四 歌が苦手な歌人
「妻?」
仰天してその後の言葉が続かない。具親はにっこりと笑うと、ええと頷いた。
「私は村上源氏の血を引き、御所においては左兵衛佐という京の御所を守る役職に就いているのですが、それと共に院御所の北面にある和歌所の寄人もしております」
「和歌所?」
「ええ。院が新しい和歌集の編纂を命じられ、『古今集』に次ぐ新しい勅撰集を作ることになりまして、その選定の手伝いに加わっているのです」
「へぇ」
ぼんやりと答えたら、具親がくすりと笑った。
「和歌にはあまりご興味が無さそうですね」
ヒミカは顔を赤らめた。頼朝に色々聞いて、泰時やシゲと共に和歌集を眺めたりはしていたものの、あまり頭に入ってないのは、やはり興味が足りないのだろう。難しいと決めてかからずに何でも楽しんでみろと言われたのに、それが出来なかったことを少しだけ省みる。
「ごめんなさい。和歌は難しくて私にはよくわからなかったのです」
素直にそう言ったら具親はパッと顔を上げて何故か嬉しそうに笑った。
「それは良かった」
「え?」
「実は私も和歌は苦手で、あまり好きではないのです」
「和歌が苦手なのに和歌所の職に就いているのですか?」
「ええ、そうなんですよ。ああ、良かった。やっと同じような人に会えた」
良かった、良かったと繰り返す具親にヒミカは呆気に取られた。
「あ、そういう訳で度々屋敷を空けるので、その間に屋敷の中を切り盛りしてくれる人が必要だったのです」
「でもそれは家司にお任せになれば良いのでは?」
「ええ。家司はいるので、それは良いのですが、私は独り身でして、それで困ってるのです」
ヒミカは首を傾げる。この具親という人はヒミカより五つくらい上だろうか。体格も良く、立派な屋敷を持ち、院の覚えもめでたいようだし、その顔立ちもけして悪くない。というより、整った立派な顔立ちをしてると思う。何故北の方がいないのだろう?
——あ、もしかしたら早逝されたのかもしれない。ヒミカはそう思い、浮かんだ問いを口にするのをやめた。具親は続けた。
和歌所は大抵が午後からですが、院を始めとして定家殿など和歌好きな面々が揃っているので、話が長い上に途中からあちこちに飛んで行き、私から見るとどうでもいいような議論を延々しています。そしてそれが続く内に酒が出て来て下世話な話になってくる。すると私のような独り者はいい酒の肴になってしまうのです。どこぞの姫を紹介するとか、自分の娘はどうか、とか。親より煩くしつこく言い募られ、辟易していまして。おまけに近頃は院までもが面白がり、御所の女官の名を上げ始めたのですが、私の友がその女官に文を何度も送っているのを知ってますし、私は院のお声がかりで妻を娶りたくはない。どう断ろうかと思い悩んでいた時に貴女が現れたのです」
「はぁ」
ヒミカは何となくわかってきた。
「お助けいただきましたし、妻の振りをするのは構わないのですが、私はこの髪ですし、とても表には出られそうにありません。残念ながらお役には立てないかと」
そう断ろうとしたら、母が横から口を挟んできた。
「いいえ、平気ですわ。これがありますもの!」
言って膝の上に乗せていた布の包みを開く。中には綺麗に整えられた長い黒髪の束が出て来た。
「これをかもじ(付け毛)として使えば分からないわ」
「母さま、それは一体」
ヒミカの髪は起請文に挟んで尾藤殿に託した筈。
「私の髪よ!鎌倉を出る前に切った時に、こんなこともあろうかと整えておいたの」
こんなこともどんなこともあろう筈がない。ただ手放せなかっただけなのだろう。そして、ここぞと出してきたのだ。具親が手を叩いた。
「それは素晴らしい。流石はお母君。では、早速それでお願いいたします」
「え」
「あ、では、妹の屋敷へご案内しましょう。ただ、掃除や片付けが済むまでは、どうぞ此方の屋敷にお泊りください。私は奥におりますがお気になさいませんよう。後でこの広間に幾つか畳を運ばせます。また火鉢や食事なども持って来させます。今日はお荷物を開いて、ごゆるりとなさってください」
「まぁ、何から何まで有難う御座います。ほら皆、佐殿にお礼を申し上げて」
促され、子らが大きな声を上げる。
「佐殿、有難うございます」
ヒミカは耳を塞いでから具親に頭を下げた。
「この通り、子らが騒がしいので、やはり此方ではなく、妹様のお屋敷に移ります」
でも具親は、いいえと首を横に振った。
「煩いのは構いませんよ。というより、私はたまに子どもらに和歌を教えたりしているので、賑やかなのは慣れてますし、子どもは素直で明るくて元気が貰える。和歌所にいるより余程心地が良い」
そう言って具親は子どもらに向かった。
「餅は好きかい?」
「大好き!」
声を上げたのは意外にもシゲだった。
「では、焼こう。皆、手伝ってくれるかな?」
「いいよ」
具親が手招きするのに、トモとシゲが小走りで駆けて行き、その後ろをヨリがおずおずと付いて行く。
「まぁ、子ども好きだなんて、やっぱり殿にそっくり」
華やいだ声を上げる母をヒミカは睨んだ。
「母さま、少し甘えが過ぎるのではないかしら」
隣の部屋に具親や子らがいるので小声で咎める。すると母はサラリと答えた。
「平気よ。だってあの方、朝宗様に似てるもの」
「父さまに?」
「ええ」
にこにこ顔の母に ヒミカは頭を抱える。最初に会った時に、チラと父を思い出したのは確かだけれど、全く別の人なのだ。先の和歌所での話にも嘘は無さそうだったけれど、なんだかなし崩しに巻き込まれているようで、なんとなく釈然としない。
「あ、姫の前殿」
声をかけられて、ヒミカは具親と子らの元へと顔を出した。
「餅が焼けました。熱い内にお母君とどうぞ」
満面の笑顔で香ばしく焼けた餅を手渡され、ヒミカも毒気を出しようがなく、大人しく受け取る。
——ま、いいか。これもまた縁なのだろう。流されて辿り着いた此処。今のヒミカに出来るのは、子らと母を守ること。
アチチチチ!悲鳴を上げつつ笑顔でお腹を満たす子らを見ながら、ヒミカはキュッと口の端を持ち上げた。
——何処にいてもなるべく笑顔で生きていこう。
「しょんない、やるしかないか」
そう自分に掛け声をかけていたコシロ兄。彼は今も鎌倉で戦っている。だからヒミカも京でヒミカらしく生きなくては。
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