マンドラゴラの冬
赤猫柊
第1話
むかしむかし、まだ私が植木鉢で育てられていた苗木だった頃、世界はすべて音でできていた。
マンドラゴラの顔は根っこにできる。私の目も口もぜんぶ土の中で、瞼を開けることも、口も開くこともできなかった。
だからその頃の私が知る世界というのは、葉や土の振動パターンのことでしかない。気づけば人間の言葉が理解できるようになっていた。
きっと植木鉢で、しかも室内で育てられていたからだろう。人間の会話ばかりよく聞こえてきたから自然と聞き取れるようになったのかもしれない。
今だからわかるのだけど、私の育てられていた部屋は病院の一室だった。そこには一人の女の子が入院していて、私の世話をしてくれていたのもその子。
よく晴れた春の日に吹く風のように、とてもやさしい声だった。
もちろん波形も周波数もぜんぜん違う。それでもあの子の声は、窓から差す踊るような陽光や、体根を包みこむ土にも劣らないあのやさしい音色は、やっぱり春風に似ていた。私の命が芽吹いたのが春だったから、ことさらにそう感じたのかもしれない。
女の子の病室にはいろいろな人が訪れた。医師、看護師、友達。中でも特に印象的だったのが彼女の家族たちで、毎日毎日一日も欠かすことなく家族の誰かしらがドアをノックする音が聞こえたのを覚えている。
彼女たちの会話を聞きながらゆっくり育っていった私は、いつしか自分や女の子の置かれた状況をうっすら理解し始めた。
それは決して、ある会話を境にしてという劇的なものではなく、ジグソーパズルのピースをはめていくうちにぼんやり完成図が見えてくるような緩やかなものだ。
どうやら女の子は重い病にかかっていて、それを治すには特殊な薬がいるということ。
その薬を作るにはマンドラゴラという非常に高価な植物が必要で、運よく手に入れた種を今、育てているということ。
そして、そのマンドラゴラがどうやら私のことらしいということ。
つまり、私の命は女の子の命のために生み出されたということになる。
その頃の私はまだぼんやりとしか理解していなかったので「なんとも責任重大な話だなあ」くらいにしか思っていなかった。
毎朝、女の子の「おはよう」で目を覚まし、家族の団欒の響きに耳を澄ましながら、窓際でひなたぼっこをして一日過ごす。そしていつか、大きく育ったあかつきには女の子を病から解き放つのだ。
そんないつかの訪れを女の子と家族は笑って話していた。
女の子の笑い声は春風のようだった。
変化とは必ずしも突然ではない。
急に暴風が吹き荒ぶ時もあれば、ゆっくりと凪いでいくこともある。
女の子に訪れた変化はまさに凪のようにゆるやかなものだった。
私の葉や茎が育っていくにつれ明るくなっていく家族の声とは対照的に、女の子の声はどこか物悲しげな色を帯びていった。
「やっぱりわたし、リネを抜いちゃうの嫌だな」
彼女の言葉に家族も面食らったようだった。
父は驚きを隠すことなく口を開いた。
「何を言ってるんだい。せっかくこんなに育てたのに」
「だって、マンドラゴラには頭があるんでしょ。ものを考えることも、何かを感じることもできるんだって本に書いてあった。それは心があるってことじゃないの」
「それはそうかもしれないが――」
それから父は諭すようにいろいろな話をした。
娘をどれだけ大切に思っているかとか。マンドラゴラがどれほど高価のものだとか。今の状況がどれだけ幸運なものかとか。毎日の食事も命をいただくことには変わらないとか。
女の子の反応はとても少なく、彼の言葉がどこまで届いているのかはわからなかった。
その日、私はようやく自分の置かれた立場をうっすらではなく、正確に理解した。マンドラゴラを使って薬を作るとは、私を殺すということなのだと。
私は女の子の声が好きだったけど、それ以上に死ぬのは嫌だった。
それからは世界のすべてが敵だった。
誰もが私の死を望み、女の子の生を願う。それが当然で当たり前の世界。
唯一の例外は女の子自身で、彼女だけは私を薬の材料にすることに心を痛めているようだったけれど、だからなんだというのだろう。
どれだけ女の子が悲しんでも、彼女がいる限り私が収穫されることは変わらない。それなら形だけの哀れみはただ空しいだけだ。
私は覚悟を決めた。
これは戦争だ。命を懸けた争い。私と女の子、生き残るのはどちらかのみ。それ以外はない。
私は植木鉢から出ることすらできないけど、それでもされるがままに死を受け入れるつもりは砂粒ひとつもなかった。
ある日、女の子が診断で部屋から出た時のことだ。
病室に残っていた家族の会話が聞こえた。
どうやら彼らは私が充分に育ったら、女の子の目を盗んで勝手に収穫してしまおうと企んでいるようだった。
会話の中に「一ヶ月後」という単語を聞いた私は、まだ日中だというのに日が沈んでしまったような気持ちになった。
そして一ヶ月が経った。
看護師に連れられて女の子が出ていき、病室には私だけ。定期的に訪れるこの時間が私には何よりも恐ろしかった。
植木鉢から延びる茎や葉を必死にくねらせ、牢獄からの脱出を試みるが、植木鉢は微動だにしない。
このまま収穫を怯え待つしかないのか。その時、病室の扉がゆっくりと開く音が聞こえた。息を殺して誰かが近づいてくるのがわかる。
茎を固くして待っていると、全身が浮遊感に包まれた。土から抜かれたのではなく、どうやら植木鉢ごと持ちあげられたらしいことに遅れて気づく。
家族の会話を耳にはさんだ記憶によれば、マンドラゴラは土から抜かれた時に絶叫をあげるため収穫には細心の注意を払う必要があるという。とても病室内でできることではないのだろう。
これは好機だった。
植木鉢を抱えたまま走る家族の誰か。私はかつて感じたことのない大揺れを身に受けながら、覚悟を決めて茎や葉を全力で揺らした。
再び全身を包む浮遊感。しかし、先ほどと大きく異なるのは直後に訪れた強い衝撃だ。
植木鉢が砕け、土がこぼれ落ちる。
そして私は死の産声をあげた。
このちっぽけな体根のどこにこれほどのエネルギーが詰まっていたのだろう。
それは私が抱くこの世界への敵対心そのものだった。
敵意、害意、憎しみ、生への渇望、もう戻らない春という巡節へ捧げるレクイエム。
生まれて初めて開けた目に映るのは、こぼれた土と陶器の破片、そしてリノリウムの床に倒れ伏す一人の人間の姿だった。そうはいっても、ずっと音だけの世界に生きてきた当時の私には目の前の物が何かなんて理解できるはずもない。
自由になった私はすぐにでもこの場から逃げ出そうとして、思わず根を止めた。
「痛い、いたいよ……」
春風がそよぐ音がした。
倒れた誰かの耳元から赤色がしたたり落ちる。
植木鉢を運んでいたのはてっきり女の子の家族の誰かだと思っていたが、本当にそうだったのだろうか。
「いタい、イたいよ……リネ」
目の前から聞こえる声はまぎれもなく聞き慣れた女の子の声だった。
少女の瞳から透明な水がつたい、血だまりに溶けていく。
そして春風が止んだ。
誰かが走ってくる音が聞こえて私は慌ててその場から逃げ出した。
そうして私は自由の身になったが、なぜか病院からすぐ離れる気にならなかった。
残された家族や医師の会話を盗み聞きする日々がしばらく続いた。
どうやら彼女は私を逃がしたがっていたらしい。逃がすといっても病院の外に植え替えるくらいしかできないだろうに。人目のつかないところに隠してしまえば何とかなると思ったのだろうか。幼い子どもの行動なんてそんなものだけど、実際私は彼女のおかげでこうして生きている。
今は何も考えず浴びるように水を飲みたかった。
病院の花壇の近くで見つけた水飲み場へと向かう。周囲に人間がいないことを慎重に確認しながら、病院の窓から死角になる場所へとホースを引っ張りバケツに水を貯めていく。少し失敗してホースから勢いよく飛び出した水をまともにかぶってしまった。あまりの寒さに全身がぶるりと震え上がる。
落ち着いてから周りを見渡すと、紫色で
私は満足するまで水を飲むと、最後に水面へと花を浮かべた。
季節はもうすっかり冬だった。
マンドラゴラの冬 赤猫柊 @rorororarara
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