五 竹の姫
それから少しして、コシロ兄が江間に帰って来た。顔を合わせた瞬間、コシロ兄の気配が冷たく尖っている気がしてヒメコは僅かに怯える。でもその厳しい顔は、馬を預けて荷を下ろす頃には徐々に消えていった。
「変わりはなかったか?」
穏やかな低い声にヒメコは微笑んで頷く。腹の子は順調に産み月を迎えていた。コシロ兄は笑顔でヒメコの腹に手を当てた。
「もう少しのようだな」
「はい、この子もおっとりした子らしく、シゲと同じで、あまり激しくは動きませんが元気です」
「そうですよ。私がカグヤと声をかけると、きちんと動いて返事をしてくれるのです!」
得意げに答えたのは母だった。
「カグヤ?」
不思議そうに首を傾げたコシロ兄に、ヒメコは慌てて母を睨むが、母は舌を出して逃げて行った。
「母は、竹姫は地味で嫌だとかぐや姫だと勝手にそう呼んでるのです。聞き流してやって下さいませ」
「かぐや姫か。そうだな、次は姫だといいな」
呟いてから慌てて言い足す。
「でも竹丸でも構わない。母子とも無事で産まれてくれればそれでいい」
「はい。有難うございます」
コシロ兄の眉が僅かに寄った。
「痩せたようだが、きちんと食べているのか?」
コシロ兄がヒメコの頰に軽く手を添わせる。その手をヒメコは自分の掌で包んだ。
「はい。此度はどのくらい此方に居られるのですか?」
「そうだな。此度は少し長く居られそうだ。急な呼び出しがかからなければ、お前の出産までいられるだろう」
「本当ですか?」
頷くコシロ兄に思わず抱きつく。会いたかった。聞きたいことが山ほどあった。
「おい、腹の子が潰れないか?」
コシロ兄が慌てて離れようとするのを、いやいやと首を横に振って幼子のようにしがみつく。
「あ、母上ばっかりずるい。トモも父上と相撲したいのに」
無邪気な声にコシロ兄が声を立てて笑い出す。
「相撲か。確かに今相撲したら、すぐにすっ飛ばされそうだな」
ヒメコは頰を膨らませた。コシロ兄はヒメコを離すとトモの頭の上に手を置いた。
「トモ、明日は早起きして相撲の稽古をつけてやる。今晩は沢山食べて早く眠れよ」
トモは大きな声で返事をして駆けて行った。
「殿、阿波局様よりお文をいただきました。殿が安達景盛殿の愛妾を攫ったとのこと。一体何が起きたのでしょうか?」
その夜、ヒメコはコシロ兄に真っ直ぐ聞いてみた。コシロ兄は一瞬顔を顰め、あいつめ、と毒づいたが、諦めたようにヒメコに向き直った。
「元は、安達景盛殿が、愛妾に夢中になるばかりに、お父君が奉行していた三河国になかなか下向しなかったことから殿がお怒りになったらしい。それで興味を引かれた殿が近習らにその妻女を攫わせた。罰のつもりだったのだろうが」
言いにくそうに紡ぐコシロ兄。
「近習って、時連殿もですか?」
「あいつは上手く命から逃れたようで名は上がってなかった。安達殿が戻って来て事態を知り、戦支度を始めたと鎌倉中が大騒動になり、姉が駆け付けて間に入り、何とか収めた。景盛殿は頼家公に翻意は起こさないと起請文を書かされて事態は収拾した」
「収拾、したのですか」
そんなに簡単に収拾されるものなのだろうか?そうは思いつつ、それ以上はその話題に触れられなかった。
「江間で不自由はないか?産婆さんはどうする?」
「おシマさんがお世話になっているお産婆さんが良い方で、私もお世話になるつもりです」
「そうか」
互いに微妙な不安は抱えつつ、でも共に居られる時が惜しくて、ヒメコはトモの悪戯やシゲの成長ぶりなど、明るい話題を沢山連ねて笑って過ごした。鎌倉に戻ったら、きっとコシロ兄はまた厳しい顔で過ごさなくてはいけないのだろうから。
予定の頃を過ぎて、やっと産気づく。産まれたのは姫だった。
「かぐや姫だな。よくやってくれた」
初めての女の子を恐々と抱くコシロ兄。その目は潤んでいるように見えた。
「あ、父上が泣いてる!おかしいや、男は泣いちゃいけないのに!」
トモがやいやい言うのをコシロ兄は笑って見守り、
「嬉しい時は泣いていいのだ。先の将様も嬉しい時には涙を零しておられた」
そう言った。トモが騒ぎ立てる。
「えぇ、嘘だ!先の将軍様はすごく怖い人だったんでしょ?泣くわけないじゃない!」
「いや、挙兵の時にお味方が駆け付けた時や、生き別れになっていた弟君と再会した時など、本当に嬉しそうに泣いておられた」
山木攻めの前に遅れた佐々木兄弟が駆け付けた時に泣いたのはヒメコも見た。弟君とは九郎義経殿のことだろうか?その後、仲違いするとは思わなかったのに。男兄弟とは、どこか張り合ってしまうものなのだろうか。頼家殿と千幡君はどうなるのだろう?トモとシゲは?
そこまで考えて、ヒメコはフルフルと首を横に振った。どう生きるかは、その子次第。親として出来る限り導いたとしても、将軍家がそうであるように、親の望むようにはなかなかいかぬものなのだろう。
やがて年が明けた。江間の隣の北条の辺りが騒がしい。シンペイが確かめてくれた所、頼朝の一周忌にあたり、頼朝の生前の屋敷である建物が仏閣と定められて仏像が安置されたという。山木攻めの前に皆が集った屋敷だ。コシロ兄と初めて出逢った場所。夜泣きする八幡姫を負ぶって歩いた庭。源氏の巫女として竹箒で掃き清めた門の前。遠い過去の風景が蘇る。還らない日々。
でも過去を振り返っても時は戻らない。前に進むしかなかった。
「え、殿の妾がお子を?」
思いがけぬ言葉にヒメコは息を呑んだ。鎌倉の江間の屋敷にコシロ兄の妾がいて、子を孕んでいるという。
——鎌倉を離れていたのだ。仕方ない。
そう自分を慰めつつ、やはりどうしても気は落ち込んでしまう。やがて五月に男児が産まれた。
「尼御台様より祝いの産着をいただいた」
淡々と話すコシロ兄に、ヒメコは相槌を返すことしか出来なかった。
「おい」
声をかけられ、ハッと顔を上げる。
「あれは殿のお子だ。だから姉上は祝いを送ってきたのだ。俺の子として育てよと」
「え?」
「安達殿の事があってより警戒していた。父が強く推し進めてきた側室の話があり、悪いとは思ったが、それに乗った」
「そんな」
——側室。
頭の中では理解している。でも心がどこか納得しない。
「では、鎌倉の江間の屋敷には今その方がいらっしゃるのですね」
コシロ兄は頷いた。
「お前を穢されたくない」
絞り出すようにして出された声。
その言葉は嬉しい。でも、それで側室にされてしまった人は?その子は?今後どうなるのか。
ヒメコは暫し蔀戸から漏れ聞こえる蛙の声を聴きながら、そっと嘆息した。どうにもならない。金剛の時と同じだ。その人にも子にも罪はない。だけど、それで本当にいいのだろうか。でもヒメコはその場で頭を下げた。
「全て承知致しました。私はこの江間におります。鎌倉のことは殿の良いようにとりはからって下さいませ」
コシロ兄は暫く黙ってヒメコを見ていたが、一言、済まぬ、と言って去って行った。
追い出してくれと縋ってもよかったのだろうか?でも、ヒメコを守る為だと、穢されたくないと言ってくれたのに、そんなことは言えなかった。
ただ、鎌倉の江間屋敷にはもう帰れない。ヒメコはそう思った。
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