五 きのこ騒動
「あら、姫御前。鎌倉に帰っていたの?」
御所の広間。アサ姫の声に顔を上げれば、その傍らに先の女性が腰を下ろしていた。しどけなく横座りしてアサ姫にもたれかかっている。
「あの、御台さま。そちらの方は?」
ヒメコが問うたらアサ姫は、ああと気怠げに答えて、その女性の肩に手を回した。
「こちらは比礼御前。近頃召し抱えた巫女よ」
「ヒレゴゼン?」
「ええ、そう。比礼を纏ってるから比礼御前と殿が名付けたの」
言ってアサ姫は突然けたたましく笑い出した。
「あらまぁ、ヒメゴゼンにヒレゴゼンだなんて、まるで姉妹のようね。でも二人とも比企の縁者。当たり前と言えばそうかしら?でもちっとも似てないわね」
そう言ってまた高らかに笑う。その目はどこか虚ろで落ち着きなく彷徨っていた。
—本当だ。普段の御台さまとは明らかな別人になっている。
ヒメコは懸命に心を落ち着かせながらアサ姫に向かった。
何故、今頃になって巫女を?」
「将軍様の歯痛を治す為ですわ。私でもお役に立てるのならと、比企より上がって参りましたの」
答えたのは、紅い袴の比礼御前だった。
「比企より?」
「ええ、私は比企能員の養女ですから」
そう言って、彼女は薄い桃色の比礼を胸元で合わせてニッと嗤った。
——比企能員。
その名を聞くと近頃は憤りしか覚えない。そんな自分に気付き、言いようのない悔しさにクッと唇を噛み締める。
ヒメコは横に置いていた包みに手を伸ばし、膝の上に乗せるとアサ姫に対して頭を下げた。
「土産にと伊豆の山葵を持参いたしました。早速ご用意させていただきます」
言うなり返事も待たずに立ち上がり、広間を後にして炊事場へと向かう。強くなるあのキノコの臭い。火にかけられた大鍋に目を送り、ヒメコは土間へと下りると木履(下駄)を爪先に引っ掛けて蹴り上げた。
——ガチャン!ジュジューッ!
ひっくり返る大鍋と消える火。悲鳴が上がった。
「何をするのよ!」
「ごめんなさい。ついうっかり引っ掛けてしまいました」
無論わざとだが、一応謝って見せる。と、側にいた女がヒメコに掴みかかってきた。
「あんた、ごめんなさいで済むわけないだろ。何てことしてくれたんだよ!もうこれが最後だと大事に使えと言われてたのに比礼御前様に何て申し開きすりゃいいんだい。あんたが殺されちまいな!」
酷く乱暴な女の声と共に、ヒメコは髪を掴まれて引き摺り倒された。
「ああ、ああ!折角のキノコが。ああっ!」
女はヒメコの目の前で土間に溢れ散らばったキノコを拾い集め、汚れも気にせず、そのままガツガツと貪り喰っていく。
「あ!あんた狡いよ!抜け駆けは許さないって言ってた癖に!」
別の女が割って入ってきて先の女の髪を掴んで後ろにひっくり返し、代わって地を舐めるようにしてキノコを探して食んでいく。その光景は地獄絵図のようだった。
——この人達、皆おかしくなってる。
一人の女がヒメコを指差した。
「あんたのせいだ」
その言葉が炊事場に広がった瞬間、土間に四つ這いになってキノコを貪り喰っていた女たちは一斉に土間から身を起こし、ヒメコへと向き直った。
「あんたのせいだ」
一人の言葉が他の誰かにうつり、輪唱のように重なり、土間の壁に反響してヒメコにぶつかってくる。その時、高らかな声が命じた。
「そうよ、その女のせいよ。その女を縊り殺しておしまい!」
目の端に映る白と紅の影。
「縊り殺せ」
「縊り殺せ」
「縊り殺せ」
呪文のように重なる声。ビリビリと肌を刺してくる凄まじいばかりの殺気。周りから首に向かって伸びてくる腕、腕、腕。ヒメコは襟首を掴まれ、土間の隅にあった大きな水甕にぶち当てられた。
その時、何かが打たれる音が複数続いて、掴まれていた襟が、髪の毛が解放される。続いて張りのある声が肚に響いた。
「鎮まれ!貴様ら、自分が何をしているか分かっているのか?」
声と共にヒメコは腕を引き上げられる。振り仰げばコシロ兄だった。
「御所内での刃傷沙汰は重罪。縊り殺すなど言語道断!女とて容赦せぬぞ」
それは今までヒメコは耳にしたことのないコシロ兄の声だった。脅しではないことが知れる。女達は一瞬怯んだものの、まるで操られているようにまたヒメコに向かって来ようとした。コシロ兄が腰の刀に手を伸ばすのが見える。咄嗟にヒメコは右手を伸ばし、コシロ兄のその手を抑えると、水甕に左手を伸ばした。口の部分を掴んで持ち上げようとするが、その口は甕の重さに耐えかね、バリッと大きく割れた。その破片を掴んで水を汲み上げると、ヒメコは女達に次々と水を浴びせかけていった。上がる悲鳴。それでもまだ向かってくる手。ヒメコは水甕を抱え上げると、炊事場中に水を振り撒いて叫んだ。
「正気に戻りなさい!」
——ザバァ!!
空になった水甕を床に置いた時、警護の者らが炊事場の中に飛び込んできた。
「一体何事だ!」
それに答えてくれたのはコシロ兄だった。
「下女達の気が狂ったようだ。薬物が投入されていた疑いが高い。彼女らが暴れないように縛りあげ、どこかに閉じ込めろ。後で取り調べる。また、この鍋の中の物を食した者が他にいないか調べねばならん。これら女達の中で、まともに口が聞けそうな者が一人でもあれば、その者だけを問注所まで連れて来てくれ」
てきぱきと出される指示に、ヒメコの頭がやっと動き出す。顔を上げた。惨憺たる有様の炊事場。でもキノコの臭いは大分薄まってきていた。でも気付く。比礼御前の姿がない。何処へ行ったのか。ヒメコの視界の中で女たちは警護の者らに引っ立てられ、連れて行かれようとしていた。彼女たちは皆揃って頭から水を垂らしながら、ぼんやりと生気を無くして促されるままに動いている。先程凄まじいまでに発していた殺気は綺麗に消えていた。彼女たちはきっと時が経てば落ち着いてくるだろう。その後にゆっくり解毒すればいい。それより早くアサ姫を正気に戻さねばならない。そして佐殿も。
ヒメコは催事場に背を向け、広間に向かって歩き出した。ズルズル。ビチャビチャ。身体が重たい。制止の声がかけられたけれど、足を留めずにず歩き続ける。右手で戸を開き、中へと入る。足を踏み入れた途端、悲鳴が上がった。続いて誰かが駆け寄ってくる気配。その気配はヒメコの前で止まった。
「ヒメコ!その左手はどうしたの!」
言われて、自分の左腕に目を落とす。床を浸す赤い水溜まり。掌がジクジクと痛い気がする。それに肩に力が入らない。
——ああ、いつものだ。力を使い過ぎた時に意識を失ってしまうアレ。
「ヒメコ!どうしたの!」
アサ姫の声だ。いつものアサ姫の。
——良かった。気をこちらに向けられた。ヒメコは右手でアサ姫の手を握った。乾いた温かい手。
「汁に毒が入れられてました。解毒させてください」
しっかとアサ姫の目を見つめて言う。アサ姫は目を泳がせた。
「毒?」
そして続ける。
「まさか。でも、そうね。そうなのね」
その言葉を聞いて、なんとなく知る。アサ姫は薄々とは気付いていたのだ。それでも断てなかったのか。この強いアサ姫が。それ程に魅力的なキノコだったのか。
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