六 いと せめて
また年が明けた建仁元年(1201年)正月、ヒメコは伊豆の江間で静かな年明けを迎えた。コシロ兄は年明けの祭事の役の為、鎌倉にいた。頼家の正室、賀茂の姫は先年に嫡男たる善哉君を産んでいて、この年は盛大な祝いの行事が鎌倉で行われている筈だった。鎌倉は頼家の代へと上手く引き継げたのだろうとヒメコは思った。頼家が頼朝のように全国の武を一つに纏めてくれるなら戦は無くなる。そうしたら、トモやシゲが鎧をつけて戦場で命を落とすこともなくなるのだ。そうあって欲しいと思った。
それにしても、この冬は暖かかった。元々伊豆は雪が降らないが、氷すら張らなかった。思えば先の夏も変な天候だった。雨が殆ど降らず、かと言ってお日様が顔を出してくれるわけでもなく、カグヤを身ごもっていた身としては過ごしやすくて助かったが、近隣の田畑では作物が育たずに年貢が納められぬ様子だとシンペイが話しているのが聞こえた。
コシロ兄は正月の行事が終わる頃になっても江間に戻らなかった。一年程前に謀反を企てたとかで討たれた梶原景時と同心した城氏が兵を挙げたらしく、それらが落ち着くまで鎌倉を離れられないとのことだった。
弥生、鎌倉から急ぎの使いがやってくる。鎌倉でまた地震が起き、同日に火事も起きた為、若宮大路から西側があっという間に燃え尽きたという。
「皆様はご無事ですが、焼け出された人々が困窮しているので、物資を送って欲しいとの殿からの伝言です」
ヒメコは急いで指示を出して救援の物資を届けさせた。
鎌倉はどうなっているのだろう?そうは思えど、コシロ兄からの音沙汰はない。便りのないのは無事の報せと思いつつ、鎌倉に居るだろうコシロ兄の側室のことを考えたりして、ヒメコは溜め息を吐いた。贅沢だとわかっている。それでも顔を見ないと不安になる。
ふと、シゲが悪戯で引っ張り出してきたらしい草子が目に入る。それには和歌が書かれていた。
「いとせめて 恋しき時はむば玉の夜の衣をかへしてぞきる——小野小町」
夜着を裏返して眠ると、逢いたい人に夢で逢えるというまじないがある。何とか恋しい人の姿を見ようという女心を示した歌だ。三十六歌仙で絶世の美女だったという小野小町。そんな彼女でも誰かを恋しく思い、逢えない寂しさを紛らわす方法をあれこれ考えていたと思うとヒメコはどこか慰められる気がした。
——和歌って難しいんですもの。
頼朝にそう文句を言った幼いヒメコ。その時、佐殿は大人になればわかると言った。確かにそうだった。時が来ないとわからないものはたくさんある。会いたいのに会えない侘しさは、諸々を経験してこそのもの。
「何をしている?」
突然声をかけられ、驚いて振り返ったらコシロ兄だった。
「あ、お、お帰りなさいませ」
「縁起が悪いから直せ」
言われて、慌てて衣を脱ぐ。
「こ、これはまじないで、けして死装束ではありません!」
言ったら、コシロ兄は、小野小町かと呟いた。
「ご存知でしたか」
コシロ兄は口の端を上げた。
「それで、効き目はあったのか?」
「はい」
ヒメコは笑顔で答え、絵巻を散らかしたシゲに感謝した。コシロ兄は散らばった絵巻の上で昼寝しているシゲを見て言った。
「シゲは絵巻が好きなのか。まこと女の子のようだな」
「はい、和歌も好きで、詠んでやると喜びます」
「トモは和歌を聞くとすぐ寝入ってしまうのにな」
「あの子は外で暴れている方が好きで、片時もじっとしていません」
「男兄弟でも随分違うものだな。カグヤは?」
「おとなしい子です。女の子とはそういうものなのでしょうかね」
「いや、妹達は幼い頃から騒がしかった。やはり性質によるものなのだろうな」
確かにコシロ兄と時連殿も男兄弟だけど、まるで違う。
「鎌倉は地震や火事の後どうなったのですか?」
「ああ、御家人らが群集してあっという間に再興した」
「それは良かったです」
そこで一瞬、間があく。
「帰りたいか?」
問われてヒメコは僅か躊躇った。
——コシロ兄がずっと江間に居てくれたらいいのに。
言えない言葉を呑み込んで、ヒメコは微笑んだ。
「私は伊豆におります。でも帰っても良い時がきましたら迎えを寄越して下さい。すぐに飛んで戻ります」
コシロ兄は笑って頷いた。
「ああ。待っていてくれ」
その笑顔に思い出す。結婚の前に、待っていてくれと言われたこと。だから今回も待っていれば迎えに来てくれる。ヒメコは微笑んで答えた。
「はい、お待ちしております」
その年は梅雨が遅く、溜まらぬ水に皆がやきもきとした。やっと雨が降ったと思っても陽射しが弱い。今年も不作となりそうだった。おまけに秋に大風が吹き荒れ、作物が悉くやられた。各地の倉は空になり、飢えて亡くなる人が増え、強盗などが跋扈して物騒になった。
「それでも鎌倉では、御所様は蹴鞠ばかりして遊んでおられるそうよ。宴に寺社詣、お宮の建設と、自分らのことばかりで、田畑や人民がどうなってるのか、まるで考えて下さらない。それに、どっかの村では、突然御所様の代官だかがやって来て、田畑の大きさと所有の根拠を示せと脅されたって。あれはきっと、隠し田を探し出して、より多くの年貢を納めさせる為だろうって。ただでさえ不作で苦労してるのにこれ以上絞り取る気か。これなら平家の方が良かったって皆言ってるらしいわ」
母の言葉にヒメコは驚いて聞き直す。
「母さま、それ、一体どこで?」
「村の女衆とお喋りしてると入ってくるのよ。女の情報網ってすごいわね」
「ええ、本当ね」
相槌を打ちつつ、ヒメコは母の逞しさに感心していた。
それにしても、こんな伊豆にまで鎌倉の悪い噂が流れてくるなんて。余程世情が厳しいのか、それとも本当に御所様はそれ程に遊興に耽っているのか。誰もそれを止められないのだろうか?アサ姫も?
そんなある日、頼時が江間に戻って来た。
「母上、ご無沙汰しておりました。お変わりないようで安堵いたしました」
頭を下げる頼時は、いつもの通りに穏やかな微笑みをたたえていたが、どこか寂しげなようにも見えて気にかかる。
「まぁ、よく戻られました。すっかり寒くなったからあったかい汁物を用意して貰った所よ。皆でいただきましょう」
皆を集めて囲炉裏を囲む。江間でも食料は乏しくなっていたが、主従が暮らす程度には備えてあった。椀の汁を一口啜った頼時が
「温まりますね」
そう言って、ホゥと大きく息を吐いた。黙々と汁を平らげた後に椀と箸を下ろし、ヒメコに向き直る。ヒメコも箸を置いた。
「母上、佐殿よりいただいた頼時の頼の字を返上致しました」
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