三 姫の前
薫りがする。雅かな薫り。これは覚えがある。そう、膝の上に乗せてくれた人の薫り。そう、沈香の渋味のある香りだ。でも、それだけではない。もっと甘くて華やかな薫りも混じっている。これは白檀?祖母がたまに嗅がせてくれた。護り袋にも匂いを付けてくれて。だからこの匂いを嗅ぐと祖母を思い出す。
「見渡せば向かつ峰の上の花にほひ 照りて立てるは 愛しき誰が妻」
誰かの声が聞こえる。和歌を詠んでいる。それにこの香り。ここは比企だろうか。夢を見ているのかも知れない。そう、懐かしい比企の夢。
「そう仰られましても、私共も尼御台様より特に命を受けておりますれば、そう易々とは首を縦に振れません」
厳しい声。これは親広殿だろうか。対し、返されたのは間の抜けた声だった。
「はぁ、尼御台様とは?」
「え?」
「あぁ、すんまへんなぁ、京の人間ゆえ、尼御台様ゆうんがどなたさんか存じ上げまへんが、このお方のお母君は此方でええて言うてくれてますねん。なら、暫くは此方でええんちゃいますやろか」
「ですが左兵衛佐殿」
何やら揉めているらしい。
少しずつ働き出した頭で何が起きているのかを窺う。
「お子さま方も多いし、無理に動かすんはどうやろか思いますが。それに中原殿て仰いましたかな。その尼御台様とやらは、姫君やお子らをどこに落ち着けろゆうてはるんですか?お母君のお話では、姫君はその鎌倉を追われた身とか。どこぞ鎌倉方に見つからぬ安全な屋敷がこの京にあるんなら、そこへお運びしてもええですが、まぁ、なんにせよ、姫君の意識が戻らはるまで動かせまへんなぁ。ここまで私の牛車で運んだのです。また動かせゆうんはどないやろか。私もこう見えてそれなりに忙しない身。ええ加減に六波羅とやらにお帰りにならはった方がええのんとちゃいますやろか。あ、白湯でももう一杯いかがかな?」
——帰れ。
言外に滲むその意に親広が立ち上がる気配がする。
「わかりました。とりあえず今日は失礼します。また江間の方様がお目覚めになりましたら、尼御台様の御文などに目を通していただき、六波羅へお知らせ下さいとお伝え願います」
「はぁ、そない伝えさせていただきますわ」
空惚けた口調。先程から聞こえるこの声は誰だろう?耳慣れない京言葉。
ヒミカは目を開けた。
「おや、やはり狸でいらしたか」
からかい口調にヒミカはサッと起き上がり、周りを見回した。
「母上」
飛び付いてくるトモとシゲの肩を抱き、ヨリの姿を探す。ヨリは少し離れた所に腰を下ろしていた。
「ヨリ」
手を伸ばしたら、ヨリがおずおずと近寄って来た。その手を握る。
「皆、御免なさいね。私、一体どうしていたのかしら?」
その問いに答えたのは、先程から聞こえていた男の声だった。
「見事、野盗を取り押さえた後に気を失われたのですよ。私はあの時は丁度牛車を引かせてましたので、それに皆様をお乗せして、私の屋敷にお連れした次第です」
ヒミカは慌てて胸元をしっかり合わせると声の主に向かって深く頭を下げた。
「それは大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。お助けいただき、心より感謝申し上げます。有難う御座いました」
言って顔を上げれば、そこには先にちぐはぐな格好をしていた男が居た。でも今は品の良さそうな藤鼠の直垂を着て円座の上に胡座をかき、扇を手に膝の上に肘をゆったりと乗せ、いかにもこの屋敷の主人然としている。
「姫、この方が此方のお屋敷を貸して下さると仰ってるの。見ず知らずの私達にお優しいこと。ね、いいでしょう?」
カグヤを抱いて満面の笑顔の母に目を剥く。
「いいでしょう、って母さま、そんなこと出来るわけないでしょう?」
「え、どうして?」
どうしても何も、初めて会った人の言葉に何の疑いも持たずに飛びつこうとする母の方がヒミカは信じられない。ヒミカが口を開こうとした時、男が先に声を発した。
「あ、いや、此方は私の今住んでいる屋敷なので、お貸し出来るのは隣の屋敷です。妹が使っていたのですが、妹は身体を壊してしまい、長く屋敷を空けているので、気兼ね無くお使いいただけます。ただ、手入れをまるで行なっていなかったので荒れてしまっています。それで宜しければ、なのですが」
ヒミカは男を見た。今の言葉には嘘は無さそうだけれど。
「何故、縁もゆかりもない私たちにそのように親切にして下さるのでしょうか?」
何か、良からぬことでも考えているのではないかと鋭い口調で尋ねる。すると男は可笑しそうに口元を上げた。
「私は京の者ですが、鎌倉であったことなどはある程度聞き及んでおります。京の町はひどく狭くて、集っているのはその殆どが親類縁者のようなもの。噂はあっという間に隅々まで広がる。鎌倉ではこの長月始めに二代目将軍が亡くなり、その後ろ盾をしていた比企一族が北条に滅ぼされ、将軍のお世継ぎも亡くなられたとか。そして、比企に味方した御家人らの縁者が京へと逃げて来ていると」
ヒミカはヨリを引き寄せた。
「それで、貴方様は代わりに何をお望みなのですか?」
すると男は声をあげて笑い出した。
「鎌倉殿の奥方は歯に衣着せぬ女丈夫と聞いておりましたが、貴女もその女丈夫であられるのですな」
ヒミカは黙ったまま男を睨みつけた。先程、親広殿と話していた時には自分は京の人間だから尼御台など知らぬ、と言ってたのにとんだ嘘つきだ。京の人は口が巧い。表と裏がある。はなからそう思って隙を見せぬようにせねば。ヒミカはそう自らを戒めた。
「お母君から、貴女はその北条の縁者でもあり、また比企の縁者でもあると聞きました。また今の京には伝手もないことも」
ヒミカは母を睨み付ける。母はカグヤを抱いたまま、うんうんと男の言葉に首を縦に振っている。初対面の相手に何もかも話してしまったのかと呆れて言葉も出ない。
「実は私も困っていることがありまして。それで、お互い困っている者同士、助け合えれば良いのではと屋敷をお貸しすることを思いついたのです」
「困っていること?」
尋ねたら、男はええと頷いた。それから手にしていた扇をパチンと閉じて床に置き、居ずまいを正すとヒミカに向かって礼を取った。
「私は御所に仕える左兵衛佐、名を源具親と申します。ご挨拶が遅れて申し訳がない」
———ミナモトノトモチカ。
何だろう。胸に広がる不思議な心地。聞いたことがあるように思うのは何故だろう。
ヒミカも姿勢を正して頭を下げた。
「比企朝宗の一の娘です」
「ほぅ、比企の。で、何とお呼びすれば良いかな?」
「え」
どうしよう。僅か迷う。
「鎌倉では女官をしていて、ヒメゴゼンと呼ばれておりました」
「では、私のことはスケドノとでもお呼び下さい」
そう言って、微かに笑う。
——あ。
ヒミカは咄嗟に首を横に振った。頼朝が鎌倉で昔は佐殿と呼ばれていたことを知っているのだろう。からかっているに違いない。
「いえ、あの、それはちょっと」
頼朝は既に亡くなっている。分かっていてもヒミカには別の人をスケドノとは呼び難かった。
「あ、そうでした。私は既に貴女に名を呼ばれている」
「え?」
「先程、トモと呼んだ。それでも構いませんよ」
途端、トモが立ち上がった。
「トモは俺だ!あんたはスケドノでいいだろ」
男に向かって指を突きつけるトモを慌てて引き寄せてヒミカは源具親に向かった。
「佐殿、申し訳ありません。この子の幼名がトモでして」
具親はにっと笑った。
「ええ、ですよね。知ってました。失礼。では、やはりスケドノ、で良いですな。また、貴女のお名前はこれで宜しいか?」
言って、ヒミカの前に「姫御前」と筆で書いた紙を出す。ヒミカが頷いたら、具親は、では、とそっと首を傾げた。
「お名前はヒメオンマエ、ですかな」
「え?」
するとトモが笑って駆け出した。
「ヒメオンマエ、ヒメオンマエ。オマエのお名前ヒメノンマエ」
騒がしく駆け回るトモは勢い余って具親の膝に蹴躓き、ゴロリと転がったが、一回転して立ち上がるとまた駆け回って煩く囃し立てた。
「オマエのお名前、ヒメノンマエ」
ヒミカは頭を抱えた。
「これ、トモ!」
手を伸ばすが捕まらない。
と、具親がヒョイとトモの腰を抱えて、自らの肩へと乗せた。
「そう、ヒメノマエが柔らかくて耳触りも良い。貴女に似つかわしいと思いますが、いかがかな?」
「姫の前?」
繰り返したら具親は、「ええ」とにこやかに微笑んだ。
「京風に和らげてみました」
「京風?」
そう言えば、と思う。姫御前の名を付けたのは頼朝。ヒメコという呼び名からヒメだけを取り、そこに御前を付けたのだろう。その「姫御前」という漢字の字面を見て「ヒメゴゼン」と呼んだのはアサ姫だった。もしかしたら、あの時頼朝も本当は京風にヒメノマエと読ませるつもりだったのかも知れない。でもアサ姫が先にヒメゴゼンと言ったので、そのままになったのだ。
「姫の前、ですか。わかりました」
ヒミカは頭を下げて一つ息を吐いた。
もう一人の佐殿に違う呼び名を貰ってしまうとは。
「それで、佐殿がお困りのこととは?」
問うたら、具親は少し眉を寄せて口ごもった後に思いきったように顔を上げてヒミカを見た。
「私の妻になった振りをしていただきたいのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます