いちじく

「なんだか終わってみると、あっという間ね」


 告別式を終え、自宅に戻ってくると姉は大きなため息をついた。

 両親は叔母夫婦と一緒に祖母宅に残っていた。参列した人々の名簿や香典金額の取りまとめ、香典だけ寄越した人や電報をくれた人に対するお礼の手配等々、葬儀の後片づけというのはまだまだ続くらしい。


「そりゃあそうでしょ。四十九日が終わるまではまだ仏様にもなっていないんだし」

「って事は来年のお盆が新盆になるのか」

「しばらくは法事が続くんだから、ちゃんと頭に入れときなさいよ。おばあちゃんの法事ぐらい、来ないと駄目だからね」


 言われなくてもわかっている。むしろその辺りの付き合いについては会社付き合いの多い僕の方が姉よりも詳しそうなものだけれど。昔からお姉さんぶりたい性格だからと放っておく事にした。


「あの家、どうするんだろう? あのままにはしておけないよね」

「ちらっと聞いた話だと、売りに出すつもりみたいよ。ただ建物は古すぎてリフォームしても買い手を見つけるのは大変だろうから、できれば更地にした方が売りやすいんだろうけど。そんなお金もないから、とりあえず建物付きで買ってくれる不動産屋がないか探してみるとか話してた」

「そっか」


 その昔、父や叔母が育ち、僕達が小さな頃は親戚が集まって賑わっていたあの家も、主がいなくなってしまえばこんなに呆気なく処分されてしまうのか。ましてや祖父母は愛着を持って暮らしていたであろう家が邪魔物扱いされるとあっては、無常さを感じずにはいられない。

 祖母の人生は、一体どんなものだったのだろう。最後の最後まで子どもたちの手を煩わせ、死んだ後は生活してきた家すらも躊躇なく処分されてしまう一生。父と叔母という一男一女を残せたとはいえ、それ以外に何か彼女の生きた証のような物は遺せたのだろうか。

 何よりも無念なのは、祖母自身に違いない。きっともっと人々の心や、目に見える形として死んだ後も生き続けるような人生を送りたかった事だろう。


「ねえ、お腹空いてない? 何か食べなくて大丈夫?」

「ああ、一応はあっちで食べて来たし。お茶が飲みたいかな」

「そうね。お茶でも淹れようか。私もちょこちょこつまんだんだけど、どこに食べたかわからない感じ」


 告別式後の精進落としで食事が用意されていたものの、僕も姉も挨拶やビール注ぎに忙しく休む暇もなかった。大したものは食べていないはずだけれど、なんだか胃がもたれたような感じがして食欲が湧かなかった。

 姉は慣れた手つきで急須にお茶を淹れてくると、一緒にガラス容器を一つ持ってきた。中には茶色っぽいジャムのような物が入っている。


「何これ?」

「いちじくの甘露煮。前に作ってみたの。美味しくできたと思うからお茶うけ代わりに食べてみて。あんた好きだったでしょ?」


 姉の言葉に、ずっと昔に食べたきりのいちじくの香りが蘇ってくる。蓋を開けると、丸のまま煮込まれたいちじくが飴色に光るシロップの中に沈んでいた。

 小さな子どもの頃の僕が、夢中で甘露煮を貪り食っている光景がまざまざと脳裏に浮かんだ。煮込まれてとろとろになったいちじくは爪楊枝で刺してもすぐに崩れて食べにくいからと、容器を抱えるようにしてあればあるだけバクバク食べたんだ。そんな僕を食べすぎだと叱る母の横で――――は母を宥め、「好きなだけ食べ」とほほ笑んでくれた。


「また作るから。徹ちゃんが食べたいだけいっぱい作ってあげるから」


 そう言って、僕の頭を優しく撫でてくれた。

 僕は突如として呼び起こされた記憶に戸惑いを隠せないまま、恐る恐るいちじくに手を伸ばした。爪楊枝で刺した大きな飴色の塊を落とさないように注意しながら、口の中に放り込む。


 脳天に響くような強烈な砂糖の甘さの底に、いちじくの甘酸っぱい香りが加わって、口いっぱいに広がった。

 そうだ。僕はこのいちじくの甘露煮が大好きだったんだ。そんな僕のためにと、せっせといちじくを煮ては用意してくれた人の事を、僕が食べる様子をにこにこしながら見守ってくれていた事を、どうして僕は、忘れてしまっていたんだろう。


「……ねえ、ちょっとあんた、どうしたの? もしかして泣いてる?」


 姉に言われて初めて、僕は頬を伝う涙に気づいた。


「あっ……いや、ごめん。なんでもないんだけど……」


 ごまかすようにして涙を拭い、口の中に余韻のように残るいちじくの甘ったるい味をお茶で流し込んだ。


「どう? 上手く出来てる?」

「うん。美味いよ。……っていうかこれ、ばあちゃんの味だよね?」

「そう。結構昔に教えて貰ったんだ。まだボケ始めたぐらいの時だったかなぁ。ばあちゃんちに遊びに行った時に、急に一緒に作ろうって言われて。徹ちゃんが好きなんだから、あんたがこさえて食わしてやれって言ってさ。きっとお母さんあんまりこれ好きじゃないから、私に言ったんだろうね。砂糖ドバドバ入れてびっくりしたけど、あの時教わらなかったらこの味は出せなかっただろうなぁ」


 きっと僕が大学に入ったか入らないか、そのぐらいの頃の話だろうか。

 その時までは祖母はまだ、僕の事を覚えていたんだ。それだけじゃなくて、僕の事を想ってくれていた。


 祖母が何も遺さなかっただなんて、僕はなんて思い違いをしたんだろう。祖母はちゃんとこうして、自分が生きてきた証を姉に遺して行ってくれたではないか。

 僕の中にも、しっかりと刻み込まれていたじゃないか。

 きっと僕が知らないだけで、両親や叔母夫婦、その他関わった多くの人々に、同じように色々な生きた証を遺して行ったんだろう。

 全部僕が知らなかった……目を逸らしていただけで。


「ちょっとやめてよ。いちじく食べながら泣くって、おかしいじゃない。お葬式でも火葬場でも平気な顔してた癖に、どうして今頃泣くかなぁ」


 そうやって揶揄する姉の目にも、涙が浮かんでいた。


「……うん。美味いよ。いちじく、本当に美味しい」


 僕は次から次へとこみ上げる涙を誤魔化すのを諦め、ガラス容器を引き寄せると、抱えるようにして夢中でいちじくを食べた。ばあちゃんの遺したいちじくの味を、もう一度僕の舌に焼き付けようと思った。

 口の中がいちじくの甘さでいっぱいになるのと同じ分だけ、頭の中にはばあちゃんの笑顔が蘇った。

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いちじく 柳成人(やなぎなるひと) @yanaginaruhito

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