三 縁の糸

「姫さまが入内?」

問い返したヒメコにアサ姫は頷いた。

「ええ。今、殿の頭の中はそれでいっぱい。私の此度の参詣もそうだったし、各地の寺社を修繕させて参拝を繰り返しているのもそう。来年の上洛は表向きは東大寺の落慶法要としているけれど、本当は違うわ。亡き後白河の法王の寵姫で、今上帝を即位させた、当代の楊貴妃と言われている丹後局という女性に話をつける為よ。沢山の贈り物を渡して入内を強行するつもりでいるのよ。既に帝には何人か妃がいるというのに」

そう一息に話して、アサ姫は深い溜め息をついた。

「その事、大姫様には?」

アサ姫は首を横に振った。

「具合が良くなったと思うと悪くなり、ここずっと落ち着かないの。こんな話、出来やしないわ」

それからヒメコににじり寄り、耳元で囁く。

「姫には、他に誰か想う人があるのではないかしら?ヒメコ、貴女はどう思う?」

ヒメコは黙ってアサ姫を見た。以前に、阿波局もそのようなことを言っていた。義高殿に恋煩いをしていると。でもヒメコはどうも腑に落ちなかった。義高殿とはあの時に夢で逢えたのだ。その後は暫く八幡姫の状態も落ち着いていた。姫が義高殿を想う気持ちに変わりはないと思うけれど、義高殿を慕う余りの恋煩いで憔悴しているとはヒメコには思えなかった。じっとアサ姫を見つめる。アサ姫も恐らくそれは勘付いている。でも、きっとどうしようもないのだ。自分のことはどうにか出来ても子どものことはどうにもしようがない。それに八幡姫は将軍家の姫なのだ。立場的に認められない相手もきっと多い筈。皆、迷っているのではないだろうか?ヒメコは自分が結婚する前に祖母に言われたことを思い出していた。


—自分で決めた相手なら辛くても歯を食い縛って耐えるだろう。


そうだ。周りがどう考えて動こうと最終的に責任を取ることになるのは自身。八幡姫自身が決めなくてはどうにもならない。ヒメコは顔を上げた。

「差し出がましいようですが、私は全て姫さまにお話しされるべきかと思います。姫さまご自身が動かねば御台さまが動く訳にもいかないでしょうし、入内とて同じ。姫さまが強く拒絶なさるなら、将軍様も無理には進められぬ話と思います。今、御台さまが、また将軍様がどのようにお考えで、姫さまにどうあって欲しいか、それを忌憚なくお話しした上で姫さまのお心を確かめるのが良いかと思います」

アサ姫は頷いた。

「そうね。そうよね。御免なさい。周りが気を揉んでも仕方がないことだわよね。代わりに結婚する訳にはいかないのだから」

そう言ってアサ姫は御所へと帰って行った。ヒメコは付いて行きたかったが堪えた。幼くして婿を取った八幡姫。そこに姫の意思などなかった。子の意志よりも、戦況や地位の関係調整の方が遥かに優先で、先ずそれが成り立った上での子の存在だった。でも、それでも八幡姫は義高殿と心を通わせ、そして姫は深く傷付いた。でも、それでも姫には義高殿と出逢ったことを恨む気持ちはないだろう。出逢いも別れも全て、今の八幡姫を形作る大切な過程の一つ。八幡姫は与えられた運命を素直に受け入れ、その上で懸命に生きているのだ。でも、ほんの少しあの時の義仲殿の歩む道が違っていたら、二人の関係は今とはまるで違っていたかも知れない。そう考えるとヒメコがコシロ兄と添えたのも幸運なことだったのだと改めて思う。比企と北条という、将軍家を後見する微妙に似た家柄で、頼朝の一声があってやっと叶ったこと。もしほんの少しでも機がずれていたら結婚に到らなかった可能性もあった。もしそうなっていたら、今の自分はどうなっていたのだろう?少なくともトモは生まれていなかった筈。そう思い至った途端に悪寒が走り、思わずヒメコは自分の腕を抱いた。でも、それもまた、きっとよくあることなのだ。周りの都合で嫁し、離縁され、また再嫁させられる。誰かの野心と周囲の力の均衡次第で、人一人の生きる道などどうにでも変わってしまう。


——一緒に居られる時なんて、思うより短いのよ。


 甦る八幡姫の言葉に心が冷える。

 夜、屋敷に戻ったコシロ兄が荷を纏めながら言った。

「明日より少しの間、伊豆の北条へ行ってくる。父が建てた願成就院の修繕が必要になった」

淡々と告げて、荷に向かうコシロ兄の袖をヒメコはそっと掴んだ。

「あの、どうぞお気を付けて。ご無事でお戻り下さい」

コシロ兄が振り返る。

「どうかしたのか?いつもの慣れた道だ。修繕が済み次第すぐに戻るが」

「はい」

ヒメコは微笑んで頷いた。だが心の内が漏れてしまっていたのだろう。コシロ兄は僅か困ったような顔をした。手が伸びてきて頬に添えられる。

「そんな顔をするな。置いて行きたくなくなる」

「あ、ごめんなさい」

顔を上げたヒメコの唇にコシロ兄のそれが重なる。

「もし何かあれば、迷わず尾藤の太郎を寄越せ。直ぐに戻る」

「はい」

その夜、コシロ兄の熱に包まれながら、ヒメコは目を閉じた。


今この瞬間。一緒に居られる時を大切にしなければ。ヒメコはそう強く思ってから目を開ける。

—しなければ、何?


真っ白な布にポツンと跳ねてしまった墨のように小さく染みつく不安にヒメコはコシロ兄にしがみ付いた。

—足りない。もっと側に。ずっと共にいたいのに。

でもそれは我儘だ。幼稚で、貪欲で不遜な醜い我欲でしかないのだ。こんなに愛されて幸せなのに。ヒメコはそっと息を詰めて唇を結ぶと口の端をもたげて目尻を下げて見せた。

「修繕が恙無く早くに済みますよう。お祈りしながらお待ちしてます」

コシロ兄はホッとしたように口元を緩め、ああと低い声で返事をするとヒメコの隣に伏して眠りについた。安らぐコシロ兄の横顔を見つめながら今隣に居られる幸せを稀な事と感じる。縁とはままならぬ不思議なもの。自分の力だけではどうにもならず、でも、ただじっとしているだけでは望むものに近付けない。動くと埃が舞うように浮き上がる縁の糸。でも見えたと思っても、すぐ掴まなければ、僅かに見えかけた糸の端は急流に呑み込まれ、淀みに沈んで手繰り寄せる事すら出来なくなってしまう。

—だから、やはり動くしかないのだ。自分の道を掴むまで。


翌日、ヒメコは小御所へと向かった。

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