらう様子を見せたが、階段の端に小さく腰掛ける。


『…次のスケジュールまで期間が空いたから様子を見に行った日にね、あの子は居間でリクルートスーツを着たままボーッとしていたの…私、オーディションにまた落ちたんじゃないかと思って話しかけたのだけれど、どうも要領を得ない返事しか返ってこなくって…』


 形の良い眉根をひそめる翼さん。


『そしたら、妹が持っていた書類に慰謝料が口座に払われるって書かれていて。私、妹が詐欺にあったのかとびっくりしちゃって、でも、その後に口座を見たら大金はちゃんと振り込まれていて…その時に思ったの。妹は、何か大変なことに巻き込まれて、それをごまかすためにお金を振り込まれたんじゃないかって』


 そう言うと、彼女はすっと僕の着ている防護服を指差した。


『あなたの防護服。その服についているロゴマークは妹の持っていた物流会社と同じ封筒だったわ…ねえ、あなたの会社は一体何なの?ここで何をしているの?あの時、妹に何をしたの?』


 僕に詰め寄る翼さん。

 僕は彼女の目を見て…何も言うことができない自分に気づく。

 

 …それもそうだ。僕自身、この会社が何なのか未だにわかっていない。


 清掃業と言いながら常識では考えられないような現象は起こるし、危険なことも日常茶飯事で具体的にその原因もわかっていない。


 僕は何も答えることができない。


 主任やジェームズやカサンドラのように答えられる地位エージェントにも就いていない。

 僕は、ただの下っ端の清掃員でしかなく…


 だからこそ、僕はこう答えることしかできなかった。


「…ごめん、会社については僕もよくわからない。僕はただの清掃員で上からも何も知らされていない。知らない現場でこうして与えられた仕事をこなすだけしかなくて…でも」


 僕は翼さんの目を見て言った。


「妹さんは少なくとも傷つくような目には遭っていないよ。僕の上司が妹さんの来歴を知って、この職場よりも別の職場の方が向いているって判断して、手筈を整える現場を僕は見たんだ。慰謝料もそのための花向けだと思うのだけれど…」


 だんだん言っているうちに尻すぼみになっていくのがわかる。


 …半分はデタラメだ。

 慰謝料は彼女が精神的ショックを受けたために発生したものだ。


 でも、主任が彼女の身の上を知って温情を与えたのは事実だし、記憶処理まで受けた彼女に再び負担を強いるようなことをさせてはならないと感じていた。


 それを翼さんにもわかってもらいたいと思ったのも事実で…

 すると、彼女は僕の目を見て『…そう、わかったわ』とつぶやいた。


『すべては鵜呑みにはできないけれど、妹が一月後にオーディションに受かったのは事実だから。あなたの会社が何らかの根回しをしてくれたのは確かなのかもしれない…ごめんなさいね。私たち両親に先立たれてたった2人で生きていくほかなかったから…仕事柄、少し過敏になってしまっていたのかもしれない』


『それにね、』と彼女は続ける。


『妹が言っていたの。会社で働いていた時に理由は分からないけれど困った時に一人の男性に助けてもらったんだって、どうしようもなくなった時に、その人が最後まで側にいてくれた記憶があるんだって。その時のことにいつかお礼を言いたいって、あの子は言っていたから…』


(それは、初日に僕が主任と彼女と一緒にビルから脱出した時の話だろうか…)


 そんなことを思い出していると翼さんが僕の方へと顔を近づけた。


『その時、妹から名前を聞いたの。助けてくれた男性の名前…ねえ、答え合わせをさせて。妹が言っていた名前と…あなたの名前を』


 吸い込まれそうな黒い瞳。

 僕は翼さんの近い唇にドギマギしながら口を開ける。


「ぼ、僕の名前は…」

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