十二 お役目
「あれ。あんたら、どうしたんだい?こんな寒くなってきたのに御神渡りかい?ああ、もしかして京の方かね。やっぱり京の方々は信心深いんだねぇ。そんな綺麗な格好でさ」
地元の漁師だろうか。村に入った所で声をかけられて、ヒメコは腕の中の一幡がガタガタと震えているのに気付いた。
「あ、ああ、寒いですね。ところで御神渡りって?」
「え、あんたら今渡って来たんだろ?何年かに一回、潮が引いて崖の横に小径が出来ることさ。私らは昔から御神渡りって呼んでるんだ。すぐ消えちまうからな」
「あ、は、はい。不思議でした。それにしても本当に寒い。申し訳ないのですが、この子に何か着せられるような着物を貸して貰えませんか?」
「いやぁ、京の方々にお貸し出來るようなそんな綺麗なものはうちにはねぇよ」
「では、そこの干し場に掛かっている鼠色のあれをこの紐と交換して下さいませんか?」
一幡の髪を美しく結い上げていた紐をするりと外して漁師に渡す。こんな雅な髪型をしていたら目立ってしまって逃げ切れない。一幡の髪をぐしゃぐしゃにして、先程転んで汚れた手でその白い頰を汚す。
「でも、ありゃあうちの子のお古で、もうボロボロですよ。もちっと先に行けば長者さんの屋敷があるから、そこで何か」
言って、男がそちらに向かいかけるのを押し留め、
「いえいえ、早くしないとこの子が風邪を引き込んでしまいますから」
無理に紐を渡して古着を一幡に着せる。
「ああ、着丈はちょうど良い。ほな、おおきに。ありがとさんどした」
無理無理、京の言葉を真似て頭を下げ、一幡を抱えて歩き出す。
でも、これからどうすればいいのだろう?コシロ兄は比企攻めの総大将だった。一幡を連れて江間には帰れない。その隣の比企の屋敷は既に北条の手に落ちているだろう。では、御所は?
そうだ、御所に行こう。アサ姫に助けて貰うなら、どうやっても御所に行く他ないのだから。すっかり暮れた路をボロを着た一幡と共に忍び歩く。
御所はヒメコが昼間に予想していた通りに戦が終わった武者らが集っているようだった。だが、それは南の庭。ヒメコは一幡の手を引き、以前トモが教えてくれた抜け穴より御所の内へと入り、人気のない所を抜けて北の対屋の床下へと入り込む。一幡は何も喋らずにずるずると着物を引き摺りながら大人しくヒメコの後を付いてきた。幼いながらに異常を感じているだろうに、泣きもせず、人形のように黙ったまま。余程怖いのだろうか。気の毒に思うが、今ヒメコが手を離したら、それこそどうなるかわからない。その時、床上で何人かの足音が聞こえて、腰を下ろす気配がした。
「一幡君は比企の館と共に火事でお亡くなりになりました」
低い声。コシロ兄だ。
「嘘を申せ!」
対して怒声を上げたのは北条時政か。
「嘘ではございません。一幡君の乳母が、館の前にて一幡君が最期に着ていた小袖が燃え落ちているのを確かめております」
「そんなもの、見せかけに決まっておろう。そなたの妻の比企の娘は何処にいるのだ?」
「私の妻は確かに比企の姫ですが、それがなんだと言うのです」
「加藤景廉が比企の館の前でそなたの妻と会ったと言っておる。また、女が子どもを抱えて逃げたのを見ている者があるのだ。隠し立てするなら、江間も比企能員の謀叛に加担したと見なすぞ」
「父上、何を仰っているのです!義時は比企攻めの総大将ではないですか。いい加減になされませ!何をそんなに怯えてらっしゃるのです?一幡は廃嫡して焼死した。千幡が将軍家を継ぐ。京にもそう伝えてあります。もう比企は滅んだ。他に何がお望みなのですか!」
「怯え?ふざけるな。私は念には念を入れたいだけだ。頼朝公もそうされていたではないか!後顧の憂のないようにな!」
昂ぶる時政の声にヒメコは耳を塞ぎたくなる。頼朝がそうしていた?確かに命じていた。義高殿と静御前の子と。でも。
「では、佐殿なら一幡君を殺すと?」
それはひどく静かな声だった。ヒメコの隣で一幡君がビクリと身体を震わせる。ヒメコはそっと一幡を抱き寄せた。コシロ兄の静かな声が続く。
「佐殿はご舎弟の九郎殿の子を殺せと確かに仰ったが、海に捨てただけだった」
「そ、それはどういう意味だ?生まれた男児が生きているということか?」
「わかりません。でも、念を入れる必要などないでしょう。そもそも我らのどこにそのような裁断が出来る力や権利があるのですか?北条、そして江間は、貴種である頼朝公のお血筋の将軍家をお支えするのが、そのお役目。北条の中で唯一その権限を有すると言えるのは、頼朝公の後家である尼御台様だけです。私は尼御台様のご命令なればこそ比企能員殿の討伐に当たった。幼い主君を推し立て、権力を我が手に握ろうとする外祖父は京にもいるが、鎌倉にもいる。それだけのこと」
そこで暫し言葉が止まる。
「だが、人としてあまりに道を外れた措置は、後々我が身に災厄となって戻って来ますぞ」
それは、ヒメコが初めて聞く、コシロ兄のひどく冷たい声だった。
「小四郎!そなた、私を威すつもりか。父を当て擦るとは何ごとぞ!私が千幡君の外祖父として権力を握ると言いたいか!」
「父上が千幡君の外祖父なのは事実。大事なのは、その立場を利用して何をやるかでしょう。良い計らいであればいいが、人の誹りを受けるようなことをなさるのならば、と言ってるだけです」
「な、何だと!父を馬鹿にするとは許さぬぞ!そなたなど」
床上で続く父子の対決。ヒメコは震えながら一幡を抱いてそれを聞いていた。
が、その時、足元をモゾリと這うもの。
「ヒッ!」
思わず息を呑んでしまう。慌てて口を抑えてパッパッと足を払う。虫だろうか。床上に聞こえなかったかと気配を探る。でもコシロ兄の声が続いた。
「私など?なんだと仰るのです。気に入らぬなら、また無理な戦にでも追いやって見殺しにすれば良い。三郎兄上のように」
——え?
「小四郎!何が言いたい?私が三郎を殺したとでも言うのか。先にしっかり供養したではないか」
「供養したからそれで済んだと仰るのか」
「義時!貴様!」
「お止めなさい!」
アサ姫の声が響く。
「そんな話は後にしてちょうだい。今はともかく千幡を将軍として立派に育てねばなりません。北条と江間と対立している時ではない。一刻も早く体制を整えなければ。義時、まずは姫御前を早く探し出し、私の前に連れてらっしゃい」
「かしこまりました」
「それから父上、比企の残党の処理は任せます。ですが、くれぐれもやり過ぎないよう。穏便に済ませて下さい。後々の為に。私の言う意味、お分かりですか?」
「意味?」
「ええ、勢い付いてこれ見よがしな罪状を作り上げて敵方となった者らの領土を奪おうとなさいませんよう」
「アサ!私がいつそのようなことを!」
「なさらぬのなら良いのです。では、頼みましたよ」
そのアサ姫の言葉を区切りに床上から二つの足音が出て行った。
——アサ姫に助けて貰うなら、今だ。
ヒメコは一幡の手を引いて床下を這い出た。
が、その途端に口元を塞がれる。
——見つかった。慌てて一幡を引き寄せる。だが、覚えのある声が聞こえた。
「お前はまた、何をしようとしている」
コシロ兄だった。
「あ、あの。尼御台さまにお助け願おうと思って」
コシロ兄はチラと一幡を見てから、自分の直垂を脱いでヒメコに羽織らせて一幡を隠した。それから段を上り、中へと声をかける。
「尼御台様、連れて参りました」
戸が開かれてアサ姫が姿を現す。
「ヒメコ、貴女」
言いかけた言葉が止まる。ヒメコは一幡をそっと前に押し出した。
「その子は一幡?」
アサ姫の問いにヒメコは頷く。
「そう。でもどうしてそうとわかるの?」
ヒメコはその言葉に少なからず驚く。アサ姫は自嘲気味に笑った。
「私はね、一幡に会うのは何年か振り。そう、頼朝公が亡くなる直前に頼家が赤子の一幡を連れて来て以来顔も見たことがないのよ」
———え?
「でも比企で乳母をしてた子から預かったのです。ただのお子ではない。だから」
「その子は名乗った?」
「え?」
「何か喋った?いいえ、何でもいい。声を出すのを貴女は聞いた?」
言われて気付く。一幡は全く声を上げていない。馬から落ちた時でさえ泣きもしなかった。ヒメコは首を横に振る。
「そう。では、やはりその子が一幡なのでしょう。声の出ない子という噂は聞いてました。頼家と比企能員は隠そうとしていたけれど、五郎に命じて探らせていたの。そして噂通りだった」
———声の出ない子。
ヒメコは前に立つ一幡の黒い艶やかな髪を見下ろす。それでずっと大人しかったのか。でも、こちらの言ってることは分かっているようだった。澄んだ賢そうな目をしていた。なのに……。
「声が出ない。それが、私が一幡より千幡を後継と定めた一番の理由よ。喋れない将軍ではお役目を果たせないから」
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