2−4「過去の淀み」
…寮の部屋に戻ってみると時刻は夜の7時を回っていた。
前に勤めていた非常勤の仕事と比べれば、そこそこ遅い時間帯ではあったが、夕方の4時が本来定時で追加の残業で休日返上していた頃の前の職場と比べると残業代も出るぶん随分ましな状況と思えた。
思えば、あの頃の職場は新人であり臨時職員でしかない僕が突然管理職レベルの厳しい仕事を当てられ、仕事が終わらず残業と休日出勤を、ほぼ毎週のように繰り返さなければならない悪夢のような職場であった。
貯金もなく給料も低いのにそれでも月々の生活費が度々赤字になっていたことを考えると、やはり今の職場になって本当に良かったのだと感じる。
(…今回の件、ジェームズも以前の僕と同じくらいに忙しい身だったから、ミスが多くなったのかな?)
…だとしたら主任が上に報告したのはあながちタダのチクリではなく、優しさから出たものなのかもしれない。でも、あの人の性格だからタダの意地悪な気がしないような気もする。
その時、私用のガラパゴス携帯が着信音を鳴らし、すぐさま僕は電話に出た。
『始ちゃん、元気?』
僕は受話器に耳を当て母親に話しかける。
「どうしたの?給料日にそっちに生活費は送ったはずだけど」
すると電話口でためらうような声が聞こえた。
『…今日、お昼寝をしていたら父さんが出てきて、すごく怖かったの。前みたいにお酒を飲んでまくし立てられて…あの時にヘルパーさんを呼んで、義母さんのその後のお世話もちゃんと任せたのに…思い出しちゃって』
…しばらくの沈黙。
僕は夢の中で聞いた扉越しの母のすすり泣く声を嫌が応なしにでも思い出す。
「母さん、あの人の話はもうよそう。別居して3年は経つんだからさ。そりゃ、俺も同居していたアパートを離れたから母さんも寂しいかもしれないけど、家賃も含めてそっちの生活費も送っているし文句はないだろ?母さんがその場所を離れるなら別だけど…」
すると、電話口でまくしたてるような声が聞こえた。
『何を言ってるの、始ちゃん。母さんはこのアパートを離れる気はないからね。ここは母さんの居場所なんだから、ここに始ちゃんが帰ってこられるように私が居なきゃダメでしょ。ここは私たちの新しい家なんだから』
「…わかった、わかったよ母さん」
これ以上、母親を怒らせるのも嫌なので僕は話題を切り替えることにする。
「ところで、ちゃんとご飯は食べてる?前は外食が食べたいって言ってたけど。」
『…ああ、それなら大丈夫。やっぱり食べたい時にランチセットを食べられるのは幸せね、今回はパフェも食べれて母さんは満足よ』
…そう、前は年に一度外食に行けるか行けないかの困窮具合だった。
「ごめんよ母さん。迷惑をかけて」
それは、本心から出た言葉。
『いいの、でもあなたが病気でお金がない時期にお母さんの貯金を下ろさなきゃいけなかったのはかなり辛かったわ。今度はボーナスも出るんでしょ?少しずつで良いから母さんに返してね』
「…わかってる」
金が無いために喘息持ちの母親にパートの仕事までさせたのは僕の責任だ。
今後は親になるべく迷惑をかけたくないし、その気持ちは今でも変わらない。
『返せなくても仕事はちゃんと続けて。前みたいに仕事がどれほど辛くても死にたいなんて言わないでね。仕事は辛いのが当たり前なんだし、母さんよりも先にあなたが死ぬことなんて許さないんだから』
胃のあたりが重くなってくる…そう、この母さんの言葉に支えられて僕は崖っぷちの気持ちで必死に働いて今までの仕事にしがみつこうとした。
だが、結果はいつも惨憺たるもので、その度に母親に迷惑をかけてしまうのが常であった…そして、その原因は仕事ができない僕のせいでもある。
電話口の母は最後にこう言った。
『始ちゃん、前々から思って話しているけれど、あなたは頭の良い方ではないわ。勉強も嫌いだし周りの流れもまるで読むことができない…だから、せめて必死に今の職場にしがみつきなさい。辛くとも流すことを覚えなさい、いいわね』
「…わかったよ。母さん」
キリキリと痛む胃を抑えながら僕は切れた電話を握り、壁に寄り掛かる。
(やっぱり辛いな…母さんと話すことは)
…僕は母親に障がいの事は言っていない。
言えば余計な負担をさせることはわかりきっていた。
うつ病になった時にはさすがに金銭面で話すしかなかったが…今回は別だ。
就職しているし、歯を食いしばって仕事をすればなんとかなるはずだ。
僕は呼吸を整えよろよろと立ち上がりコートを壁のフックに掛けようとする。
…その時、玄関のチャイムが鳴り、僕はドアスコープを覗いた。
「小菅、いるか?ちょっと夕飯が余ったから一緒に食おう」
それは先ほどまで現場にいたはずのエージェント。
ジェームズがドアスコープからこちらを見ていた…
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