10−2「焼失劇場」
「まず、劇場に向かう前に、小菅くんの個人を特定できそうなものはすべてここにしまっておいて。名札や財布や…あと私用と社用のスマートフォンも」
移動中の車を一旦止め、主任は頑丈そうなハザードボックスを出してくる。
ちらりと持ってきたカバンを見ながら「社用のスマホも?」尋ねる僕。
大きくうなずき「そう、スマホも」と返す主任。
「事前情報として言っておくけれど、これから数日仕事をする劇場は清掃場所の中でもヤバイ部類に入るから常に専属のエージェント数人と撤去班が週ごとに交代しながら管理をしなければならない場所なの…そして」
主任はスッと自分の口元に指をさす。
「決して自分の名前を知られてはいけない…それだけは覚えておいて」
(…でも、その相手に手紙を渡せって江戸川さんの指示が出てるんだけど)
僕はスポンジワイパーで女子トイレの床の水を拭き取りながら、困り果てる。主任が最近導入したという吸水性抜群のこのワイパーは水たまりをスイッチ一つでみるみる消していくのでとても便利だった。
ここで死んだ女優について聞いてみると、彼女は舞台のいざこざに巻き込まれ自室の風呂場で入水自殺したそうなのだが、その後に劇場に来て、二度目の入水自殺でようやく永眠したということだった。
(なんで舞台が嫌で自殺したのに、また
トイレはどこもかしこも水浸しで、主任は女優が自殺した奥の清掃用具入れの手洗い場に手を突っ込むと「ここは午後にもつれ込むかもね」とぼやきながら、排水溝に詰まっていた髪の塊をずるりと引き抜いて見せる。
その先には小さなカメオが付いていたが、主任はそれを見つめると「これは…カサンドラに渡さないとね」と小さくつぶやいてみせた。
…この建物はもともと市が運営していた劇場であり、市の財政が苦しくなったため指定管理者制度で民間委託をすることになった。その際、入札に名乗りを上げた会社こそが、代替わりをした大賀見誠の経営する大賀見興行だったという。
「…で、そこから先は大賀見のワンマンプレイでね。自分主催の劇団を立ちあげて格安公演を行ったり、大規模な建物の改修工事を行ったり、市営からの会員にタダ同然でチケットを配ったり…1年間のあまりに金に頓着しない経営ぶりに、委託していた市が危ぶみ始めた頃、彼主催の劇団の公演中に大規模な建物火災が起きたの」
昼休み、僕らは市民劇場から少し離れたパン屋で昼食を購入していた。
買ったのはカサンドラがオススメする食パンにカスタードクリームだけを挟んだシンプルなサンドイッチであり、近くの公園の端に車を止めると一緒に買ったひじきの惣菜パンとともに主任は昼食をパクつく。
「中に人も残っていたから多数の死傷者を出したかに思われたんだけれど、翌日、なぜか建物は再建していた。中の観客も劇団員も全員無事で、一般的には火災は一時的なものであり被害は最小限であったと報告されているけれど…まあ、この場所をうちの会社が管理している時点で、すでにお察しよね」
助手席に座ったカサンドラも干しぶどうの入ったレーズンクリームデニッシュを平らげて「あれはねえ」と言いながらお茶を飲む。
「…後で調べてわかったことだけど、大賀見は劇場を委託経営する直前まで単身でイギリスに渡ってオカルト研究していたんだ。そこで何を学んで実行しようとしていたのかはわからない。ただ、結果的に物理的に破壊することのできない建物の中で死んだ人間がうろつくような危ない場所になっちまったのは確かだよ」
お茶を半分ほど飲み、カサンドラは大きなため息をつく。
「15年かかってようやく死者の規模を40人までに減らせたんだ。最初なんか生焼けの焼死体が場内をうろついていたんだからね…苦労したよ」
そう話すカサンドラの胸に主任が見つけたカメオが光っているのが見えた。
…清掃場所に戻ろうと防護服で場内の廊下を歩いている最中。
階段付近で女性と若い男性の声がポソポソと聞こえた。
『ねえ、
「えっ…こんなところで。ちょっと、ダメだよ」
(おおっと)
僕は思わず足を止める。
どうしたものか。通り道の関係上、階段を上らないと次の清掃先に行けない。
だが、目の前では明らかに何かしらのコトが行われそうな雰囲気でもあって、ここでうかつに入ってしまえば明らかに向こうさんからヒンシュクを買ってしまうようなシンコクな状況でもあるわけで…
そうして階段近くで悶々としている僕に、背後から主任の声がかかった。
「なーにしてるの?さっさと行かないと時間が押しちゃうわよ。」
完全な不意打ち、その言葉に僕は思わず階段に踏み込んでしまった。
(…あ、やべ)
そして僕は目の前の光景に完全にフリーズした。
階段の隅で、舞台衣装を着たままの女優と防護服の上を脱いだ撤去班と思しき男性がバッチリキスをしている。
キャーと叫んで僕はその場から逃げ出したくなったが、この手の状況には慣れているのか女優は軽く微笑みながら階段を上がり、男性は見られたことがよほどショックだったのかその場に崩れるように階段に座り込む。
「…あ、お取り込み中にすみませんでした」
謝りつつも僕は気まずい気持ちでその場から離れようとするが、その首根っこを主任は捕まえると「落ち着け童貞」と言いながら、無線で全体連絡する。
「こちらエージェント・ドグラ。現場は北階段1F。撤去班の佐藤智がフェーズ2に移行する可能性あり、緊急とみなし回収します。情報漏洩に心当たりのある人物は今すぐ外部設置の救護班テント前に出頭するように」
そして主任は僕の肩を叩いてこう言った。
「急ぐわよ、さっさとコイツを外にある救護班のテントに放り込まないと」
「え?…あ、はい」
瞬間的にひどいことを言われたような気もするが、見れば座り込む男性は心ここにあらずと言った感じで、しきりにブツブツと「行かなきゃ…行かなきゃ…」と何事かをつぶやいている。
「急いで連れて行くわよ!」
主任の声に押される形で、僕は男性の上半身を、主任は足の部分を持って外のテントまで移動するが、男性の体には力が入っておらず顔がどんどん青くなっていくのがわかる。
「救護班!フェーズ2に移行する直前の撤去班職員。名前は佐藤智。すでに名前が周知されている可能性あり」
テントに男性を運び込むと、常駐していた防護服の看護師が男性を回収する。
「呼吸停止!体温心拍数、脈拍数ともに低下!AEDを急いで!」
数人の看護師がテント内を大急ぎで駆け回る中、主任が僕の肩をたたく。
「…出ましょう。もう、彼は手遅れだから」
「え?」
そしてビニールシートで覆われた救護班テントと劇場の入り口をつなぐ通路のところで、エージェント・カサンドラの怒号が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます