〇〇まえにクソみたいな人生振りかえった回顧録
@nanashideok-desu
第1話
50万飛ばした。たぶんもう、年末から年始にかけて、100万近くは損してるんじゃないかな。
10年続けた株式もこれで終了。日銭を稼ぐ手段も消え失せて、お先真っ暗だ。
振りかえればろくな人生じゃなかった。
生まれた頃からおそらく親父と母親は揉めてたし、物心ついたときには暴力も始まっていた。
母親はブチギレると人の髪の毛ひっ掴んで、名前もわからんような技を駆使して壁にぶつけてきたり、床に叩きつけたりした。もちろん、痛い。子供の自分はせいぜい床でぐったりするのが精一杯だ。
そんな環境だから、同じテを二度、三度と喰わらないようにご機嫌取りが上手くはなる。だが、しょせんはバカなガキだ。菓子でも食えばゴミを片づけ忘れたり、メシの配膳をしくじって、絨毯の上にこぼしたりする。そうなるともうキレた母親の技の見せどころだ。
しょせん人生なんて、ボールのように転がされる。蹴る側にまわったやつだけが愉快になる。
せいぜい小学一年かそこらのガキの頭の中には『逆襲』や『復讐』のキーワードすら思い浮かばない。どうやって『回避』するか、そこに苦心を重ねるだけだ。
自分でも思い出すのも苦痛になるくらい、一年365日、その大半が母親によるブチギレ行為とその他の負の出来事で埋まっていた。
中でも、とりわけ出先でキレられるのが厄介だった。
小学校が終わると、保育園のような場所に預けられていた自分は、夕方になると迎え意に来る母親を待っていた。
まだ日も暮れていない頃合いでは、外からでも屋内の小屋みたいな建物に何人かの子供達がいるのが見える。
迎えに来た母親は不機嫌だった。理由はわからない。乗ってきた乗用車がトラブルを発生させたわけでもなさそうだ。そこに自分が関与しているのだとすれば、てめーを迎えに来るのが面倒だ、という感情的なものだけだろう。
母親はむっつりした表情のまま車のドアを強く開け閉めする。その音が、あたりに畑や林くらいしかない殺風景な場所にはえらく響く。
建物から不安そうな顔した子供がこちらの様子をうかがっているのがわかった。もうはやくここから去りたいと強く思った。
母親が車に乗り込んだので、自分も助手席に座った。
それから車が発進し、林の中の小道を進んでいくまでの間、たいした会話もしていないはずなのに、母親がみるみる激高していく。
いったい何がそんなに憎いのだろう。
迎えが大変なら、学童に通うのは止めようか? と口にしてしまったからだろうか。
「こんなに色々やってやってるのにっ!」
母親がヒステリックに怒鳴りだす。
運転席にいるのにもう運転のことなどそっちのけで、足元のペダルをガンガン踏みつける。履いた赤いハイヒールが壊れそうな勢いだ。怒りに我を失っている。
こうなるともう所詮はガキにすぎない自分は、何をどうしたらこの場をうまく収めることができるのか、ただただ動じる心を必死に内側におさえつけておくことしかできない。
ブォンブォンと車が妙な音をたてながら前へ前へと進んでいく。林を抜けた先の信号は、赤だ。それでも母親は車を止めはしないだろう。
案の定、車は赤信号を無視して直進した。
──ああ、最悪だ、とこの時おもった感情は、今でも忘れてはいない。
幸い、距離を置いたところから走ってきた対向車の中年男性がじろりとこちらを睨んでくれたおかげで、母親の暴走はストップした。
派手な服を着て破天荒な行動をするわりには、人目を気にする傾向があるのが、うちの母親だ。
車を路肩に停車させ、やけくそ気味にマイルドセブンの箱を掴むと、タバコを一本取りだし火をつける。
こんなとき、この人の頭の中には、となりで恐怖に押し潰されそうになっているガキの存在などまるで無かったことだろう。
ただこの一件がきっかけで、ガキはガキなりに対策を講じた。
父親という切り札にすがってみることにしたのだ。
その日、母親は一人で買い物に行っており、親という存在は父が一人いるだけだった。
父親は、母親ほど暴力をふるう人ではなかった。だがどうにもとっつきにくいところがあり、愚かさを嫌う傾向にある。それが親子間の問題であれ、人間関係にかかる問題などは取るに足らないもの。つまり、不満をだらだら書き連ねただけの駄文にすぎないのだ。
それでも親父は、この七歳程度の小娘をわりと好んでいるふしがあった。何故かはわからない。単純な性別の違いから始まって、様々なものが積み重なることで愛着として出来上がっていったのだろう。
なかなか言い出せずに時間だけが過ぎた。たったの数分でも、それは非常に長々としていた。
だが、あぐらをかいた父親の足の上に乗せられていると、母親のことについて少しは語ってもいいんじゃないかという気にさせられる。とうとう長々といじくっていた指を離し、覚悟を固めて口にした。
「お母さんがね、ぶってくるの」
「……ぶってくる? どこを?」
「いろいろ」
「なにか叱られるようなことをしたのか?」
「……そんなにしてない、とおもう。とにかく怒ると、怖い」
これがガキの精いっぱいの訴えだ。またうつむいて、両指で爪をこすったり、皮を剥いたりする。言葉を巧みに操れない無力さを胸の奥に感じながら……。
親父がどんな顔をしていたのかはわからなかった。だがきっと、困ったと口に出しはしないものの、厄介な話だと嘆息したい思いはあっただろう。
──けど安心しろ、親父。その杞憂はどうせ長くは続かないんだ。
ちょうどこのやり取りが終わった頃、買い物から帰宅した母親が玄関に現れた。
片手に提げたレジ袋より短いスカートを履き、それより長いパーマのかかった髪がハイヒールを脱ぐ動作に応じて揺れうごく。
どうせレジ袋の中には、食材よりも出来合いのものばかりが詰まっっている。その袋をテーブルの上に置き、母親は奥の部屋にいる父子を目にした。
その一瞬で、すでに母親は何かを察知していた。これが、この母親の最も厄介で優れた点だ。だからその瞳は、もう絵に描いたようにキョトンとしている。けして、殺気も怒気もはらんではいない。
わたしなんて、しょせんは幼いガキだ。でも、その母親の目を見たとき、内側から築きかけていたものがいともたやすく瓦解していくのがわかった。
足の上から子供を下ろして、親父が言う。
「おまえ、子供をぶってるのか?」
「いいえ。なんのことだが……」
ぱちぱち、二回のまばたき。本当に何も知らない目をする。無垢な黒目がちな瞳が、演技上手に拍車をかけているのかもしれない。そして、はなから動揺の素振りをみせていないことが、自信をもっとも効率よく最大の勝利へとつなげてくれる。
「でも、この子がぶってくるって言うんだよ」
母親はそそくさと父親の傍らに近づき、心配そうな顔を向けてくる。
その顔に、父親はどこか熱っぽさを込めていることに、この母親はちゃんと気づいている。
「この間この子がね、学童に通うのが嫌だって言ったの。それでちょっと叱ったのが良くなかったのかもね。そんなに嫌なら、もう迎えはやめにして、一人で帰らせてあげるようにしたら、この子の機嫌も良くなるかも」
「そういうことだったのか。なんだ、学童が嫌なのか。せっかく通わせてるのに」
父親は、この母の言うことを鵜呑みにしてしまった。せめて一言、本当なのかと審議を問うくらいしてくれたら首の一つでも横に振れたかもしれないのに、歪んだ虚構だけが飲みこまれて、確たる事実のみが吐きだされるのだ。
──これが現実か。
母親は、
「困ったわねぇ」と、ほんのり笑みさえ浮かべていいながら、スッとその場から立ち上がると部屋を去った。もう何も言う必要はないと確信したのだろう。
しかもあの発言によって、さも自分は悪くないという理由を上手に固めつつ、ガキの迎えに行くという手間からも解放される手筈もととのえた。あの暴走運転の日、学童の出費に難癖をつけていたのだから、その後母親の計画にのっとって、わたしは学童通いを止めることになる。その理由も、本人の意思とは違うところで勝手に固められている。
ガキが学童に通うのをめんどくさがったから──。
父親は子供のほうに向き直ると、さも当然だといわんばかりに言った。
「ほら、何もやってないってよ」
わたしはただ、暗い顔をしていた。だがそれは見つめることもなくただ目にしていた薄汚れた絨毯しか知らないし、知らないままみんな死んでいく。
……終わった。
子供でも、なんとなく未来のことがわかるときがある。
結局、なにをどうやっても抗えない世界が自分の将来にはひろがっているのだ。
その後も母の暴力はしばらく止むことはなかった。
けれどあの以来、母の行いについて父に願い出ることもなかったし、それが永久に話題にのぼることはなかった。
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