十五 起請文の代償
ヒミカを逃がし、自らは戦さ場に踏み止まろうとする人。いつも自分を護ってくれた人。本当は共に行きたかった。生きたかった。でも。
「行け!」
その低い声はヒミカに抗うことを赦さない。追うことを許さない。
ヒミカのことを我が儘だと言い、自分を曲げない女だと言う貴方。でも本当は貴方こそが曲がらない人。自分を貫く人なのに。
「次にお会いした時には文句を沢山言わせて貰いますからね。我が儘なのは貴方の方ですよって。それに、あんなに素敵な笑顔、一度しか見せて下さらなかった。あんなに沢山、共に過ごす時はあったのに」
独りごちたら涙が溢れてきた。ポトポトと地を濡らす雫。
「母上!」
子どもたちが駆け寄ってくる。
「どうしたの?痛いの?」
「泣かないで」
背中に当てられる小さな温かい掌たち。
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、飛んでいけ」
「痛いのいたいの、とんでけってば!」
幼い声に囲まれて、ヒミカの中で記憶が過去に繋がる。
「痛いのいたいの、とんでけってば」
あどけない可愛らしい声と雨の音。雷が猫のように喉を鳴らす音。地響き。
——北条の館で子どもたちと祝詞を奏上した時に聴いた声。現れた龍と突然降り出した雨。雷。ぼんやりしてて、コシロ兄に怒鳴りつけられたっけ。思い出してそっと頬を緩ませる。
その時にふと思った。もしかしたら、時というものは本当はいつでもどこでも互いに通じ合っているのかもしれない。ちょっとしたきっかけで、その世界と繋がることがあるのかもしれない。
——ならば、自分もまたコシロ兄とまた、いつか何処かで逢える。
ヒミカは涙を拭いて立ち上がった。子らの頭を撫で、笑顔で皆の肩を抱く。
有難う。もう平気よ」
——うん、平気。大丈夫。私は女のオオマスラオになる。
「ヒミカ」
振り返れば母が立っていた。
「行くのね」
ええ、と答えて母の顔を改めて見て驚く。母は髪を肩の辺りで切り揃えていて、地味な青鈍色の着物の上に尼頭巾を被った尼姿となっていた。
「母さま、いつの間に」
驚いてそれしか言えない。母は昔からずっと、自らの長く美しい黒髪を自慢にしていて、父が亡くなった後も出家せず、いつも櫛を通して大切にしていたのに。
「だって京に行くのでしょう?子らをこんなに連れて。ならば、野盗に狙われないようにしなくてはと思ってね。シマちゃんに切って貰ったのよ。頭が軽くなって風が心地良いこと。もっと前に切っておけば良かったわ」
そう言って愉しげに笑った。
「そうね」
ヒメコは頷いて母に手を差し出した。母が首を傾げる。
「何?」
「母さま、ほら、あれ。持ってくださってるのでしょう?」
「え、何?食べ物なら私は隠してないわよ」
とぼけた顔の母に噴き出す。
「食事にはまだ早いわ。江間様にいただいた起請文です」
言ったら、母は渋々懐に手を差し入れ、折り畳まれた紙を取り出してヒミカに渡してくれた。やはり大事に持ってくれていたのだと胸が熱くなる。
「それ、どうするの?」
問われ、ヒミカは微笑んだ。
「こうするの」
懐に忍ばせていた小刀を抜いて、後ろに束ねていた髪を掴んで前に寄せ、刃を当てる。
——ザッ!
小気味良い音を立てて何かが吹っ切れる。
「ヒミカ!」
母の咎める声が聞こえたけれど、ヒミカはすっきりした気分で天を見上げた。
「あら、本当。頭が軽いわ。心も軽くなるようね」
——サラリ。視界の端に、風に靡く黒い髪の先端が映る。少女の頃を思い出す。櫛で梳かすのが面倒で、母の手から逃げ回っていた。でも、もうそれ程面倒ではないだろう。
切り落とした長い髪の束をその白い紙に挟んで、尾藤次郎へと渡す。
「私はこれをもって江間義時殿と離縁いたしました。神への誓いの代償として、この髪を捧げます。江間殿にお渡ししてお伝えください。先妻は既に亡き者として、この髪と起請文を供養して下さいと」
尾藤次郎は僅か悲痛な顔をしたが、頭を下げて答えた。
「確かに承りました」
そして鞍に付けた袋から布を取り出すと起請文と髪の毛を大切に包んでくれた。
「有難う。感謝します。尾藤次郎殿、どうか殿をお護り下さいね」
それだけ言うと、その背中も見ずに踵を返し、子らの手を引いて歩き出す。北からの冷たい風に乗って、甘い金木犀の香りが漂ってくる。
三島大社に植わっている金木犀からだろうと察する。
「母さま、三嶋大社に旅の無事を祈ってから京へ向かいましょう」
ヒミカは明るく笑って、金木犀の華やかな甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。佐殿が言っていた。三島大社の金木犀は京に都が移った頃に植えられ、樹齢が四百年を超える大木なのだと。御家再興の祈願をしに大社に通った日々にいつも慰められ、励まされたと。着いてみれば、本当に見事な大木だった。薄い黄色の花がこんもりと太い幹を彩っている。
そっと近寄って掌を合わせる。
「金木犀って近付くと香りが減る気がするのに、離れるとまた香ってくるのは不思議ね」
でも物も人もそういうものなのかも知れない。近過ぎると時にわからなくなる。でも離れると伝わる気がする。それは心だろうか。木の心、人の心、神の心。
「姫姉ちゃん!」
大きな声に振り返れば五郎時房が馬上から驚いた顔でヒミカを見ていた。
「時房様?あ、大社に奉幣のお使いでいらしたのですか?」
時房はううんと首を横に振った。
「いや、お使いと言えばお使いだけど。いやいや、それより姫姉ちゃん、その髪の毛どうしたの!」
「え、ああ、邪魔そうなので切りました。さっぱりしました」
「さっぱりって……」
沈痛な面持ちに、そんなにみっともないのだろうかと落ち込みかける。けれど努めて明るく笑って見せた。
「では富士の浅間神社でしょうか?」
すると時房はヒミカに合わせて明るく笑ってくれた。
ううん。あそこは大蛇が出るんだろ?富士のお山は見て拝むだけのものだよ。近付くもんじゃない。って、そうじゃなくて、俺は京まで行くんだ」
「京まで?」
「そう、京の御所。だから姫姉ちゃんたちを送って行くよ」
「え、でも」
自分は追われている立場なのにいいのだろうか。戸惑うヒミカに、時房はニッと笑った。
平気平気。尼御台様からのご命令だから」
「尼御台様?」
「ほら。俺って蹴鞠が得意だろ?だから同じ蹴鞠好きな主上に気に入られてこいってさ。またこっそり探ってこいって。使い走りだよ。俺って天賦の才に恵まれちゃってるからさ。ああ、辛いなぁ」
その軽い口調に時房の思いやりが感じられる。それにアサ姫の心遣いも。自分を案じてくれる人たちがこんなにいる。自分は恵まれている。ヒメコは泣きそうになるのを懸命に堪えた。時房は笑顔で続けた。
「大姉上や小々姉上から色々預かってるけど、それは後で渡すね。まずは暗くなる前に次の駅まで向かおう」
と、トモが悲鳴を上げた。
「ええっ?まだ歩くの?もうお腹空いて歩けないよぉ」
情けない声に皆が笑う。ヒミカは懐から小袋を出してトモに渡した。
「皆で分けて少しずつ食べなさい」
ポリポリと炒り豆が砕ける音を聞きながら、遠く東の山並みを眺めてそっと手を振る。
——さようなら、鎌倉。また、いつか逢える日まで。
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