10−3「境界越え」
「なんで、スマートフォンで佐藤と連絡をとったんだい!あれにはお互いの名前の表示が出ちまうじゃないか」
「す、すみません」
謝っているのは撤去班の男性のようで、彼の持っているスマートフォンをカサンドラは取り上げる。
「佐藤はさっき回収したが、この中には他の社員の名前はないんだね?」
男性はコクコクとうなずく。
「大丈夫です。俺が名前を知っているのは同期の佐藤だけだったんで、ここで働いているエージェントや社員の名前は俺も佐藤も知らないんで」
「それについてはこっちでも確認する。あんたは今すぐここから逃げ…」
しかし、それ以上の言葉を続ける前にいつの間にか通路の中にまでやってきていた大賀見が首を振る。
『あまり須藤くんを責めないでいただきたい。彼は近い将来、佐藤くんと共に我が劇団の一員になることが決まっているのだから』
びくんと体をこわばらせる須藤と呼ばれた男性。大賀見はアンニュイな様子で腕を組みながらカサンドラの持つスマートフォンに指をさす。
『それに社用とはいえ、そのスマートフォンは須藤くんの持ち物ではないのか?それを彼自身が管理できないのはおかしいことだと思うのだが…須藤くんもそう思わないかい?』
ほとんど言いがかりとも言える言葉。
だが、須藤はスッと芝居がかった仕草でカサンドラに手を差し出す。
「申し訳ないですが、俺のスマートフォンを返してくれませんか?それは、俺のものですから」
カサンドラは侮蔑の表情を大賀見に向ける。
「汚いね。うちの部下だった人間をこんな風に使うなんて…それに、これを渡したところであんたはこれを扱えた試しがないだろ?」
大賀見はそれに肩をすくめて見せた。
『…それもそうですね。手に入れた3台ともプロテクトがあまりにも固くて手をこまねいていましたし…じゃあ、須藤くん正式に劇団員になっていただくために同行していただけますか?まもなく佐藤くんもこちらに来ますし』
須藤はそれにこくりと頷き、防護服と燕尾服が建物の中へと消えていく。
「…あいつが佐藤に電話をした履歴が20分前か…。クッソ、2人とも3年目だから、もうベテランだと思っていたのに」
スマートフォンをにらみつけるカサンドラに主任は遠くを見る。
「うーん、就職してから5年めのジェームズ見ていると、どうも人それぞれな気がするけどね。長いこと続けての気の緩みとかもあるでしょ…まあ、しばらくの仕事の穴は私たちが埋めるわよ。上もそう言うだろうし」
「…すまないね」
主任に頭を下げるカサンドラ。
『…あの、今まで大変お世話になりました。向こうの劇団でも頑張ります。あまり劇場で麗華さんを待たせるのも申し訳ないのでこれで失礼させていただきます』
その隣でもう一人頭を下げるのは、つい先ほど看護師に心肺停止を言い渡された佐藤であり今や完全に瞳孔が開いた状態で救護班に着替えさせられた病院着姿で建物の中へと消えていく。
「麗華さん?」そう聞く僕にカサンドラが言った。
「佐藤を殺した女優の名前だよ。海外映画のスタント中にセットの綱が切れて、落下死したんだ。生前は清純派で真面目な女優だったんだけどね…前にも同様の報告例があったはずだ。ここに来た死人は大概モラルが欠如しちまう。大賀見が名前で縛っているのは見ての通りだが、死者と生者の境目がなくなっていくこの瞬間が、私は見てて一番辛いんだよ」
そう言って悔しそうに頭を振るカサンドラ。
…その時、僕の頭をふと疑問がかすめた。
(そういえば、女優や男優は事故死した人が多い。でも、劇場に関連があるわけでもないのに死んだ後になんでこの場所に来るんだろう…?)
そして、その疑問は翌日に意外な形で解決することとなった。
『…で重体になっていた、女優の
(小岩井…聞いたことがある名前だな)
つけっぱなしになっているテレビの音声を聞きながら、僕は警備員室前の床を清掃する。これは本来撤去班の現場維持の作業にあたるが、昨日からの人出不足により一時的に仕事を預かる形となり、それに伴い次の補充が決まるまで数日の清掃が1週間に引き伸ばされる形となっていた。
『おはよう。1日経って見てここはどんな印象かな?来るものは拒まず、去るものは追わず。我が一座で苦楽を共にするのなら私は誰が来ても拒みはしないよ』
そう言って警備員室の小窓から勧誘してくるのは劇場支配人の大賀見で死んでいるのに衣装持ちなのか昨日とは違う仕立ての燕尾服を着ている。
(…死人って同じ服の印象だったけど、意外にこの人おしゃれさんだな。というか本当に死んでいるのか?こうして見れば顔立ちの整った男性って感じしかしないし、劇団員もそうだけど朝も昼も普通に動き回っているしな)
その時、僕はふとポケットに入れていた手紙のことを思い出す。
…そういえば、大賀見に渡す日付は今日になっていた。
(今渡すか?でも、ここは防護服を着ていないとまずいだろうし…)
以前、主任から聞いていたが、防護服も魔除けの効果があるらしく、清掃用具一式はなるべく肌身離さず持っておけという話であった。
その主任も社内に二つ用事があるそうで午後までカサンドラの指示を仰ぐ形で作業を行っているが、そのカサンドラも他の作業場所を回らなければならないので実際この場所にいるのは僕一人だけである。
(…主任は、なるべくペアで動くようにって口すっぱく言ってたんだけど)
考え込んでいる僕を大賀見は無視していると思ったのか、ゆるゆる首を振る。
『釣れないなあ、君は舞台の脇役としての可能性があるのに。無論、経験を積めば誰でも将来的にここで主役になれるチャンスがあることを忘れてはいけない…もっとも、まずはお互いの名前を知ることこそが最大のコミュニュケーションだと私は考えているのだが…おっと、そんなことを言っている間に次の女優が来たようだ。』
(え?)
つられて僕は警備員室から入る通用口に目を向け…手を止める。
『あの、どうして私ここに来たんでしょうか。ここってどこなんですか?前後の記憶がどうもはっきりしなくて…』
手術着のおぼつかない足取りで2、3歩歩く若い女性。
彼女は靴を履いておらず裸足の足は冷たい床を踏む。
でも、彼女を見て僕は言葉にならないショックを受けた。
…彼女に会ったのはたった1日。
それも、この職場に採用された初日に会っただけの関係だ。
でも彼女は縁に恵まれると…幸せになれると思っていたはずなのに。
『あの、すみません』
最初に会った日と同じように彼女は肩を震わせながら僕に言う。
『…なんだかひどく寒くって、上着だけでも貸していただけませんか?』
そこに薄く微笑みを浮かべた大賀見が出てきて頭を下げる。
『ようこそ
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