第19話 ターニャ・ロズバードの証言①
「それでは、こちらの契約書にサインを」
ターニャ・ロズバードはそう言って、羊皮紙の契約書を差し出した。琥珀色の目を細めて笑みを浮かべている。商談の相手は、アルメア王国の大貴族のひとりハール侯爵である。
ハール侯爵は、グレーの口髭を触りながら契約書に目を通す。その間、前に座るターニャの方にちらちらと視線を向けていた。
やがて、おもむろにペンを手に取ると、彼は契約書にサインをした。
今回、彼は自分の領地の防衛を名目に、大量の武器をシャシャ商会に発注したのだった。彼の領地は、ベナルティア王国との国境に面した地域である。最近、国境周辺でベナルティア兵との小競り合いが頻発していた。
ハール侯爵はターニャの顔を見詰めながら、サインした契約書を彼女に差し出した。
ターニャが契約書を取ろうとすると、その手をハール侯爵はそっと握った。
「君、私の屋敷で働かないかね?」
下卑た視線をターニャに向けながら、彼はにやにやと笑みを浮かべている。
「うふふ。まぁ、侯爵様ったら。奥様に言いつけますよ」
ターニャは作り笑いを浮かべながら、さっと彼の手を振りほどいて契約書を鞄に入れた。
ハール侯爵邸で商談を終えたターニャは、シャシャ商会本店に戻った。
シャシャ商会本店は、アルメア王国王都の中心街に立つ重厚感のある二階建て石積み煉瓦造りの建物である。
本館と別館の二棟で構成された建物の外壁や柱は、様々なポーズをした猫の彫刻で装飾されている。とくに正面玄関を飾る黒猫の標章は、「千客万来」を意味する縁起物らしい。
冒険者ギルド9625のギルドハウスと並ぶ王都の名所のひとつである。
「ターニャ、大会頭がお呼びです」
ターニャがロビーに入ると、彼女が戻った事に気が付いた総合受付の女性が声をかけた。
「大会頭が? かしこまりました。すぐに伺います」
ターニャはその足で、二階にあるシャシャ商会大会頭ユヌスの執務室へと向かう。
階段を上って、執務室の前に立つと扉をノックした。
「ターニャ・ロズバードです」
「入りなさい」
部屋のなかからユヌスの声がしたのを確認すると、ターニャは扉を開けて入室した。
「失礼いたします」
部屋の奥に置かれた黒檀の執務机で、ユヌスは書類に目を通しているところだった。顔を上げて、部屋に入って来たターニャの方を見た。
「急に呼び出して済まない。そちらに」
彼に席を勧められたターニャは、執務机の前に並べられたソファーに座った。書類に目を通し終えたユヌスは席を立った。
そして、ターニャの前に置かれていたソファーにもたれるように深く腰かける。
ユヌスがソファーに座ると、すぐに給仕の男性が入って来た。彼はお茶を淹れて、二人の前に差し出した。
薔薇のような香りのするお茶だった。
このお茶、先日ターニャが買い付けてきたものである。
給仕の男が部屋を出ていくのを確認したユヌスは、おもむろにテーカップを手に取った。立ち昇るお茶の香りを楽しんでから、ティーカップに口をつけた。
そして、二言三言、ハール侯爵との商談や世間話をした後、ユヌスは本題を切り出した。
「悪いが、遣いを頼まれて欲しい」
「どちらへ?」
「ギルド9625に預けている物がある。返還するので取りに来て欲しい、と先方から連絡があった。本日中に受け取りに行ってくれ」
ターニャは小さく首を傾げる。最近のターニャの仕事は、主に貴族を相手にした商談である。預けたモノを取りに行くなどという「お遣い」は、久しぶりだった。新入りの頃に、よく頼まれた仕事だ。
とはいえ、大会頭直々のご指名である。きっちり果たさねばなるまい。
モノによっては、彼女ひとりでは運ぶことができないかもしれない。その場合、荷馬車の手配や護衛を雇う必要もある。美術品や危険物のようなものだと、取り扱いにも気を払う必要がある。
そこでターニャは、ユヌスに尋ねた。
「どのようなお品でしょうか?」
「高品質の魔石だ。帰りは護衛をつけてくれるそうだ」
そう言うとユヌスは、テーカップを口元に運んだ。
高品質の魔石となれば、宝石・貴金属と同じような扱いになる。ただ、ギルドの方で護衛をつけてくれるのであれば、護衛を雇って先方へ赴く必要はなさそうだ。荷馬車の手配も不要だろう。
「かしこまりました。すぐにギルド9625へ向かいます」
そう言うとターニャは立ち上がり、ユヌスに軽く会釈すると執務室を後にした。
ユヌスの執務室を出たターニャは、ハール侯爵のサインが入った契約書を上司に提出した。そしてユヌスの「お遣い」を果たすため、シャシャ商会本店を出た。
これから彼女が向かうギルド9625は、王都の中央を南北に走るカイザーストリートを越えた王城の東側にある。
カイザーストリートを渡って東へしばらく歩くと、不思議な建物が見えてきた。
巨大な花崗岩を無造作に積み上げたような石造りの建物。ギルド9625のギルドハウスだ。
ターニャはギルドハウスの前に立ち、その建物を見上げた。危うさと安定感が同居したような建築物に息を呑んだ。
ギルドハウスの扉を開け、冒険者たちの視線を感じながら正面にある総合受付へ向かう。総合受付には、ミラが立っていた。
「シャシャ商会のターニャ・ロズバードです。大会頭ユヌスの遣いで参りました」
ターニャが総合受付で用件を伝えると、ミラはにこりと笑みを浮かべていた。
「ターニャ様。ようこそ、いらっしゃいました。マスター・エイトスがお待ちです。ご案内いたしますね」
二人はギルド9625本部棟にあるエイトスの執務室の前までに来ると、ここまで案内をしたミラが部屋の扉をノックした。
「ターニャ・ロズバード様が、いらっしゃいました」
「お入りください」
ターニャは、扉を開けたミラに入室を促される。
部屋に入ると執務室には、エイトスとラステルがいた。そして黒猫シャノワが執務机の側でちょこんと座り、金色の瞳をターニャに向けている。
ラステルの姿に気付いたターニャは、微笑みを浮かべた。それにラステルも微笑み返す。
そしてエイトスの方に顔を向けると、一歩進み出てスカートを摘まんで挨拶した。
「初めまして。シャシャ商会から参りました、ターニャ・ロズバードと申します」
「ようこそ、いらっしゃいました。ターニャ。エイトス・レーヴといいます。当ギルドのマスターを務めております」
エイトスも爽やかな笑みを浮かべて、ターニャに挨拶した。
「お忙しいところ、お越し下さりありがとうございます。どうぞ、そちらへ」
エイトスがターニャに席を勧めると「失礼いたします」と言って、彼女はソファーに腰かける。
木製の小箱を持ったエイトスがターニャの前に、ラステルはターニャの隣に座った。
シャノワは、ソファーに飛び乗りエイトスの隣にちょこんと座る。
「こちらが、お預かりしていた品です。お改めください」
そう言って、エイトスは持っていた小箱をターニャに差し出した。
箱を開けて中身を確認すると、中には彼女が見たこともない魔石が入っていた。
ターニャは、魔石についてはそれほど詳しくない。箱の中の魔石が、どんな魔石かまではユヌスからも聞いていない。
箱の中に入っているのは「サタナエル石」だ。ギルド9625での解析を終えたため、シャシャ商会の金庫でひとまず保管することになったのである。
ターニャはその不思議な魔石に、一瞬、見惚れてしまった。やがて、エイトスとラステルの視線を感じて、はっと我に返った彼女は静かに箱を閉じた。
そして、微笑みながらエイトスの方を見て「確かに」と答える。
エイトスから魔石を受け取ったターニャは、ソファーに座り尻尾を左右にフリフリするシャノワに視線を向けた。彼の仕草に顔がほころんでいる。
「本日は、もうひとつ、貴女にお尋ねしたいことがあってお呼びしました」
その言葉にターニャは、ふたたびエイトスに視線を向けた。
「わたくしに、でございますか?」
彼女は、いちどラステルの方を見てから、またエイトス方に顔を向けて瞬きをする。
「貴女は、かつて、ここにいるラステル・クィンの側仕だったそうですね?」
ターニャの眼が、大きく開かれた。
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