第九話 黒い魔物の大群
俺とリーサは耳朶に届く地鳴りに身を強張らせた。
「やだ、また地震? さっきもあったよね」
「いや――今度は違うと思う」
意識してリーサを背に庇いながら、俺は地続きに音が響いてくるほうへと足を向けた。半ば無意識に姿勢を低くしては、音の鳴る先を凝視する。
「あれは――デビルズレッドアイの群れ。しかも、かなりの数だ」
スキルを発動するまでもなく、俺はそう呟く。
視線の先。木立の向こうには、無数の黒い影が一つの大きな波のようにうねりをあげていた。
デビルズレッドアイ――。
名前は禍々しいが、ラビット種の魔物だ。
この魔物はどの種も目が赤い。にもかかわらず殊更のようにレッドアイと呼称されるのは、全身が赤とは対照的な真っ黒の体毛に覆われているせいだ。
赤い目に、黒い体毛――。デビルと呼称したくなった最初の人の気持ちがわからなくもない。
それが数え切れないほどの大群で移動する光景。大きな黒い塊に、無数の赤がぎらぎらと点描されている光景は見る者の恐怖を掻き立てる。
「なんで、あんなにたくさんいるの?」
普段のちょっと間延びしたような声はどこかへやら。張り詰めた糸のような響きが肩越しに聞こえる。気づけばリーサが俺の肩へと手を添えており、それに思わずどきりとしてしまった。
――いや、今はそれどころじゃないな。
「わからないけど、なんだか様子が変だ。もとから集団行動を好む魔物とはいえ、あれほどの数が移動しているのは見たことがない」
見たことはおろか、聞いたこともない。
大きさは俺の知る元の世界の兎よりふた回りほど大きい魔物だ。
一匹程度なら俺でもまだ倒せるし、仰々しい名に反し食べれないことはないので獲物として持ち帰ったこともある。
が、五体、十体となれば話は別だ。それこそ、命の危険が伴う。
普段なら韋駄天の腕輪の効果でとんずらするところ。今はリーサがいるのでそうはいかない。
幸いにも大群とはいくらかの距離があり、このまま踵を返せば不条理な邂逅は避けられそうだ。
「運がいいことに村の方向ともずれてるな。少しでも南に向けば危ないかもしれないけど……」
とはいえそれを危惧している暇はない。今のうちに俺たちもこの場を離れないと――。
がさりっ――
突然の右向こうからの音に、俺の体もびくりと跳ねる。
感じていた肩の重み、リーサも不随意に反応したようで、ともして俺の肩がぎゅっと握られた。
いやな予感を首筋に感じながら、俺は音のほうへと向く。
木々の、生垣の影から覗く複数の赤い光――。
俺が大声を上げたのはそれを目視した瞬間だった。
「――逃げろぉおっ!」
叫ぶと同時に俺はリーサの手を取って走っていた。
鬱蒼とした茂みから見えたのは、多数の魔物、デビルズレッドアイ!
俺たちが逃げ出すのと同時に、飛び出してきた魔物達が追いかけてくる。ざっと目算しただけでも十匹では到底足らない。
黒い体毛に、それとは対照的なげっ歯類のような白い門歯が向けられる。俺は全身いたるところに食いつかれる自らの姿を想像し、絶句した。
「シャレになってない!」
彼らは群れる数に比例して獰猛さを増す。追いつかれれば餌になることは間違いない。
リーサを伴って遁走すること数十秒――。
早くも息は切れ、動悸は激しい。もつれそうになる足を必死に叱咤し動かし続けた。森の中はひどく走りにくく、度々足が取られそうになるのをなんとか堪える。
腕輪の効果のおかげで俺のほうの足取りはまだ軽い。だがそのせいで一層、リーサとの足の違いを思い知らされる。
俺が七割ほどの気力で走っていてもまだ余りあるほどで、その分を彼女の手を引く力に変えた。
はぁはぁ、と絶え絶えになるリーサの息遣いが聞こえる。
もう少しスピードを上げたいところだが、彼女にはこの速さがぎりぎりのよう――。
ちょうど追いかけてくる魔物の速さとイコールで、先ほどから魔物たちとの距離が良くも悪くも縮まっていない。
逃げる隙をついて彼女に腕輪を渡そうかと、そう考えた時だった。
急激に右手が引かれ、思わず握る手を離してしまう。
振り返るとリーサが――リーサの足が、木の蔓に捉えられていた。
俺は彼女の元へと慌てて戻り、同時に自らの腕から勢いよく装備品を引き抜いた。
「これ! 身につけて! 先に……早く逃げて!」
おそらく二人で逃げるよりは、『韋駄天の腕輪』を身につけた人間ひとりのほうが、まだ逃げられる確率が上がる。
「でも、そんなことしたら――」
彼女の顔には明らかに躊躇の色が浮かんでいた。先ほどとは違い、今度は俺の差し出した手を取ることもなく彼女は首を振る。
「いいから! ここは俺がなんとかするから! 早く逃げて!」
人生で一度は口にしてみたい言葉を無意識に吐きながら、俺は彼女の腕を取り無理やりにそれを通した。
そのままに彼女を引き起こし、もう一度叫ぶ。
「逃げろ!」
リーサの足が
もう一度俺が「早く!」と叫ぶと、彼女は振り切るように先ほどまで向かっていた方向へと駆けていった。
腕輪の効果もあってか、颯爽と木々の間を抜けていく彼女の姿を見て安堵する。
「――」
ポケットからビギナーズナイフを取り出し、構える。
昨日の――リーサが冒険者を夢見て魔道書をめくる、そんな姿への対抗意識が、今度は音を伴って俺の喉を通った――。
「俺だって……!」
肉は少々硬い魔物だがナイフが通らないことはない。
取りつかれる前に、次々と、的確に、一匹ずつを仕留めていけば、まだ助かる可能性があるかもしれない。
俺はわずかにリーサの後を追うように移動すると、戦いに適した拓けた場所で武器を構え直す。
臨戦体制。
向き直ったことに警戒した魔物が、俺を半包囲に取り囲む。
――いや。魔物が意識的に取り囲んだというのは考えづらく、おそらく群がる数の圧迫感だけで俺が勝手にそう感じただけだ。
その数、十数体。さっきよりも数が減ったか。
考えたくもないが、もしかしたら彼女を追いかけた一群もいるのかもしれない。
ぎらりとナイフを向け、身構える。
警戒しながらもじりじりと距離を詰めた一体が、焦れたように飛びかかってきた。俺は反射的にそいつへとナイフの先を向ける。
ざくり――。
眉根を寄せ、一瞬閉じてしまった目を細く見開く。
見事に黒い魔物の胸へと、鋭利なナイフの先が突き刺さっていた。意外と脆い肉の感触に、程なくしてナイフを通じて生暖かなものが手を伝い、地面に滴る。
魔物の血だ。
「やった……のか?」
腕の先にあった黒い物体が重力に負けてどさりと落ちる。地面のそれは、びくびくと痙攣していた。
他の魔物への警戒で足元のそいつへ追撃できるほどに体は動かないが、ナイフが刺さった魔物が再度襲ってくる気配も感じられない。
――これならいけるか。
幸いにも、群れの仲間がやられたからなのか、魔物の集団は足踏みをしているようにも見える。
だからこそか、統率のない連中が一匹、また一匹と、有難いことに一体ずつで飛びかかってきた。
その度にナイフの先を向ける。
剣術スキルはないが、辛うじてでも向かってくる敵に刃物を向けるぐらいの、そんな動体視力だけは持ち合わせていた。反射神経だけは恵まれていた自分に感謝する。
一体を倒し、もう一体は刃がかすりだけして、群れへと引き戻る。
このままなら……いける!
そう思った矢先だった。
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