十一 再びの消失

目が覚めたら寝かされていた。ああ、と気付く。またやってしまったのか。自分の左腕は一体どうなっているのか。身体を動かそうとしたが動かない。目を上げればコシロ兄がすぐ側にいた。

「起き上がるな」

いつもの低い声にホッとするが、その顔色はひどく悪かった。

「どうかなさったのですか?」

動かない左手はそのままに、せめて横向きにと身じろぎをして違和感に気付く。

——腹に力が入らない。ううん、違う。腹が空っぽになっていた。気配が消えていた。ややこの気配が。

「殿」

震える声で呼ぶ。

「あの、私、あの、お産婆さんにお会いしたいのですが」

途端、コシロ兄はふっと目線を外した。

「先程去られた」

「去った?」

「よくあることだそうだ。出血が止まれば普段の生活に戻って構わないそうだ」

「普段の生活?」

言われて辺りを見回す。見慣れた江間の風景。ただ、土間の辺りにしゃがみこんでいるのはフジではないだろうか。

「フジ?どうかしたの?」

声をかけたらフジがパッと顔を上げた。でもその頰を涙が伝うのが見えてしまう。

——ああ、腹の子は流れたのか。流れてしまったのか。

ずしりと重く気だるい身体に、下腹にあてがわれた布の違和感。そして空洞になった下腹がキュルキュルと閉まろうとしている感覚。

「御免なさい」

コシロ兄の顔が微かに歪む。

「御免なさい」

もう一度謝罪の言葉を口にする。コシロ兄は何も答えなかった。

——御免ね。

音の響きはさせず、心の中で唱える。

——御免ね、御免なさい。

消えてしまったお腹の中の子。私が殺した。殺してしまった命。ヒメコは真上の梁を目でなぞりながら経を心の中で唱えた。でも唱えても唱えても消えない喪失感。そして酷い悪寒。翌日からヒメコは高熱を出した。


「出血は止まらないし高熱まで出てるんだ。何とかしてくれ!」

荒げられた誰かの声に対して女性の声が答える。

「何とか?そんなもん、あたしに出来るわけないだろ。落ち着きな。人の生き死には神仏と本人次第だよ。生かしたいなら、そこの寝てる本人に直接そう頼むんだね。生きようとしない者にどんな手立てを加えようとも無駄さ」

——何?何の話?


「ヒミカ!」

真名で呼ばれ、ぱっと意識がそちらを向く。

「生きろ!」

耳元で叫ばれる。

「生きてくれ!頼むから生きてくれ!」

——誰?


「他の何がどうでもいいから、お前だけは生きてくれ。頼むから俺の前で死ぬな!死なないでくれ!」

肩を掴まれる。頰を叩かれる。痛い。冷たい。誰?折角眠ろうとしていたのに起こすのは誰なの?私は眠りたいのに。でも起こされてしまった。軽い苛立ちと共に息を吐いて吸う。

そんなこと言われても困ります」

そう答えて掴まれた肩を振り払おうと身体を揺らしたら低い呻き声が上がった。そちらに目を向けたら、コシロ兄が指を押さえていた。

「え、殿?」


「目覚めたか」

問われ、はいと答える。と、コシロ兄はその場にへたり込んだ。

「殿、どうかされたのですか?お怪我でも?」

でもコシロ兄はそれには答えず、ヒメコの上に覆い被さってきた。頰にぶつかる冷えた着物の感触。

「生きてるな?」

何故そんなことを聞かれるのだろう?

「はい」

ホゥという溜め息と共に強く抱き締められる。

「良かった」

耳元で囁かれる低い声と熱い吐息。筋ばった首元。丸くてふっくらと厚みのある大きな耳。ああ、コシロ兄だ。コシロ兄の香りだ。不思議とひどく懐かしく感じる。ヒメコはぼんやりしたままその柔らかい心地にたゆたっていた。部屋の中には何人かの気配。やがて、ヒヤリとした物がヒメコの額の上に乗せられた。冷たくて気持ちがいい。

「有難う御座います」

礼を言ったら、見覚えのある顔がヒメコを覗き込んでいた。

「熱が下がるまでは水だけ飲んでじっとしときな。出血はその内に止まるから心配ない。少し重い月のモノが来たと思えばいい。また月のモノが再開すれば次の子を望んで構わないよ」

お産婆さんだった。

「次の子?では、やはりややこは流れてしまったのですね」

ぼんやりしつつ極めて冷静に確認する自分をどこか遠く感じる。ヒメコの問いにお産婆さんは事もなげに頷いた。

「ああ、よくある話さ。子を望む十人に一人は起きること。少し重い月のモノだと気付かずに流れてることもよくあるんだよ。あんたさんは武家の奥方で大事にされてるから、懐妊にも流産にも気付いちまったってだけの話さ。

普通の女なら野良仕事で忙しくて気付きゃしない。あんたさんは恵まれてるんだよ。ま、気付いちまった分、後々の為にと処置をしたから産褥熱が出ちまったんだろうけどね。だが武家の奥方の務めは子を沢山産むことなんだろ?多少の熱くらいは我慢しな。あとはそっちの旦那に感謝するんだね。既に流れた子に付いて死のうとしてたあんたを呼び戻してくれたんだから」

はい、と大人しく頷いて改めてコシロ兄を見上げる。

「御免なさい」

そう紡いだ後に首を横に振る。

「あ、いえ。有難う御座います」

コシロ兄の口元がそっと緩んだ。

「まったく。お前にはハラハラさせられっぱなしだ」

ヒメコはコシロ兄の笑顔を見ながら、先程かけられた声を思い出していた。



「他の何がどうでもいいから、お前だけは生きてくれ。頼むから俺の前で死ぬな!死なないでくれ!」


そうか、自分は死のうとしてたのか。ただ眠ろうとしてただけだと思っていたのに。そう思ってからゾッとする。もし死んでいたら大変なことになっていた。トモはまだ小さい。コシロ兄にも会えなくなってしまう。母や頼時、アサ姫や八幡姫にも。

——ううん、八幡姫は、もう……。


 それにしても、と思う。悲愴な声だった。コシロ兄にはあったんだろうか?誰か大切な人が目の前で亡くなったことが。

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