9−3「浸水」

 目の前の平塚の霊に全く動揺することのない主任。


 彼女はここまで引きずってきたのであろう大型のゴムボートの紐を引っ張ると、僕の顔を見るなり「清掃は終わった?」と聞いてきた。


「…まあ、大体」


 実際、彼の話を聞いていたせいでどこまで綺麗になったか微妙なところだが、少なくとも表も裏も大まかな苔は落とせたような気がした。


「ふーん、ま、いいわ。じゃ、ボートに荷物と一緒に乗って…もう始まるし」


(何が?)とは聞かずに、僕は清掃用具を片付けるとボートに乗り込む。


 慌てているのは顔からダラダラと大量の血を流す平塚。

 彼は狼狽した様子でボートに乗るそぶりも見せず、主任に声をかける。


『な、なんだよ。なんで俺が死んでいると思っているんだよ』


 主任は引っ張っていたロープを回収するとことも投げにこう言った。


「いや、小菅くんが名乗ってもないのに君は名前を知っていたでしょ…ま、死期の前後は第六感が鋭くなるって言うし、虫の知らせみたいなもので聞かずとも相手のことがわかっちゃったんでしょうけどね」


『え…あ…俺が?』


 焦る平塚くんに主任は顔をぐっと近づけてこう言った。


「でも、小菅くんを死地に誘うのは諦めなさい、余計な罪を背負うことになる。班長の飛田も、あなたに対して行った記憶処理は失敗だったと反省しているし、本来ならば会社からもあなたに対してそれ相応の対応ができたのだけれど…人を死なせてしまった以上、それも難しいみたいだし」


『記憶処理?人を…?ちょっと待て、俺が?何のことだよ、おい…!』


 いつしか遠くから鈴の音が聞こえ、ボートがわずかに揺れている。

 …そして、下を見た僕は驚いた。


 ボートが水に浸かり、水中には大輪の赤い花がいくつも咲いていた。

 その下は苔に覆われ平塚の足はそこに埋まり、動けなくなっていた。


『おい…嘘だろ?』


 水かさはさらに増していく…まるで三途の川のように。


『おい。なんで俺を置いていくんだよ。飛田が…アイツが俺に何したんだよ!』


 叫ぶ平塚くんはすでに水深2メートル以上の深さにいて、声は届くもののその姿は水かさが増すたびにさらに小さくなっていく。


『…ちくしょう、ちくしょう…!何なんだよ、ここは一体何なんだよ』


 その時、僕は見た。


 平塚くんの周囲に巨大な魚が…数メートル以上はある巨大な魚が群れ集い彼の周りを囲んでいくのを。


『…!…!!』


 もはや叫び声は届かない。

 魚に四方八方から食いつかれ餌になってしまった平塚君の声は届かない。


 巨大な魚の背には人の顔がチラチラと映る。

 …それは、大小問わない人の顔。怒りに満ちた人の顔。


「トラックにぶつかった後、死んだ彼を乗せた車は暴走してカフェテリアに突っ込んだの。現場の犠牲者は一桁を超えた、会社にも不備があったとはいえ故意に車をぶつけてしまった以上、死者の恨みが彼に向かわないはずはないし…」


 顔を上げる主任。


 いつしか水かさを増した墓地は巨大な運河となり果て、奥に光る橋が架かると白い服を着た人や船に乗った人々が向こう岸に渡っているのが見えた。


 そして、ずぶ濡れで岸の反対側に打ち上げられる平塚くんの姿も…


「死者は魂がある限り何度でも再生する。着ている衣も、川の水を吸った重さによって地獄か極楽行きか決まるそうよ。だから彼はきっと…ねえ、そうは思いませんか?飛田班長」


 二つ並んだボムボート。

 僕はいつしか隣で同じように呆然とする男の姿を見た。


「あなたは上の許可なしに平塚くんに記憶処理を施し、その場で起きる現象を常に否定するように教育指導していたようですね」


 疲れた顔の中年男性。

 飛田班長と呼ばれた彼は一人乗ったボートの上でびくりと体をこわばらせる。


「あなたの行った行動について上は委員会を発足し、査問会を開くということで一致しました。帰還後、専属のエージェントについてご同行ください」


「…わかった」


 絞り出すような声を上げる飛田班長。


 その視線の先。

 平塚くんはずぶ濡れのまま立ち上がるとゆらりとこちらを見る。


 再生が間に合わず、ところどころ魚に食いつかれた痕の残る顔。

 その目が恨みがましく…飛田をじっと見ていた。


「ああ、辞める考えもお持ちのようですが委員会はそれを許さないでしょうね。退社時には社員全員に記憶処理が行われますが、あなたにそれをするということは平塚くんを犠牲にした挙句、現場の責任を放棄したことになる」


 主任はゆっくりと飛田から離れるようにボートを漕ぎだす。


「査問会へ向かう時間はいつでも結構です。あなたがこの場所から出られた際に、そこへと向かってください」


 飛田のボートには先ほど平塚くんに群がっていた魚が集まってきていた。

 その背の顔はどれも怒りに満ちた顔で飛田を睨みつけている。


 そして怯える飛田のボートをたった一隻残し、防水扉をくぐり抜けた僕らは、今や広大な川となった墓地を後にすることにした。

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