四 混迷
伊豆の江間では母やシマ、シンペイらが歓迎してくれた。殊に母はシゲを一目見るなり奪うようにして抱き上げた。
「まぁ、何て美しい姫なんでしょう!」
男児と文で知らせたのに、とヒメコは肩を落とす。
「お祖母様、シゲは男の子だよ!俺の弟なの!」
トモが母に飛びつく。
「まぁ、トモ!大きくおなりだこと」
飛びつかれた母がよろけるのを、シマが支えてくれる。
「お方様、よくいらっしゃいました。おかげさまで娘も元気に育っております」
シンペイの笑顔にヒメコも笑顔を返した。久々の江間は何も変わらなかった。それにホッとする。ちらと隣の北条の方を伺う。
「北条の方々は牧の方を始め、皆さま殆ど鎌倉においでで、残されているのは、この辺りに住まう家人と警護の者だけのようなので、お気になさらず平気ですよ」
へぇと相槌を打っていたら、母が割り込んできた。
「牧の方なら、暫く留守にするわって仰ってたわよ。とても感じの良い方ね。私、あの方好きだわ」
あっさりと言う母にヒメコは驚く。
「母さま、牧の方とお話をされたことがあるの?」
「ええ。此方にいらっしゃる時はよくお招きいただいてお喋りしてるわよ。牧の方は京の綺麗な小物を沢山お持ちで、それを紹介してくれるので楽しくて」
「へぇ」
にこにこと無邪気に笑う母を見ながら思う。母は元々子どもっぽい性質だったが、父が亡くなった後、それがまた良い方に進んだようだった。きっとその邪気の無さが牧の方の気に入ったのだろう。素直に京の話に耳を傾けてくれる母の存在は、牧の方にとっても嬉しかったのかも知れない。
「頼時殿、送ってくれて有難う。貴方は少しは江間に居られるの?」
頼時に問うたら、頼時は残念そうに首を横に振った。
「先の将軍様の四十九日の法要があるので、私は戻ります。父上もそれが済めば、きっとこちらにいらっしゃるでしょう」
ヒメコは頷いた。頼時はシゲの頭を撫で、トモに向かった。
「トモ、父上と私が居ない間は、お前が江間の若殿だ。しっかとこの地と母上を守るのだぞ」
トモは元気に返事をすると、任せとけと言わんばかりに胸を叩いた。
「兄上、鎌倉をお願いしますね」
頼時は驚いたようにトモを見下ろす。慌ててヒメコが言い足した。
「あ、それは私の真似です。殿がお出かけになる時に、そうお見送りしたのを聞いていたのでしょう」
そう言ったら、頼時は笑った。
「かしこまりました。しっかと努めて参ります」
遠ざかる頼時の馬を眺めながら、遠く鎌倉の方角を見遣る。東の山の向こうには雲がかかっているようだった。
頼朝の四十九日の法要が済んだ頃になってもコシロ兄は帰らなかった。ただ文が一通届き、乙姫が病の為、もう少し鎌倉を離れられない旨が書かれていた。
「乙姫様が?」
女御宣下を受けて上洛するのではなかったのか?三幡姫は八幡姫と比べて体も強く、病の陰などなかったのに。アサ姫の心境を思うと食も進まなくなる。
雨の降り始めた弥生の暖かな午後、コシロ兄が江間に戻って来た。
「来月より長く鎌倉に留められることになったので、その前にと暇を乞うて戻った」
「長く、ですか」
気を付けたのだが、がっかりしたのが伝わってしまったのだろう。コシロ兄は、ああと頷いてヒメコを見た。
「済まない。数合わせの為だろうが、父に引っ張り込まれて政務に携わることになってしまった」
「政務に?」
「まぁ、それは御目出度う御座います」
脇で聞いていた母が先に口を開くが、ヒメコはぼんやりしたままコシロ兄を見つめた。コシロ兄は釈然としない顔だった。でも逆らう事が許されなかったのだろう。ヒメコは頭を下げた。
「御目出度う御座います。大切なお役目、恙無く成し遂げられますよう」
それから一呼吸置いてコシロ兄を見上げる。
「実は殿にお話したいことがあったのです。お腹にややこがおります。この秋に産まれる筈です。だから此度はお供出来ませんが、鎌倉が落ち着いたら、戻ってきて下さいませ」
コシロ兄は目を見開いてヒメコを見た後に顔を綻ばさせた。
「そうか。次は竹姫か竹丸だったな。大事にして、無事に産んでくれ」
ヒメコは返事をして頷いた。
「はい。殿もどうか、ご無事で」
コシロ兄はヒメコの腹に軽く触れてから母に頭を下げ、馬上の人となった。遠く見えなくなるまで手を振る。
「まぁ、竹姫だなんて地味で可哀想だわ。もう少し可愛らしい名を考えてましたのに」
憤慨する母を宥めながら屋敷へ入る。
「亡き将軍様が付けて下さった名なのです。次の子は竹にせよ、と。きっと竹のようにすくすくと育ちます」
母はそれでも何やら文句を言っていたが、ヒメコは腹をさすりながら素知らぬふりをした。コシロ兄は、父に引っ張り込まれたと言っていた。北条時政は千幡君の後ろ盾。頼家殿や一幡君の後ろ盾である比企能員との諍いにコシロ兄は巻き込まれつつあるのではないか。アサ姫はどうしているのか。不安は募るけれど、ヒメコには何も出来ない。この子を無事に産み、トモとシゲを立派に育てることだけが出来る唯一のことだった。
夏に入った頃、鎌倉に大きな地震がある。伊豆はさほどでもなかったが、コシロ兄に付いていた尾藤の次郎が急ぎの使いとしてやって来て報告してくれた。
「建物はあちこち崩れましたが、皆さまご無事です」
天変地異は悪政の為と言われる。政務に携わると言っていたコシロ兄のことが気にかかる。でも追ってコシロ兄からヒメコの腹の中の子を案じる文が届き、少し安堵する。
だが七月に入り、阿波局からの文を開いたヒメコは読んでいて胸が苦しくなった。文には、ここ数ヶ月の鎌倉の様子が書かれていたのだが、三幡姫の急死と中原親能の出家、そして頼家の乱心など、信じたくないようなことばかりが綴られていた。
三幡姫の病は急速に悪化して、京から呼び寄せた医師が朱砂丸を献上したが効かずに医師は京へと逃げ帰り、その直後に姫は亡くなったという。亡骸の腫れ上がった瞼が可哀想だったとあった。
「朱砂丸」
八幡姫の時と同じだ。でも瞼が腫れ上がるなど、毒薬でも塗ったかのように感じてしまう。京の医師に邪気があってか無くてかは分からない。でも三幡姫に朱砂丸は不要だったのではないか。中原の親能殿はどうしてそれを止められなかったのか。京で、鎌倉で一体何が起きているのか。そしてまた頼家殿のことも。
「殿は、安達景盛殿の愛妾を、景盛殿の留守を狙って近習らに攫わせて屋敷へと監禁し、誰も近寄らせずに寵愛しているらしいわ。貴女が鎌倉に居ないのは幸いしたわね。殿は貴女に執心されていたから。小四郎兄上はそれに気付いて貴女を隠したのかもしれないわ。とにかく今は鎌倉に戻って来ない方がいいわよ」
文を読み終えてヒメコは心底肝を冷やした。
「何てことを」
家臣の妻を無理矢理に攫って監禁するなんて。頼朝はそんなことはけっしてしなかった。どこか何かが狂い始めている。このままでは済まないだろう。安達景盛は藤九郎叔父の嫡男。ヒメコからは従兄弟にあたる。顔を合わせたことはないが、そんな酷いことをされて、黙ってこの後も忠誠を誓えるのだろうか?
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