7−5「休日の清掃日誌チェック・済み」

 第67番倉庫…陸奥蓋むつがさ生体科学研究所。


 壁のカレンダーには6月の初めにバツがついている。

 僕は、主任に言われてようやく気がついた。


(そうだった。社内倉庫の清掃をしていた途中だった…)


 担当したのは生体サンプルの入ったボックス部屋の室内清掃作業。


 主任の指示のもと、棚の外側にあるガラス拭きやポリッシャーをしていたのだが、なぜかボックスのうち1つの前で急に具合が悪くなり…その後、何もわからなくなってしまったのだ。


「僕、どうなったんですか?」


 主任はニヤリと笑う。


「やばかったわよお、小菅くん。突然、ポリッシャーを放り出したかと思えば、ボックスの1つをガリガリと開けようとしていて、両目から血も流していたし」


 そこで主任がボックスを開けるとガラスの空の瓶が2本見つかった。


「だから、大急ぎで小菅くんの目から出た血を入れたの。それから症状が落ち着くまで病棟で輸血してもらって…その時に血を取ったけど非常時だし許してね」


 そう言ってペロリと舌を出す主任。

 可愛くしているつもりなのだろうが行動の意図が読めず僕は困惑する。


「…それは、乙の367番、『赤き血の涙壺』というアーティファクトでして、定期的に血を補充しないと周りに被害が出てしまうアイテムなんですよ」


 可愛らしい声とともに病室の戸が開くと、大きなぬいぐるみを両手に抱えた、身長130センチにも満たない童顔の女性が出てきた。


「あら、システム開発部長のエージェント・ヴェルザンディ。あなた自身が出てくるなんて珍しいわね」


 声を掛ける主任に、ヴェルザンディと呼ばれた女性は申し訳なさそうに持っているぬいぐるみに顔を埋めてみせる。


「本来でしたら血液の比重を感知するシステムが研究室に補充を促すよう連絡を入れるんですが、システム開発部の設計ミスで連絡が行かなくて、空になるまで放置された状態になってしまったんです…すみませんでした。あとで労災の手続きをさせていただきますので、金額は口座をみてください」


「それに…」と、主任は僕を見てつけ加える。


「うわ言でずいぶん気にしていたようだったけど、休日は積極的にダラダラ怠けるべきだと私は思うし、清掃日誌は…気づいているとは思うけど本来エージェントが管理する情報であって外部に流出するべきものではないから。小菅くんはそこまで気にする必要はないのよ」


 その瞬間、僕の顔が熱くなる…どうやら寝ているあいだに休みのことや日誌のことを口走ってしまっていたらしい。


「フラストレーションが溜まるくらいなら発散した方がいいのよ。何もしないより何かした方が、悩むより動いた方が良いこともあるんだからね」


 その言葉に僕は「はい…」と言いつつ、ふと気になったことを質問した。


「そういえば先ほど『周りに被害が出る』って言っていましたが、壺って放っておくと僕以外にも被害が出るんですか?」


 すると主任は「まあ、早急に処置したから被害はなかったんだけどね」と言いつつ、こう返した。


「あの壺は相手の負の記憶を呼び覚まして血の涙を流させるものなの。対象者が涙を流し尽くして死ぬとその肉親や近親の者に血の涙を伝播させる、本来の涙壺は戦場に行く夫や亡き夫に涙した妻の涙をいれるものなのだけれど、これは、その性質を逆手に取った呪いのアーティファクトなのよね」


 そう言って主任は立ち上がると、ヴェルザンディの首元まである白っぽく継ぎ接ぎのある目の大きな魚のぬいぐるみをポフポフと撫でる。


「ベル。可愛いの持ってきたわね…これ、なんの魚?」


 嬉しそうにぬいぐるみに顔を埋めるヴェルザンディ。


「えっと、幽霊ザメですね。ちょうど近くの水族館に用があったので、お土産に買いました。ヒレの動きが可愛いんですよパッフンパッフンて感じで」


 そうして主任とぬいぐるみで遊ぶヴェルザンディは僕に気づいたようで、一つ咳をすると、こんな言葉を口にした。


「ああ、そうだ。小菅さん…でしたっけ、妙なことを聞くようですが、社員寮で大田原という名前に聞き覚えはありませんか?」


 僕はしばらく考えたのち、こう答えた。


「いえ、特に何も」


「…そうですか」


 がっかりしたように頭を下げるヴェルザンディ。

 彼女が病室を後にすると主任は小さくため息をついた。


「システム管理部は今大変だからねえ、防犯システムのハッキング問題に内部犯の説も出てきてね。ベルのところでも一人社員が行方不明になっているようだし小菅くんと同じ社員寮だから何か手がかりがないかと思ったらしくて」


(…システム管理部の大田原か)


 僕はその名前に覚えがあるような気がした。

 でも、どこで聞いたか思い出せない。 


「…ま、どこですれ違ったかなんてわからないわよね」


 そう言って主任は後手を組んで僕を見る。 


「でも、あのマンションは気をつけたほうが良いわよ。最近、全体的にシステムの調子が怪しいし、小菅くんも危ないと思ったらこっちに連絡をちょうだいね」


 …そうして数時間後、僕は社員寮へと帰宅した。

 すでに空は暗くなり始め、夏特有の暖かな空気が漂い始めている。


 エントランスに行くとポストに小包が届いていることに気がついた。


 宛名を確認すると母親から。


 部屋に持ち帰り開けてみると中に目新しいスマートフォンの箱が入っており、一筆箋で母の几帳面な字が書かれていた。


『始ちゃん、お仕事はどうですか?3月に母さんの口座にお金がたくさん振り込まれていて驚きました。どうしようか悩んだ末にスマートフォンを2台買って、母さんだけ手続をして始ちゃんには機械を購入してみることにしました。今後に使うのでしたら、お店に行って料金プランなどを決めてみては如何でしょうか?追伸:次回からはボーナスは半分にしてください。母より』


 僕は箱の中から真新しいスマートフォンを取り出し、しみじみ眺める。


(そういえば、これを使えばネットに繋げたりアプリで色々できるんだっけ)


 そんな折、主任の言葉をふと思い出す。


「何もしないより何かした方が、悩むより動いた方が良いこともあるんだから」


 一瞬だけ、これで小説を書いたらどうなるだろうという気持ちがもたげる。


(…でも、ブランクもあるだろうし、今だって文章が書けるかといえばわからないのが正直なところだからな)


 そんなことを思いながら僕はエレベーターに乗ろうとエントランスを進む。

 しかし、歩く途中で大きなブザー音が聞こえ、思わず顔をしかめた。


 …パタッ…パタパタッ


 何かが跳ねるような音が続く。

 僕は眺めていたスマートフォンから顔を上げた。


『僕と君とは友達だ』


 血液で書かれた、乾ききった血文字。

 黄色いメッセージ付きの風船が首に巻き付けられた死体。


 顔の皮が剥がされた頭部それは、いつまでも上階に行くことを拒むかのようにエレベーターのドアの上部でガクンガクンと揺れ続けていた…

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