六 歯痛


「おや、久しいの。何やら大変だったようだな」


数日後、炊事場の女達の様子を伺いに問注所へと向かったヒメコの前に飄々とした顔で声をかけてきたのは、中原兄弟の兄、親能——山伏の方だった。

「大変だったというか、まだ大変なのですが。一体どこにいらしたのですか?

つい咎めの口調になってしまう。そうだ、この山伏殿が鎌倉にいてくれたら、こんなことにはなってなかった筈なのに。でもそれを言ったら自分もそうだった。子育てや江間行きなどで鎌倉から目が離れたのは確かなこと。

「悪いな。京にずっといた。あっちはもっと大変だったもんでな」

「中宮様と女御様に皇女と皇子がお生まれになったことは聞きました」

すると親能は、いいやと首を横に振った。

「中宮は既に宮中から追い出され、九条の関白殿は失脚させられ、京はいまや源通親殿の思いのままになってしまっている」

「源通親殿?」

「土御門殿とも言われているがな。村上源氏の血筋で藤原の出ではないから、自らが摂関の地位に就くことは遠慮したようだが、息のかかったものを配置して、自らの娘の産んだ皇子を東宮にして、ゆくゆくは帝にと狙っているのがありありと見える、かなりの野心家だ。後ろに丹後局がついてるからな。近く、ヤツの思う通りになってしまうだろう。大姫の入内は危ういぞ」

「丹後局」

何度も聞いたその名前。そして何故か村上源氏という言葉もヒメコの中に引っかかって残った。

「それで?御台さまは戻せたんだな?」

問われ、ヒメコは頷いた。

「はい。水を大量に飲んでいただき、また炭も細かく砕き、粉にして黒い薬湯として、日に何何度か飲んでいただきました所、殆ど抜けたようで落ち着かれました」

「大姫様、乙姫様は?」

「お二人は汁物の臭いが嫌いだと召し上がられなかったそうで、ご無事でした」

「そうか、それは良かった」

親能が傍目にも分かるくらいに安堵した顔を見せたのでヒメコも共にホッとする。親能は三幡姫の乳母夫だ。ヒメコが大姫を心配するように親能は乙姫を心配しているのだろう。

「しかし、大姫は食欲が増したのだろう?その怪しいキノコのせいではなかったのか?」

「ええ。姫さま方があまりにキノコ汁を嫌がるので、御台さまが『きちんと食事をを取るのなら、この汁を勘弁してあげますよ』と仰ったそうで、その汁を飲まされるくらいなら、といつもの倍くらい召し上がられたそうです」


「成る程そういうことか。大姫は敏い所があるゆえ、毒だと嗅ぎ分けたのかと思ったのだが、そういうわけではないんだな」

ヒメコは頷いた。

「ならば残る問題は、あの人だけだな」

——あの人。頼朝だ。


「やはり私は、いい加減に抜歯を断行すべきかと思いますが」

 ヒメコが言ったら、親能は頷いた。

「だよな。前々から皆でそう言ってるのだが、絶対に嫌だと駄々を捏ねるばかりでどうしようもないのだ」

その遣り取りはヒメコもしている。過去に何度かヒメコは楊枝で頼朝の歯の治療をした。

「これで痛みが治まる時もありますが、次にひどく痛んだ時には抜歯をした方が良いですよ。でないと歯を傷めている毒が身体中を蝕んでしまい、命を取られることも多々あるのですからね」

そう脅したのだが、忙しいとか時間がないとか言って逃げ回っていた。

「塩でのうがいと、固めの食物をよく噛んで口の中でドロドロにしてから呑み込むことを習慣づけていれば、唾液が歯を守ってくれて歯を抜かずに保つことが出来ます。どうか、それらとうがいだけはお願いしますね」

せめても、と、祖母から教えられたことを繰り返し伝えてもきたが、これまた忙しいを理由に柔らかい食べ物を丸呑みしていた。だから、いずれ抜歯せねばならないだろうと考えていた。


「しかし抜歯はかなり痛いらしいからな。同意するかどうか」

親能はそう言ったが、京から呼び寄せた歯の名医も治すことが出来ずに戻っていったのだ。時が経つほど状況は悪くなるだろう。痛みを麻痺させるキノコに依存するまでになってしまったのだから。

「とにかく一度お顔を見て参ります。その様子によって、御台さまにご相談いたしましょう」

ああ、宜しく。そう軽やかに答えた親能が、あ、とヒメコを引き留めた。

「くれぐれも真正直にあのキノコは毒だと言うなよ。昔より更に頭が固く頑固になってる上に近頃は歯の痛みばかり気にして他のことに気が回っていないからな。京の情勢はそれどころではないというのに。だから鎮痛作用のあるあのキノコをおいそれと手放す筈がない。頑固にさせずに、しれっと抜歯の許しだけ貰おう」

 ヒメコは頷いて歩き出した。

——でも、あのキノコはどうしたって危険過ぎる。どうにかして全て回収することは出来ないだろうか?


そう頭を悩ませながら小御所の中の頼朝の居室に向かう。

「将軍様、ヒメコにございます。ご無沙汰しておりました」

声をかけて部屋に入る。と、先客がいた。比礼御前だった。

「おや、ヒメコ。江間に下がったと聞いていたが、鎌倉に戻っていたのか」

はい、と頭を下げてから人払いを求めようとしたら、頼朝は先んじて

「これは比礼御前という。今は私の身体の具合を診て貰ったり食事の毒味をしたりしてくれている。構わぬから用件を話せ」

そう言って、頼朝は比礼御前の膝の上に頭を乗せ、口を開いた。比礼御前は慣れた様子で楊枝を摘んで、その口の中を覗き込む。豊かな胸が頼朝の頭の上に覆い被さっている。頼朝はすっかりご機嫌な様子で比礼御前の腰に手を回している。ヒメコが歯を見た時にはあんなことしたことはない。ヒメコは呆れた。

——どうせ、私の胸は貧弱ですよ。

出産前後に身体が丸くなった時には、それなりに嵩が増えたが、落ち着いたと同時に元通りになってしまった。コシロ兄は何も言わないけれど、男性はやはりあのような豊満な胸に惹かれるものなのだろうとは思う。

——でも。

そう思った時、戸がパァンと大きく開かれた。

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