四 二人目の巫女
朝、ヒメコが目覚めたら、既にコシロ兄は出掛けていなかった。
「おはようございます」
明るい声に振り返れば頼時とトモが笑顔で並んでいた。
「庭で相撲をとっていました」
「あにうえからいっぽんとったんだよ」
得意げに胸を仰け反らせるトモ。その横をタンポがすり抜けようとするのを素早く足で挟み、馬乗りになるとトモは満面の笑みで言った。
「早くちちうえ帰ってこないかなぁ。今日は馬の乗り方を教えて貰うんだ」
トモのあどけない笑顔に応えつつ、そっと頼時に近付いたら、その気配を察したらしい頼時が静かに隣の部屋へと移ってくれたので、それを追う。鎌倉に何があったのかと聞こうとするより早く、頼時が口を開いた。
「母上、少しお尋ねしたいのですが、巫女とは常に赤い袴で昼夜なく将軍のお側に仕えるものなのしょうか?」
思ってもみなかった質問にヒメコは戸惑う。過去のことを思い出しながらゆっくりと答える。
「いえ。私は源氏の巫女となれと言われたので、出陣の時や戦に関わる大事な神事の場では緋袴もつけましたが、普段は他の女官と同じ格好をしていました。また、将軍の食事に毒が疑われた時には毎食事に付き添うこともありましたが、常に将軍のお側にいたわけではありません。巫女は本来は神社にて神にお仕えし、神職の手伝いをするもの。奥州征討が終わり、戦が無くなった時点で、将軍様に巫女はもう要らぬと言われ、私はただの女官に戻りました」
そう答えたら、頼時はうーんと少しばかり考えるような仕草をした。
「実は少し前から御所内に巫女の姿を見かけるようになったのですが、それが私にはどうも不審に思えて、母上は以前、巫女でいらしたからお話をお聞きしたかったのです」
—巫女?
もしや、将軍様はまたお命を狙われているのでしょうか?それで毒味や邪気祓いの為に巫女をお召しということなのかしら?」
「いえ、毒味はその役の者が別にいますし、邪気払祓いも陰陽師や祈祷師がいるので、何故、巫女をお召しなのかがわからないのです。ただ私が聞いた話では、その巫女は将軍様がずっとお悩みだった歯痛の病をたちどころに消してみせたので、将軍様はそれ以来その巫女を常に側に置いているとか」
「常に側に?でも御台さまは?」
「御台さまの頭痛を治し、大姫様の食欲も取り戻すという稀なる働きをしたとかで、御台さまもいたくその巫女を気に入られたらしく、誰も何も咎めないのです」
ヒメコは頷いて見せつつ、どこか歯切れの悪い頼時の言葉から、鎌倉に着いた時からの微かな違和感が形になっていくのを感じていた。
「私は明日、殿と共に御台さまにご挨拶に伺うつもりです。大姫様の食欲が戻られたのなら大姫様にもお会い出来ましょう。それとなく将軍様のご様子も窺ってきますね」
そして翌日、土産の伊豆の山葵を手に、コシロ兄と共に参内する。が、御所に上がろうとした時、ふと何かの香りが他のものの匂いに紛れて飛び込んで来た。咄嗟にコシロ兄の腕を引く。
「御所で出されたものには一切手を付けないで下さいませ」
コシロ兄は一瞬目を見開いてヒメコを見たが、口は開かずに頷くようにして目を下ろしてくれた。
御所内から漂う甘いお香の匂い。コシロ兄から昨日香ったのはこの香りだったと気付く。着物に滲みる程に濃く焚かれた薫り。でもその甘い匂いの中に、ほんの微かに混じる遠い記憶の中の匂い。幼かった頃に祖母とした会話が蘇る。
「ヒミカ、この香りを覚えておおき。あるキノコの臭いさ。強烈だろう?食してみると美味いんだが、何せこの臭いだ。そして毒性が強い。と言ってもこの毒はすぐに人を死に至らしめるような毒ではない。人の感覚を鈍らせ、夢を見せる、ある意味では毒より危険なキノコさ。この臭いがしたら、その場から去りな。そのことを知らずに食している人たちは普段のその人たちとは別人になってるからね。幻を見たり聞いたりしてるから、迂闊に近付くと、思いもよらない害を被るよ」
そう言って祖母が嗅がせてくれたそのキノコの酷い臭い。今、御所の中から漂ってくるその臭いは、勿論それ程強烈なものではない。でも確かに混じっている。
—何故、このキノコの臭いが御所から?
その時、奥へと続く戸が開かれて一人の女性が現れた。白の上衣に目に鮮やかな真紅の緋袴。長い艶やかな黒髪は束ねられずに白の上衣の上を流れ、その豊かな胸を飾り、緋袴の上にまで垂れている。でもそれより何より、彼女が上衣の下に単を着ていないことにヒメコは息を呑んだ。その上、帯も締めておらず、緋袴の紐で巻いているだけ。上衣の袷から覗く白く豊かな胸元。失礼とは思いつつ、その露わな白い胸から目を離せずにヒメコは呆然と立ち尽くした。その女性はそんなヒメコを可笑しそうに眺めていたが、不意に真っ赤な唇をパッと開いて肩を竦めて見せた。
「あら、江間殿。今日は将軍様はご機嫌があまり宜しくないので、誰も通すなとお籠りになりましたのよ。侍所にてお待ちなさいませ」
高飛車な物言いにコシロ兄を仰ぎ見ると、コシロ兄は眉も動かさずヒメコの腕を取って御所へと上がり、彼女の横を通り抜けた。
「本日は姉上に挨拶に来たまで。失礼する」
ズンズン進むコシロ兄の後を懸命に追う。
「う」
あの臭いがきつくなり、ヒメコは袖で鼻を覆った。祖母は逃げろと言ったが、逃げるわけにはいかない。御所内に濛々と薫かれている香は、このキノコの臭いを消す為なのだろう。でも、一体いつから?
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