二 ちぐはぐな男
——あ、もしや。ヒミカは察した。
「母さま、シゲとヨリをお願いします」
言って、先に鉄を打つ音が聞こえた辺りまで急いで駆け戻る。トモは、コシロ兄が頼朝から下賜された秘蔵の刀が触りたくて触りたくて堪らなかったようで、コシロ兄の留守にはヒミカの目を盗んで、その刀を舐めるようにして眺めていた。ヒミカなどは、稽古用の刀と何が違うんだろうと思っていたのだけれど、いつかそう言ったらコシロ兄に目を剥かれたから、やはりきっと銘品と他とでは何かが大きく違うのだろう。
「美しさが全く違うんだよ!名工の刀には魂がこもってるんだ!だから名を呼ぶと応えるんだよ」
幼いながら懸命にそう力説していたトモ。コシロ兄はそれほど刀に固執はしていなかったけれど、それでも手入れは怠らず大切に扱っていた。確かに大切にされている物は、それ自体が強い気を発する。それが刀となれば尚更のこと。人の命を断つ太刀。泰時が頼朝から太刀を受け取って大切にしていたことを思い出す。
「古来より『武』とは、剣(つるぎ)とは、天下を分けて命を生み出し、造化を断ち切って回帰を促すもの。その途上には様々な困難もあろうが、頼もしき仲間と共であれば、その険しい道も楽しい道行きになる。頼時、そなたを頼りにしておるぞ」
そう言って和歌を詠んでいた頼朝。ひどく遠い過去のような気がする。あれはどんな歌だったっけ?大伴家持だった気はするけれど。
命を絶ち、迷いを断ち、起ち上がる力をくれる太刀。強いものに憧れるトモが惹かれないわけはなかった。
「トモ!」
果たしてトモは鍛冶屋の前にいて、頭を突っ込んで熱心に中の様子を眺めているようだった。
「こら。トモ、はぐれてはいけないと言ったでしょう」
トモがびくりと此方を振り返る。ヒミカを見てペロリと舌を出した。
「母上、ごめん。でも、とても綺麗なんだよ」
「いいから早くいらっしゃい。皆が待ってますよ」
でもその時、向こうの方から馬と荷車とが勢いよくこちらに向かって突進して来るのが見えた。その馬に乗るのは武士ではなく、野伏せりらしき身汚い童姿の小男。
「トモ!」
叫んで駆け寄ろうとした時、馬に乗ったその小男がひょいとトモの首根っこを掴んで荷車の上へと放り投げた。
——人攫いだ。
「トモ!」
ガラガラと通り過ぎようとする荷車に咄嗟に腕を伸ばす。何とかその荷台の端は掴むものの、勢いづいて走る車が止まるわけがない。引き摺られる。ヒミカは大きく傾いだ。
このままでは背中のカグヤも危ない。
「トモ!誰か!」
叫んだ時、前方からも荷車と人が何人かこちらに向かって駆けて来るのが見えた。
——仲間が来たのかも知れない。
車に縋ってひた走りながら必死に声を上げる。
「トモ!」
叫んだらトモが荷車の上に顔を出した。
「あちらに飛び降りて逃げなさい!」
車の向こう側へと顎を向けたらトモが頷いた。それを確かめ、ヒミカは渾身の力で荷車を自分の左脇へとと引き寄せる。
「えええええい!」
——ドドッ!バキバキ、ガラガラガラ!
盛大な音を立てて荷車と引いていた男は鍛冶屋の隣の家屋に突っ込んでいった。
「トモ!」
呼びかけたら、小さな固まりが飛びついてくる。うえーん、うえーん、と泣き出すトモにホッとした時、背中のカグヤもギャァ!と泣き出した。
「良かった」
「ヒミカ!トモ!無事なの?」
「江間の方様、お怪我は?」
駆け付けてくれた母や親広らの姿を見て、やっと息を吐く。
「おや、これはこれは」
その時、その場にそぐわない、のんびりとした声が聞こえた。
「見事な腕。お役を奪われてしまいましたな」
顔を上げれば、一人の男が立っていた。雅かな衣装を着けた男。でもその衣装には似つかわぬ、勇ましいというか、ひどくちぐはぐな出で立ちをしていた。美しい模様が散りばめられた豊かな袖は荒っぽく捲り上げられて襷をかけられ、太い二の腕までが顕になっている。ゆったりとしていたであろう美しい染めの指貫の袴は、その長い裾をたくし上げられて、その下の太い脹脛を堂々と見せ、またその足元はといえば裸足で、地に足を踏ん張り、相撲でも取るかのようにしっかりと足の指で地を掴んでいた。そしてその手で痩せた馬の轡を握っている。
——一体、何者?
その時、彼が轡を掴んでいた馬の背から、先程トモを荷車へと放った小男が飛び降りてあちらに走り去ってゆくのが見えた。そのちぐはぐな男が後ろを振り返って鋭く言い放つ。
「あれを射止めよ!」
その声と同時に、いつの間にそこに居たのか、若くて身なりの良い男、武官だろうか、が背負っていた矢を一本引き抜き、逃げた男の背中を射抜いた。
「あ」
ヒミカは自分の胸が射抜かれたような気がして、思わず声を上げてしまった。膝がカクンと落ちかける。
「母上!」
必死に支えてくれようとしてくれるトモの肩を抱いて言う。
「トモ。怪我はない?」
と、こちらに背を向けていたちぐはぐな男が振り返った。ヒミカをじっと見つめ、大きな手を差し出して口を開く。
「怪我されたのは貴女でしょう。立てますか?」
差し出された手に素直に捕まり、何とか足を踏ん張る。背で泣き喚くカグヤ。早く彼女を下ろしてあげなくては。ガクガクと震える足を叱咤しながら羽織っていた黒の直垂を脱ぎ、背におぶっていたカグヤを母に預ける。
「おお、よしよし。カグヤ、あなたもよく頑張ったこと。さ、もう平気よ」
カグヤの背を撫でる母を見てから、手を貸してくれた男に向かって頭を下げた。
「有難う御座いました。助かりました」
「いえ、助かったのは私の方です」
「え?」
不思議な言葉に顔を上げたら、男はヒミカの手を握って支えてくれたまま続けた。
「見事なお働き。私が出る間も無かった」
そう言って両方の頬を綺麗に持ち上げて微笑む。その時、ヒミカの胸の奥を父の笑顔がよぎって、目の前のちぐはぐな男の顔と重なった。
——父さま?
そんな訳ない。そうと分かりつつ、男の顔をもう一度見ようとする。握られたままの手を握り返して立ち上がろうとしたが、気が緩んでしまっていた。
「ヒミカ!」
母の声がしたけれど、ヒミカの意識はそのまま薄く消えていった。
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