十四 別れ
「母上、その子誰?」
江間の屋敷に戻るなり、トモとシゲが一幡を取り囲む。
「神さまからの頂き物よ」
「いただきもの?」
「ええ」
ヒメコは頷いた。
「だから、生まれつきお口がきけないの。でも私たちの話すことは分かっているわ」
「ね、お名前は?」
トモに聞かれてハッとする。
どうしよう。考えてなかった。
「ヨリだ」
答えてくれたのは低い声。
「シゲ、ヨリはお前と同い年だ。だが、ヨリは口が聞けない。お前がヨリの口になって助けてやれ」
「うん。いいよ」
明るくシゲが答える。
「じゃあ俺は?俺はヨリの何になればいい?」
問うたトモに、コシロ兄は少し考えてから答えた。
「何が出来ると思う?」
「ヨリは喧嘩強いの?」
声をかけられた一幡が首を傾げる。
「あんまり強そうじゃないよね。じゃあ、俺は腕になって守ってやるよ」
無邪気な子どもたちの様子を眺めながら、でもヒメコの頭の中では、先にコシロ兄に言われた「しょんない」という言葉がずっと引っかかっていた。
——そう、仕方ないのだ。それでいいのだ。自分を通してしまったのだから。そうは思いつつ、この十年は何だったのだろうと思ってしまう自分がいる。
「明朝に藤五とフジと共に子らを連れて伊豆の江間へ行け。護衛に尾藤次郎を付ける」
淡々と言葉を発するコシロ兄。
「では明日の早朝、由比の浦に行ってから出発いたします」
コシロ兄は眉を上げた。
「由比の浦?ふざけるな。あちらは比企ヶ谷に近い。今も残党狩りが行われているんだぞ。自らのこのこ出かけて行って何をする」
「だって、鎌倉とお別れなので」
「帰って来ないつもりか?」
「え?」
「大姉上が言っただろう。鎌倉に戻って来いと」
「でも、殿はしょんない、と仰ったではありませんか。私が鎌倉を出ることも離縁することも仕方ないと」
コシロ兄は首を傾げた。
「そんなつもりで言ったのではない。お前がその子を連れて出ると言うだろうことはわかっていた。自分の意志を曲げないだろうことも。しょんない、は俺自身への掛け声だ」
「掛け声?」
「俺はまだ力が足りない。口も立たない。兵も僅か。父の言うなりに右へ左へ動かされるのみだ。だが、流されっぱなしはもう止めにしたい。父の思い通りに手駒として振り回され、心に背くことをやらされるこの立場から脱したい。その決意だ。しょんない、やるしかないかと思ったから、そう口にしたまで」
「決意」
——しょんない。やるしかないか。
ヒメコはどっと力が抜ける気がした。
「だが、済まない。今はまだその力がまるで足りてない。大姉上の言う通りだ。父は執念深い。目的の為なら手段を選ばず、心すら閉じて顔や体裁を取り繕い、敵に尾を振ることなど、まるで恥と思わぬ姑息で周到な性質をもっている。俺はそんな父を心底憎んできた。その血が俺にも流れていると思うと反吐が出た。だが同時に思ってもいた。その血を引いているなら、もしかしたら俺は父以上に冷酷非道な事が出来るのではないかと」
——え?
「佐殿の側に付き、そのあしらいを学び、また父のやりようを見ながら、時に思うことがあった。生温いと。表の枯れた枝を見るのではなく、もっと根底から抉り出さねば、腐ったこの世は変わらぬのではないかと」
「この世?」
「天の上の人々の話だ」
「天の上の人」
——もしや殿上人?
コシロ兄は片方の口の端だけを上げて見せた。
「ひどく不遜で身の程をわきまえぬ、ふてぶてしい考えだろう?だが、俺は佐殿ならそれが出来るのではないかと思っていた。だが佐殿は居なくなってしまった。代わりになるのは姉しかいない。だから俺は姉に付く。姉に付き、父の隙を突いて、いつか父をひっくり返してやる。そう思った。だから比企を攻めた。他の御家人らがどう動くかも見たかった。心と言葉と実際の行ないと、どれ程の食い違いを見せるものかと。信を置ける者は誰かを見定める為に」
熱く雄弁に語るコシロ兄を、ヒメコは呑まれるようにして見ていた。その片鱗は確かに前も見たことはあった。でもここまではっきりとその意志を言葉として発するのは初めてだった。
「怖いか?」
問われる。ヒメコは首を横に振った。
「俺は怖かった。こんな俺であることをお前に曝すことが」
「私?」
「お前は俺にとって唯一の善で、佐殿が俺に託してくれた、この鎌倉の聖なる巫女。穢れを近付けてはいけない存在だった」
あ、と思う間もなく涙が溢れ落ちる。大事に想ってくれていたのだ。
コシロ兄は涙を零すヒメコを静かに見つめた後言った。
「伊豆の江間で暫し待っていてくれ。父の様子を見てまた報せを送る」
ヒメコは頷いた。もしかしたら京へ行かなくても済むのかもしれない。そんな淡い期待を持って。
だが、その願いは、江間へ着いてすぐに儚く消える。夜半にコシロ兄が急ぎ戻って来て告げたのだ。
「頼家殿が回復され、比企の滅亡を知り、北条討伐の軍を出せと和田義盛殿に命を下した。尼御台様が必死に止めたが、父が伊豆の北条にいつ戻ってくるかわからない。頼家殿もお前を探そうとしている。一幡君が生きてるかも知れないと巫女が話したらしい」
——巫女、ヨリカ。
でも頼家が病から回復したのなら当然の成り行きだろう。
「一幡君をお戻ししましょう」
だが、コシロ兄は首を横に振った。
「既に、頼家殿が亡くなったから次の将軍家は千幡が継ぐと京の朝廷へ奏上してしまっている。そして一幡君も亡くなったことになっている。それは、頼家殿、一幡君ではこの鎌倉は立ち行かないとの幕府としての決定であり、もう覆せない。尼御台様は頼家殿を拘禁し、伊豆の修善寺に入れるよう父に命じた。修善寺はこの江間から奥へと入った直ぐだ。お前とヨリが此処に居るのが知れたら大変なことになる。すぐにここを出て京へと起て」
コシロ兄の顔は蒼白で、その頰には切り傷があった。
「殿、お怪我を」
ヒメコが手を取ろうとするのをコシロ兄は止めて、強く言った。
「いいから行け!父が、頼家殿がここに来てしまったら、今の俺ではお前を守れない!」
「殿」
「行ってくれ、京へ。俺はどうでも、お前だけは穢されたくない。血に浸したくない」
ヒメコは叫び返した。
「人は穢れるもの。その穢れを祓い続けるのが巫女です。貴方が血に染まるなら私も共に!」
昔、比企まで送り届けてくれる途中で野盗に襲われた。ヒミカを逃がす為に鏑矢を射たコシロ兄。あの時の無力感をまた味わうのは嫌だ。でもコシロ兄はヒメコの頰を両手で挟み、自分の方へと向けて言った。
「甘えるな。子を護ると決めたのではなかったのか?ここでグズグズしていたら、子らは皆殺されるぞ。いいのか?」
ヒメコは首を横に振る。
——でも。
「早く行け!そして、お前らしく生きろ」
言って、馬の頭を廻らせ、駆け去ろうとする。
——待って。まだ、待って。伝えられてない。
「義時様!」
ヒメコは叫んだ。
「貴方なら出来ます!お父上を越え、また佐殿も成し得なかった、京に負けない武士の都を造り上げることがきっと出来ます!だから、どうか自信を持って下さい。貴方は、貴方こそが善であると」
「善?」
問い返された時、ヒミカは我知らず両手を上に挙げて叫んでいた。
「将に胆有りて軍に踵無きものは善なり!」
コシロ兄はその場に留まって馬上からヒメコを暫し見つめたが、ややしてニッと笑った。
「巫女殿、感謝申し上げる」
それは真っ直ぐで美しい笑顔だった。
「コシロ兄」
呼びかけに彼は「ヒミカ」と返した。
今、この時をもって、お前との縁を切る。お前はもう江間とも北条とも関わりない。神罰は全て私が受ける。だからお前は生きろ。善のまま。穢れのないままに!」
「殿!」
叫んで追いかけようとしたヒメコを止めたのはトモだった。
「父上。母上とシゲ、弟妹たちは俺が守るから!」
コシロ兄は手を挙げて応え、そのまま駆け去って行った。
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