十三 決断

「でも、頼家殿のお子です。頼朝公の血を引く直系のお孫様。あのまま見殺しには出来なかった。せめて僧に。そう思って私は尼御台様の元にお連れしたのです」

「声の出ない僧などいません。読経が出来なくては、喋れなくては何処でも生きてはいかれない」

「では、見て見ぬ振りをすれば良かったと仰るのですか?」

「可哀想だけれどその身を助けることは私には出来ません。私が預かれば、その血はいずれ明らかになり、悪しき輩に祭り上げられるも知れない。それに何より父が今は目の色を変えて比企に関わる者らを全て消そうとしている」

「比企を全て?」

アサ姫はそっと目を落とした。

「ええ。だから貴女もよ、ヒメコ」


——え?


「何故、比企の館に行ったの?一幡を助けたの?」

「何故?そんなの決まってます。こんな幼い子です。それも尼御台様からは血の繋がった大事な孫にあたるではないですか」

——何故?

助けたことをどうして問われるのか、ヒメコには理解が出来なかった。自分の血を引く子。可愛くない筈がない。なのにアサ姫は助けられないと言う。自分の子でなくたって、幼い子を助けるのに理由などないと思うのに。

「それでも。いいえ、血が繋がってるからこそよ」

苦しげな声に、ヒメコはアサ姫を見上げた。メダカの形をした少し吊り上がった綺麗な薄茶の瞳。その中に滲む深い苦渋の色。それで気付く。彼女は自らの大切な孫よりも別の何かを優先しようとしている。

「父上は鬼になるそうよ。母上も。だから私も鬼になることにしたの」

過去、そう言っていた八幡姫。彼女は彼女らしく闘って、そして亡くなった。

アサ姫は鎌倉の幕府を護る為に心を鬼にしてるのではないだろうか。

——では、私は?私にとって大切なものはなんだろう?護らなくてはいけないものは何?当然、トモとシゲ、カグヤ。それから——


ヒメコは一つ長く息を吐き切ってから大きく息を吸い込んだ。

「尼御台様が預かれないのでしたら、私が預かります」

アサ姫が目を見張った。

「いいえ、江間には預けられない。無理よ。貴女もそれは分かっている筈。何故、そこまで意地を張るの?貴女の子でないのに」

ヒメコは唇を噛み締める。自分の手を握り締めている、この小さな温もり。自分たちの話を全て聞いている小さいけれど尊い魂。それを裏切ることはヒメコには出来なかった。それに、この子はヨリカに託された子。最後に「お願い」と懇願する声を聞いてしまったのだ。

アサ姫は続けた。

父は執念深い男よ。千幡を抱き込んだ今、彼はその邪魔になる物は何であろうと叩き潰すつもりでいる。一幡の死骸をその目で見て確かめて、自らの腑に落とすまで諦めないでしょう。怖い人よ。気味が悪いくらいに。比企の謀叛だと兵を出すことを許可しろと私に迫った時に、義時には貴女を離縁させると言っていた」

ヒメコはコシロ兄を振り仰ぐ。コシロ兄はそっと目を落とした。

「他にも比企の婿となっていた御家人連中を罪に問うつもりでいるわ。文官連中を抱き込んでそれらを一気にやろうとしてる。父は鎌倉を乗っ取ったのよ」

——鎌倉を乗っ取った?

ヒメコは信じられない思いでアサ姫を見つめる。乗っ取った。頼朝が創った鎌倉を。佐殿が護ろうとした武士の都を。家を。北条時政は乗っ取ったのか。

——そんなことが赦されるのか。

フツフツと肚の奥から湧く思い、これは怒り。


「だから、その子は諦めなさい。今のここ鎌倉で生きていくことは出来ない」

そう言うアサ姫の目は、昔、幼い頃に伊豆北条で見た龍のように鈍い光を放っていた。そこに宿るのは何かの強い意志。


思い出す。祖母の命で、アサ姫が佐殿の相手として相応しいかを確かめに北条へ入り込んだ幼いヒミカ。対し、アサ姫は何があろうと佐殿の相手として認められようという強い決意を持ってヒミカと対峙した。だからヒミカは真名を自ら差し出してしまい、ヒメコという新しい名を与えられた。ヒミカをその強い意志でヒメコとして取り込んだあの時と同じ。彼女は今この時も、その心の奥に、決めたことを貫こうという固い決意を抱いている、恐らく、父に乗っ取られた鎌倉を取り戻すこと。


幼いヒメコはアサ姫に観音菩薩を感じ、その後に天から降ってくる龍を視た。

観音菩薩は現世利益を約する護り神。そして龍は天と地を結ぶ聖なる生き物。どちらも大勢の人を救う大切なお役目を持った存在。だから自よりも他を優先しなくてはいけない。それを選ぶことの出来る強い意志を持っていなくてはならない。


——ああ、そうか。

その時、やっとヒメコの腑に落ちた。何故、佐殿が彼女を、アサ姫を伴侶に選んだのか。施政者は助けを求める大勢の人を救い、導くお役目を与えられた神の分身。そういうお役目を与えられた人は我欲で生きることを許されない。自分の身を削り、苦しみ悶えながら大きな事を為していく。そういう強さを持っている。頼朝がそうであったようにアサ姫もそういう人。

「死んではならない人」

祖母から聞いて、頼朝だと信じていたその人は、アサ姫もだったのた。



——では、自分は?

ヒメコは自らを省みる。

ヒメコの手を握る一幡の小さな手。これを離して、もっと沢山の人を救うという道を選ぶのか?それとも——。

私はどうしたい?どうするのが一番私らしい?


その答えはもう決まっていた。

ヒミカは小さな手の温もりをきゅっと握り直した。アサ姫を見上げる。

「それでも私にはこの子を見捨てることは出来ません。例え、それで死ぬことになろうとも」

———死ぬ。

 その言葉はけして口にして良いものではなかった。でも、その時初めて「死なぬ人などない」と言った佐殿の気持ちが少し分かった気がした。

「何故、そこまでするの?いくら貴女が比企の生まれでも、その子にそこまでする必要があるの?」

ヒメコは首を傾げた。それからそっと微笑む。

「でも縁があったのです。きっとそういう宿縁だった。だから」


そう答えながら思い出す。そうだ、殺された野盗の話をした時に祖母が言っていた。「縁に偶然はない」と。だから出逢ってしまったなら、それに従うのがヒミカの選ぶ道。


アサ姫は溜め息を吐いた。

「貴女は頑固ね。そして無茶ばかりする。佐殿も私もヒヤヒヤさせられ通しだった。でも、そんな貴女に何度も救われた。佐殿も私も、そして八幡も。だから本当は貴女を護りたい。側に居て欲しい。でも、やはり貴女は今のこの鎌倉からは出て行った方がいい」

「鎌倉から」

繰り返したヒメコにアサ姫は頷いた。

「ええ。父は執拗な上に狡い人よ。口で巧みに人を操って自分の思う通りにする。昔からそう。でも唯一、佐殿にはそれが出来なかった。佐殿は貴種だったから」

「貴種?」

「父は、その血統に負い目を持っている。京に憧れ、へつらうのはその顕れよ。だから京へ逃げなさい」

「京へ?」

「ええ。まだそこまでは父の手もそれ程及ばないから。貴女の器量と物腰なら、どこの公家のお屋敷でも重宝してくれるわ。だから京へ逃げて。そして、いつか鎌倉が落ち着いたら戻ってらっしゃい。いえ、貴女が安心して戻ってこられるように私は力を尽くすから待ってて」

「尼御台様」

京に伝手はある?」

ヒメコは僅か黙ってから答えた。

「祖父母の縁を辿ってみます」

そんな縁が残っているかどうかも分からなかったけれど、そう答えるよりなかった。

「そう。私もどこか適当な家はないか当たってみるわ」

ヒメコは頭を下げた。

「有難うございます。でも尼御台様はどうかご無理なさいませんよう。私、下働きでも何でもやってみますから平気です。もうオオマスラオですから」

 その時、深い溜め息が聞こえた。

「オオマスラオは男だろう」

コシロ兄だった。

「殿!あの」

声をかけたものの、先が続かない。

鎌倉を出て京へ行く。それはコシロ兄との別れを意味していた。もしかしたら永遠の別れ。

決めたこと。決まったこと。避けられない道。わかっているけれど、でも、それでもまだどこかで、それを遠い他人事のように感じている自分がその時はいた。


コシロ兄は少し黙ってヒメコを見ていたが、ややして言った。

「しょんない」

——しょんない?

そんな一言で終わってしまうものなのか。

そう、よくある話。家の都合で嫁ぐ相手が変わる。縁を切られる。よくある話なのだ。運良くヒメコは恋した相手に嫁ぐことが出来た。子を三人設けることが出来た。それだけで充分ではないか。幸せな十年だった。そう思おう。

——でも、胸が痛い。

コシロ兄は続けた。

「とりあえず一度屋敷に戻れ。藤五を連れて来ているから送らせる。それから伊豆の江間へ行け。父は今暫くはここを離れないだろうから」

ヒメコ は頷いた。

「分かりました」

それしか言えずに頭を下げ、一幡を直垂で隠して抱えるようにして部屋を出る。

「ヒメコ!」

アサ姫の声が引き留める。

「ずっと側に居てくれて有難う。貴女が居てくれてたから私たちは幸せだったわ」

ヒメコは頷いて微笑み返した。

「はい。私もとても幸せでした。御恩は生涯忘れません。どうかお元気で」

「ヒメコ、戻って来るのよ!鎌倉に。何年かかっても私は諦めないからね」

「はい」

辛うじて返事して頭を下げる。そう、アサ姫なら出来るだろう。


最後、ヒメコは御所を振り返り、深く頭を下げた。頼朝が居た場所。鎌倉大火で焼け落ち、同じ位置に建て直され、そしてこれからもここに有り続けるだろう鎌倉の御所。


「有難う」


音には出さずに、この場に礼を伝える。

——どうぞ、護って。この地を護る神々よ。この幕府を。鎌倉を。アサ姫を。コシロ兄を。そして、この地に関わる全ての存在を。



それが、ヒメコが長く馴染んだ鎌倉の大倉御所を目にした最後となった。

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