十二 約束の海
やがてヒメコは熱も下がり、起き上がれるようになった。ややして月のモノも戻る。それから暫くして、やっと元の通りに動けるようになったヒメコは反物を幾らか持ってお産婆さんの元を訪れた。
「ああ、元気そうだね。礼なら要らないよ。おフジさんが来てくれたからね」
言って、とっととヒメコを追い払おうとするお産婆さんにヒメコは慌てて問うた。
「流産はよくあることだと仰いましたが、流れたのは私のせいではないのですか?私が無理をしたせいでは?私がひどく落ち込んでいたから。だから」
取り縋った手がパンと払われる。
「あんた、やっぱり甘いお姫さんだね。そんなに自分を憐れみたいなら自分の屋敷で勝手にやりな。あんたの旦那にも言ったんだけどね。人が無事に産まれて十を超えるってだけで本当は稀なることなんだよ。それをあんたの旦那みたいな武士はあっさり殺し合う。だからあたしは普段は武家の連中は相手にしないんだ。おフジさんの口利きでなきゃ行ってないよ」
厳しい言葉に項垂れる。
「あんた、自分がややこを殺したって悔いるのは大間違いだしとんだ思い上がりだよ。人の生き死には本人が決めてくる。お腹の中に宿る前にその子が約束してきてるのさ。産婆なんてずっとやってるとね、二つ三つくらいの子とよく話すんだ。彼らは口を揃えて言うよ。こう産まれて、こう育てられて、こんな事をやって、いくつくらいでこう死のうって光と約束して来たんだって」
「光?」
「神仏の後光のことだろうね。だから生死はその子と神仏との約束であって、他の何者も関われないこと。宿命だから仕方がない」
ヒメコは眉を顰めた。そこに祖母がいるように感じたのだった。
「あんたね。自分のせいだなんて罰当たりなこと考えてる暇があるんなら、その分他に出来ることを探しな。あんたさんは何故そこに居る?誰と会って何をすべきか本当は知ってるんだろ?早くそれをやりに行きな。ほら、とっとと!」
「え、あ、はい」
勢いに押されて頷いてしまう。
「金輪際その暗い顔を見せに来るんじゃないよ。じゃないと次の子の時には行ってやらないからね」
さっさと出て行け。そう背を押され、ヒメコは歩き出した。外に出てから、次の子の時にはまた取り上げてくれるのだと、励ましてくれたのだとわかってヒメコは振り返って頭を深く下げた。それからその足で由比ヶ浜へと向かう。三の鳥居をくぐると眼前に広がる砂浜。その中程に男性が立っていた。ヒメコの気配を感じたのか、顔を上げてこちらを見る。
「おや、ヒメコではないか」
その人物の顔を確かめてヒメコは驚いた。
「佐殿!」
頼朝が浜辺で波を眺めていた。供もなく一人で佇んでいる姿。正確には少し離れた所で何人か待機しているようだったが、少し距離を置いて邪魔にならぬようにしているらしかった。頼朝はきっと一人になりたくて来たのだろう。
「失礼しました」
頭を下げて元来た道を戻ろうとしたら呼び止められた。
「よい。此方へ来い」
言われた通りに近くへと寄る。頼朝は何かの木片を手にしていた。それを両手で捏ね出す。
——キュキュ、ケキョ、ケキョ。
鳥の囀りに似た美しい音。
「あ。それは、もしや」
見覚え、聴き覚えのある形と音にヒメコの記憶が蘇る。走湯権現に隠れている時に鳴らして遊んだ玩具だ。笑顔の八幡姫と五郎。そして気丈に振る舞っていたアサ姫の横顔。頼朝は気付いたようにヒメコを見た。
「ああ、そうだったな。ヒメコはアサと八幡と共にいてくれたのだった。これは姫の文箱の中にあったのだ。今朝方アサが鳥を呼ぶ笛だと教えてくれた。石橋山の合戦の折、隠れている時に藤原邦通が作ってくれたのだと。海が近くて風がとても心地良かったらしいな」
その時、頼朝の陰からひょこりと誰かが顔を出した。
「そうですよ。あの後に秋戸の浜辺で皆で凧を作って海風に乗せた。とても楽しかった」
明るい声。目に鮮やかな空色の直垂がよく似合う背の高い美丈夫。よくよく見れば、北条五郎時連だった。
「まぁ。五郎君!あ、いえ、時連殿。ごめんなさい」
咄嗟に昔の呼び名で呼んでしまい、 慌てて謝るヒメコに時連は変わらずの端正な笑顔で艶やかに微笑んで言った。
「五郎でいいよ。俺も今は姫姉ちゃんって呼ぶから。ね?」
元服して立派な武人になって、今ではヒメコを遠く見下ろすくらいになっているのに、その気配は相変わらず華やかで人好きがする。
「ああ、あの時は五郎も付き添ってくれたのだったな」
頼朝の言葉に五郎は、そうですよ、と眉を上げて口を尖らせるような仕草をしてみせた。
「女達を守れって。まだ六つくらいだった俺に無茶を言ってくれたんですから」
「そうか。もうあれからもう十数年も経つのか。時が流れるのは早いものだな」
溜め息を吐いた頼朝を五郎は笑った。
「何をじじくさいことを仰ってるんですか。そんなのんびりしたこと言ってると八幡が怒って化けて出ますよ。あー、あたし、やっぱり五郎の妻になっておけば良かったわって」
「え?」
思いがけぬ言葉に頼朝とヒメコは驚いて五郎の顔をまじまじと見つめる。五郎は噴き出した。
「何を驚いてるんですか?俺はずっと八幡が好きでしたよ。もし元服の時に俺が八幡を妻に欲しいと望んでいたら俺に娶らせてくれました?」
ポカンと五郎を眺めていた頼朝が怒り出す。
「な、何をふざけておる!そなたと八幡は叔父と姪の関係だぞ!それにそなたはヒメコに横恋慕しておったではないか!」
怒鳴りつけた頼朝に五郎はアハハと笑って頭を掻いた。
「だって姫姉ちゃんは小四郎兄上しか見てないし、八幡はずっと妹みたいなものだったから何とかしてあげたくてさ」
あくまで朗らかな五郎の言葉に頼朝の毒気も抜ける。
「そうだな。姫はそなたといる時は楽しそうだった。姫には鎌倉の海を見に連れてってやると約束していた。だが私は終ぞ連れて行ってやることが出来なかった」
「代わりに俺が連れて来ましたよ。何度も」
茶々を入れる五郎に頼朝は口を曲げる。
「知っておる。だから今日はそなただけ供を許したのだ。八幡の供養をしたくてな」
そう言って、頼朝は改めて立つ白波に目を向けた。
「八幡よ。私は諦めぬからな。何が何でも京に食らいついて、この鎌倉を末永く続く安寧の地として護ってみせるぞ」
遠く沖合いに声をかける頼朝の隣に五郎が並ぶ。
「安寧の地ですか。それは八幡も喜びましょう」
「五郎、ヒメコ。私は近くまた京にゆくぞ。今度は三幡を連れて」
「え、三幡姫?」
その瞬間、頭が痺れ出した。
「だ、駄目です!」
咄嗟に上げてしまった声に頼朝が振り返る。
「ヒメコ、どうした?何が駄目なのだ?」
——いけない。
頭の奥の痺れが徐々に頭の前の方にまで回ってくる。
「あんたさんは何故そこに居る?誰と会って何をするべきか本当は知ってるんだろ?早くそれをやりに行きな」
先程お産婆さんが口にしていた言葉が何故か過ぎる。そして言ってはならぬ言葉をヒメコは口にしてしまった。
「乙姫様は大姫様の身代りですか?」
「姫姉ちゃん!」
頼朝の目が冷たく光る。
「言いたいことがあるなら真っ直ぐに申せ、ヒミカ!」
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