十 姫公消失
源頼朝の一の姫、八幡姫は京の内裏には辿り着かず、見えぬその結界に弾かれるようにして引き返してきた。その魂と魄は引き離され、拠り所を失った心は霧散し、残された身体は儚く崩れ落ちた。折しも暑い時期。その身は鎌倉に戻ることも叶わず、直ぐに荼毘に負され、骨だけが戻ってくる。往きの華やかな上洛の行列が夢のように、暗く重苦しい復りの列。その列は御所には入らず、行き過ぎて勝長寿院へと入って行った。
大姫公の葬儀は勝長寿院にて行なわれ、小さな白い骨壷が納められた。大勢の僧たちによってあげられる経。誰も何も言わず、啜り泣きの声すらあがらぬ、シンと不気味に静まり返った御堂。無理を言って参列したその式の終わり、アサ姫がヒメコを呼び寄せた。
「これは貴女に」
前に押し出された白い布に包まれた物。震える手で中を検める。青みがかった銅の鏡。その下には折り畳まれた紙。紙の半ばに赤い染みが見えた気がしてヒメコは急いで紙を開いた。頼時が描いた源氏の白鳩の絵。その鳩の胸の辺りが僅かに赤色をしていた。でこぼこになった紙のその部分を指でなぞれば、ザラッとした感触と共に紙から零れ落ちる数粒の赤い粒。
「八幡がヒメコから貰った御護りだと言っていたわ。いつもそれを眺めていた。あの日もそれを見つめていて、突然咳込んで水を吐き戻したの」
それで紙が濡れ、水と共に辰砂が吐き出されたのだろう。八幡姫は辰砂を飲んだのか。飲みたくないと言っていたのに。何故飲んだのだろう?
「それから少しして気分が悪いと言って伏せって。そして、そのまま」
そこで言葉は区切られた。アサ姫はその場に蹲って声もなく震えていた。隣に座していた頼朝に促され、阿波局に支えられて奥へと下がっていく。ヒメコは動けずに、ただただ青の銅鏡を見つめ続けた。
光を照り返す鏡面。そこに映るのは真っ白な顔をした女。
——何も出来なかった。
ええ。いつでも飛んで行きますよ。心はいつも姫さまの隣におりますから」
——嘘をついてしまった。
隣に居られなかった。それも一番肝心な時に。
ゴトン。
膝から滑り落ち、床を鳴らす青緑の銅鏡。
——何も出来なかった。何も感じられなかった。呼ばれたら、もし八幡姫が呼びかけてくれたら、自分には分かる筈だ、そう思っていたのに。
八幡姫はこの鏡を覗きながら、自分を思い浮かべてくれただろう。苦しいと、助けてと言っていた筈だ。なのに自分はそれを何も感じることが出来なかった。
鏡面に映る女の顔が一瞬消え、また映り、その輪郭が歪んで形を変えていく。眉が消え、眦が吊り上がり、額から二本の瘤が盛り上がり、角となる。真っ赤な口が大きく横に引き伸ばされ、ガバッと開く。黒い口の奥から覗く大きく尖った歯。
——鬼だ。
鏡の中に鬼が映っていた。その鬼がニィッと嗤ってヒメコに語りかけてくる。
「そうだよ、あんたには何も出来やしないんだ。何が巫女だい。この大嘘付き。本当は視る力も聴く力も持ってやしない癖にさ」
闇の中から漏れ響いてくる声。それにヒメコは耳を貸してしまった。
——そうだ。私には視る力も聴く力もない。なのに今まで何を勘違いしていたのだろう?自分は特別だと、天が味方してくれると思い上がって巫女のようになりきっていた。なんて浅はかで浅ましい女。そうやって今までどれだけの人を騙してきたのか。どれだけの人を傷付けてきたのか。一体いつから?何処から?佐殿の挙兵から?それとももっと前、伊豆に行った時から?いいえ、違う。八重姫に会った時からだ。
『諦めよ』
幼いヒミカの口を突いて出た言葉。あの言葉を聞いた瞬間の佐殿と八重姫の顔を思い出す。虚をつかれたような顔。それが直ぐに改まり、二人は覚悟を決めたようにヒミカを見返して高らかに宣言したのだった。
「諦めない」
やがて、二人の間に生まれた男児、千鶴丸は三つになった時に八重姫の父によって水に沈められて殺された。あそこでヒミカが別の言い方をしていたら二人の運命も千鶴丸の運命も変わっていたかもしれない。
——もしや
自分に憑いているのは、妖魔だったのではないか?天の声だと信じていたのは全て違っていたのではないか。自分が感じた気配は全て別の何モノかからの惑いだったのではないか?
——どうしよう。どう償えばいいのか。
その時、頼朝の背中が見えた。その背に忍び寄る薄暗い陰。灰色のそれはヒメコを振り返り、そっとほくそ笑むように目を細めた気がした。
——これも幻覚。
辺りに漂う線香の香りが鼻につく。耳障りな読経の声。バタバタと屋根を叩く音。これは雨の音?いいえ、違う。これは百鬼が可笑しげに屋根に石をぶつけている音。
ヒメコは立ち上がれなくなった。痺れる手足。震えるそれらを懸命に叱咤し、動かそうとする。でも固まったまま動かない脚をヒメコは左の腕で思い切り叩いた。
バキッ!
派手な音がして読経の声が止む。ヒメコの足はそのままに、その下の床板が割れた。同時にヒメコは意識を失った。
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