十一 比企の最後
大路は鎧をつけた武者達が駆け巡っている。ヒメコは小路を駆けて比企ヶ谷へと向かった。その途中、夜目にも鮮やかな、菜の花色の袿を被った一人の女が此方へ向かって駆けて来るのに行き合う。でもどこか様子がおかしい。よくよく見れば、それは壮年の男性が女物の着物を羽織って駆けているのだった。その後ろから男が追いかけてくる。
「やい、比企与一。お前はそれでも武士か。戦わず女装して逃げるとは恥を知れ!」
怒声と共に肉を断つ嫌な音がして、風にはためいた鮮やかな菜の花色の着物に深紅の血飛沫が飛び散った。
「比企与一の首、この加藤景廉が討ち取ったり!」
——加藤景廉。頼朝が山木を攻めた時に頼朝から長刀を与えられ、見事山木兼隆の首を取って戻り、褒美を貰っていた男。その後も頼朝の気に入りで、よく側に控えていた。ヒメコは加藤景廉と、その手にした首を茫然と眺める。
と、景廉はヒメコを見て驚いた顔をした。
「もしや巫女殿ではないか。江間殿は妻子らを御所にお預けになったのではなかったのか?」
「ええ。でも抜けて参りました。殿は何処にいらっしゃいます?」
ヒメコが問うたら、景廉は斬り落とした男の首をその髪を鷲掴みにしてぶら下げたまま笑い出した。
「なんと、変わらずのじゃじゃ馬ぶりだな。だが、これより先は止めておけ。直に火がつく。あとは炙り出て来た者らを捕らえるまで。巻き込まれぬ所まで退がられよ。御身の安全は約せぬぞ」
その時、大音声が辺りに響いた。
「糟屋殿、刀を収められよ!」
低いけれどよく通る声。
——コシロ兄だ。
ヒメコはそちらに向かって駆け出した。景廉が腕を伸ばすが、矢が雨のように降って来て景廉は後退した。その隙にヒメコは声の方へと足を踏み出す。おびただしい数の軍兵が館を取り囲んでいた。その一番前にコシロ兄がいるのが見える。攻め手の総大将なのだろう。矢盾に守られつつ、でも、そこから身を乗り出すようにして館に向かって声を張り上げるコシロ兄。
糟屋有季殿、これは尼御台様のご命令である。刀を置き、お命大事に投降されよ!」
——糟屋有季殿。父に付いてくれていたあの人は比企の軍勢に付いたのか。館の中から声が返ってくる。
「いいや、私は比企能員殿の娘御を妻に頂いた身。義父を見捨てるわけにはいきませぬ。武士の誇りにかけて、ここを離れはせぬ。いざ、鎌倉!鎌倉の将軍家をお護りするのが比企に連なる者の務めと義父上は言っておられた。私はそれに従うまで!」
「いいや、ここが落ちても将軍家は続く!千幡君を後継にと尼御台様は既にお定めになったのだ。鎌倉の為、そして亡き頼朝公とそのご愛息千幡君の為に、どうか今は敢えて引いて、そのお命惜しまれよ!共にこれからの鎌倉を支えてくださらぬか。この通りお頼み申す。私はまだ力が足りない。粕屋殿が居て下されば尼御台様もどんなに心強いか。どうか、何卒お聞き届け下され!」
血を吐くようなコシロ兄の叫び。そこには親しみと悲哀、また苦悶の色が滲んでいた。ややして少し静まっていた館の内から返事が返ってくる。
「有難きお言葉なれど、一幡君と義父を見棄てては、亡き頼朝公に顔向けが出来ませぬ。千幡君をお護りするは貴殿に任せる。では、またいつか共に酒を飲もう」
「糟屋殿!」
「皆、ここまでだ!屋敷に火を放て!女子どもは逃げ延びよ!」
糟屋有季の声と共に、屋敷から火の手が上がる。辺りの風景が赤々と染まっていく。
その時、ヒメコの目の端を複数の影が横切った。その内の一つに目が留まる。
「ヨリカ」
思わず声を上げてしまってから慌てて口を塞ぐ。影は海辺に向かって行った。それを追おうとした時、館の内側からバチバチという激しい音が響いて来た。そして煙と炎の気配。
「館より逃げ出す者は全てひっ捕らえろ。女子どももだ!」
コシロ兄の声だった。ヒメコはそちらは見ずにヨリカの後を追った。ヨリカは何かを抱いていた。恐らく一幡君。
「ライカ!」
声をかけるが、ヨリカは足を留めない。でも子どもを抱えながらの足。すぐに追い付く。だがその袖を掴もうとした途端、彼女は振り返りざまに短刀でヒメコを薙ぎ払おうとした。でも幸い刃はヒメコの袖を掠めただけで済む。それより短刀を手にしたことで子どもが落ちそうになり、ヨリカは慌てて短刀を捨てると子どもをしっかり抱えてまた駆け出そうとした。
「ヨリカ、そっちは無理よ」
ヨリカは止まってヒメコを見た。ヒメコはその腕の中の子を見て尋ねる。
「一幡君ね?」
ヨリカは答えなかった。
「若狭局殿は?」
ヨリカの目に炎が宿った。
「殺された。囮になるから一幡を連れて逃げろと言って、流れ矢に射られた」
その時、目の前に馬が立ちはだかった。
「おい、お前ら、比企の者だな?こっちへ来い!取り調べる」
野太い男の声と共にヨリカの髪が掴み上げられる。
「女と子どもが居たぞ!捕まえた!俺の手柄だ!」
ヒメコは歓声を上げた男へと駆け寄り、その腕を左腕で掴んで逆に捻って後ろへと回り、また駆け戻る勢いを借りて馬から引き摺り下ろした。
——バキッ
骨の砕ける嫌な音がしたがヒメコは気にせず馬の上へと跨るとヨリカへと手を伸ばした。
「早く、その子を!」
ヨリカは刹那迷った顔をしたが、両手で一幡を抱え上げると馬上に押し上げた。でもヨリカの手が残り、一幡の小袖が引っかかる。ヒメコは白の単だけになった子を抱き締め、馬の手綱を握った。
「お願い」
そんな声が聞こえた気がしたけれど、あとは振り返らずに海沿いをひた走らせる。だが、砂に足を取られたか、馬が突然倒れ、ヒメコは地面に投げ出される。必死に起き上がり、少し先に飛ばされた子を拾い上げてまた駆け出す。
——自分は何をしてるのだろう?何故駆け続けるのか。この子を護ろうとするのか。逃げ切れる筈もないのに。
やがて砂浜が終わり、高い崖と暗い波に囲まれる。
——諦めよう。
こんなに必死にならなくても、この子は殺されないだろう。まだこんなに幼いのだ。頼家の血を引いているのだ。アサ姫が何とかしてくれる。
でもその時、ふと北条時政の顔が浮かんだ。ヒメコは首を横に振って歯を食いしばった。
——駄目だ。まだ走れる。諦めてはいけない。
ヒメコは迫り出した崖の向こうを眺めた。あちらに渡れれば、もう少し逃げられる。ヒメコは一幡を抱え直して草履を脱いだ。冷たく黒い砂浜をザブザブと濡らす黒い波。勇気を振り絞って足を踏み出す。その時、背後から光に照らされた。
——捕まる。
身を縮こめるが、ヒメコを照らしたのは追っ手の掲げた松明の火ではなかった。大きな満月のあかり。
月の光の中、前を見れば、崖に沿って小径が出来ていた。ヒメコはその小径を辿って崖の向こう側へと渡った。
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