10−4「動揺と認識」
『…ありがとうございます』
人気のない警備員室。
小岩井翼は寒そうに近くの椅子に収まると、肩にかけた上着をぎゅっと握る。
これは警備員室のロッカーに収まっていたものだが、これを着る彼女の背中に縫合された跡があり、先ほどのテレビの話が本当だとするならば彼女はファンの男にナイフで背中を一突きにされて今朝方死んでしまったことになる。
…それにしても、先ほどまで彼女に挨拶していた大賀見はどこに行ったのか。
周囲を見渡すもやはり大賀見の姿はない。
こんなところに死んだ人間を放置してどうするつもりなのか。
そう、彼女はすでに死んでしまっていて…
そこまで考えたところで僕は意識がぐらりと揺れるのを感じる。
…そう、そうなのだ。彼女はすでに死んでいる。
夢を追っていた子だったのに、幸せになっていると信じていたのに…彼女は。
『あの』という声に顔を上げると、まだ不安そうな小岩井さんが僕を心配そうに見つめていた。
『…大丈夫ですか?なんだか顔色が悪いようなんですけれど』
(そっちの方が随分悪い感じなんですけど)
そんな言葉を必死に飲み込み、僕はなけなしの気力で彼女に話しかける。
「…あの、以前お会いしませんでしたか?具体的には昨年の12月くらいに。僕、清掃員で就職採用された初日に貴女にあった気がするんですけれど…」
『んー?』と腕を組んで首を傾げた後、彼女はポンっと手を叩く。
『…もしかして、妹の話ですか?みなさん、よく間違えられるんですけど、私たち一卵生双生児の双子なんです。妹なら去年の冬に短期間ですけど清掃業の仕事をしていたそうで…もしかして、その時にお世話になった人ですか?』
数秒の沈黙。
「…ええ!?」
いやいやいやいや、そんなの聞いていない。
いや、知るわけもないのだけれど。
…でも、でも確かにそれなら納得がいく。
『妹は1月にオーディションに受かって歌手としてシングルデビューしたんです。歌は上手いんですけど、なかなか芽が出なくって』
いやー、それなら良かった…いや、良くは無いな。
姉がこうして死んじゃっているんだから。
どういったものか迷う僕に対し、翼さんは『はーあ』と大きく溜息をつく。
『あの子はお金も無いのに一人暮らしで。お姉ちゃんの世話になりたく無いって生活費も自分で持つとか言って…どこか意地っ張りで私も随分ヤキモキしていたんですけど。でも、歌手として世間に認めてもらえて良かったです…私も女優とは言っても、そんなに上等な部類じゃありませんでしたから』
そう言って、どこか物思いに沈む翼さん。
…その時、警備員室の外から声がかかった。
「何やってるんだい!死人と油を売るなら、掃除を終わらせちまいな」
みれば、警備員室の窓からエージェント・カサンドラが覗いている。
慌てて外へ出るも翼さんが中にいることを思い出し、カサンドラに相談する。
「…はあ、死人が増えた?そんなことはしょっちゅうだよ。死んだ女優や男優のほとんどがここに来ちまうんだ。テレビは死んだ人間を本名で報道するだろう?それを大賀見が見ていて呼び寄せちまうんだ。相手は名前で縛られているから、何をするかわかったもんじゃない…放っときな」
そう言って、カサンドラは警備員室の窓下に溜まったホコリを見る。
「全然綺麗になっていないじゃないか。さっさと掃除を終わらせないかい」
「…あ、はい」
僕は続きをしようと途中で放り出してしまっていたポリッシャーを起動するも、カサンドラは「違う、違う」と声をはりあげる。
「床の清掃は机や床上のホコリを全部払った後。そんな常識的なこともできないのかい…もう30代だろ?どんな教育を受けてきたんだい」
「すみません」
慌てて雑巾を探そうと思ってもどこにあるかすらわからない。でも、気が急いているせいで、とにかく行かなければならないと思い慌てて歩き出そうとすると後ろでカサンドラが大きな溜息をついた。
「…雑巾はこのモップがある清掃棚の一番上。洗うための水はその隣のトイレの手洗い場を使いな…いや、もういい。別の人間に頼むから二階の清掃を手伝って」
上を指さすカサンドラに僕は「はい」と小さく答えてノロノロ歩く。
その背後ではカサンドラがまだブツブツ言うのが聞こえた。
「…ドグラが連れてきたからできる奴だと思っていたのに。なんでいちいち教えなきゃいけないんだ。ただでさえ時間が押しているっていうのに」
その言葉に僕の心がズキンとする。
…ふと前に勤めていた職場のことを思い出す。
確かあの場所もこんな雰囲気だった。
人手不足で仕事が回らず、当たり散らす人もいる。
最後はいつも末端の人間がいじめられ、追い出される厳しい職場。
カサンドラは部下2人を失っているせいで精神的にかなり追い詰められてしまっているのかもしれない。
(彼女は、どうしているだろうか)
僕は翼さんの様子を見るためちらりと警備員室の中を見る。
テレビの消えた室内で彼女の小さい背中が見えた…
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