2−5「夕食と殺人」
前の職場もその前の職場も、僕は毎回同じことを考えていた。
職場に馴染まなければならない。
馴染むためにはどんなことを言われても我慢しなければならない。
辛くなっても苦しくても受け入れて我慢しなければならない。
人はこれを当たり前のようにこなしているんだから。
辛いのが普通なのだ。息が苦しくなっても我慢するんだ。
流せるようになるまで我慢するんだ、我慢しろ、我慢しろ…
…しかし、その結果は惨憺たるものだった。
「知ってる病院はないの?ああ…体じゃなくて頭のほう。仕事任せるとパニックになるでしょ、診断しなきゃダメだよ。医者に電話するまで見ててあげるから」
「…今までの経緯は君の同僚から一通り聞かせてもらったよ。申し訳ないけれど君のできる仕事はここには無いね。残業時間と有給が残っているし、それで早めに休みを取って退職扱いにさせてもらっていいかな?」
もらった離職票の退職理由『業務遂行能力不足のため(事務)』の重い言葉。
今後、二度とまともな職に就くことは許されない…そんな宣言をされたような気持ちになり僕は書類をゴミ箱に捨てると自分の障がいを隠して就活に励んだ。
(…でも、それは間違いだったのだろうか?)
果たして、障がいを隠して就活をすることはいけないことなのだろうか。
人に迷惑をかける以上、それ相応の職に就かなければならないのだろうか。
今までの経験から考えても、この職場だって長く続くかどうかはわからない。
…でも、辞めることになったとしても今後どうすれば良いのか。
支援団体の勧める仕事につき、足りない分は生活保護を受けて…そんな生活をしてまで、親に迷惑までかけてまで、僕は生きる価値のある人間なのだろうか?
「大丈夫か?顔色が悪いようだな。マカロニサラダとポトフを持ってきたから、少しあっためるぞ。コンロは…随分綺麗だな。まさかまともな食事もしていないのか?これは由々しき問題だぞ…!」
ジェームズの言葉に僕は返答する気力すら起きない。
でも来てくれた以上は出された食事は口にしないと失礼だろうと思い、せめて手伝おうと歩き出そうとするが…どうにも体が動かない。
「別に手伝わなくていいぞ。マンションの住人は今日は早めに帰るようにと上からお達しがあってな、余った時間で作った料理だ。すぐ温まるから座ってろ」
テキパキと動くジェームズを見ながら、僕はのろのろ座り込む。
(…医者から以前にもらった薬を飲むか?)
念のため持ってきた前にADHDと診断され飲んで吐いてしまった薬。
それ以降、怖くなってうつの薬とともに飲めなくなってしまった錠剤。
でも、まともになるにはこれを飲むしかない。
気分が悪くなるし、目も回るけど、仕事をするにはこれを飲むしかない。
…でもどこにしまったか思い出すことができない。
心臓がどくどくと脈を打ち、余計に焦りが募っていく。
「ほら、できたぞ。小菅、さっさと食え」
そう言ってジェームズがちゃぶ台に置いたのは、スープ皿の中で湯気を立てるポトフであり…気がつけば、僕はスプーンを手にとり彼と食事をしていた。
「美味いか?」
ジェームズの言葉に僕は小さくうなずく。
柔らかい食材を嚥下すると胃の痛みが軽減される。
温かい食事を胃の腑に収めて、ようやく自分が空腹だったことを再認識した。
ジェームズはそんな様子を見て安心したのかマカロニサラダを自分の取り皿に分けると小さくため息をついた。
「まあ…俺もさっきは悪かったと思ってな。まだここに勤めて一月しか経っていない小菅にろくに助言もしないまま難易度の高いことをさせてしまった…さっき社員寮で殺人事件が発生したと会社からの連絡もあったしな、隣同士のよしみで今後は小菅とも情報共有が必要だと思ったんだよ」
ジェームズが隣人だったという言葉にも驚きだったが、そこで僕はポケットに入れていた社員用のスマートフォンにメッセージが入っていたことに気がつく。そこには会社からの全体通知、寮に住む社員への注意喚起が書かれていた。
『緊急通知:社員が殺される事件がありました。場所は社員寮のB棟です。各棟に住んでいる社員はなるべく連絡を取り合い、安全に努めましょう』
マカロニをフォークで突きながらジェームズは首を振る。
「聞いた話によると、被害者はマンションの給水塔の下で殺されていたそうだ、鋭い刃物で喉を掻き切られて顔の皮が剥がされていたらしい」
黄色いメッセージ付きの風船が首に巻き付けられた死体。
…被害者の血液で書かれた、乾ききった血文字。
『僕と君とは友達だ』
「意味は俺にもわからない…ああ、すまない、食事中にする話ではなかったな。ともかく、退勤後もしばらくは連絡を取り合おう。夕食がてらに話したいことがあるのなら話してくれ、大体のことは答えてやれるから」
そう言ってジェームズはポトフのスープをすする。
殺人の起きたマンションで男二人が当たり前に食事をする夜。
僕はつくづく奇妙な職場に勤めてしまったと感じずにはいられなかった。
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