四 身代わり
「あら、姫御前。お久しぶり。急な参内、どうしたの?」
阿波局に迎えられ、大姫様の見舞いに来た旨を告げる。と、阿波局は少し曖昧な顔をした。
「お具合があまり宜しくないのでしょうか?出直しましょうか」
戻ろうとしたら手を引っ張られる。
「いいえ、ちょうど良い所にいらしたわ。はい、これに着替えて」
手渡されたのは女官服。ヒメコはよく分からないまま、言われた通りに着替える。
「今、小御所に一条高能殿がご滞在されているの」
「一条高能殿?」
「ええ、将軍様の同母妹、坊門姫のお産みになった一条家のご嫡男。つまり将軍様の甥っ子ね。大姫さま、乙姫さまからはお従兄弟にあたるわ」
へぇ、と相槌を打つ。
「大姫様の婿君にどうかと御台さまが打診されてるのよ」
「え?」
「お年は大姫様の二つ上。年回りも丁度良いし、位も右武衛と高くて申し分ない。私はチラとお顔を覗き見したのだけれど、さすがは将軍様の甥っ子。昔の佐殿に少し似てらして、なかなかの好男子よ。いいお話だと思うのだけど、大姫様がどうお思いになるかが、ねぇ。皆、それで気を揉んでいた所なの。本当に良い所にいらしたわ」
良い所と言われても、どうしろというのだろう?確かに八幡姫と話をしようと思って訪れたものの、アサ姫が既に動いていたとは思わなかった。アサ姫は頼朝も認めざるを得ない相手に八幡姫を嫁がせて、どうにか入内を阻止したいのだろう。
「大姫様のお具合は?」
「少し前はお悪かったのだけれど回復されて沐浴もされたわ。その後少しお疲れになったようで、今は休まれていらつしゃるようだけれど」
ヒメコはまず挨拶をするべく小御所へと向かった。
「まぁ、姫御前?珍しいわね。お子はどうしたの?」
意外に元気そうな声の八幡姫に迎えられ、中へと足を入れる。部屋の中は香が焚かれ、雅な雰囲気だった。その中で、八幡姫は床の上に起き上がっていた。その隣にアサ姫が腰を下ろしている。
「御免なさいね、こんな格好で」
そう言って、八幡姫はコホンと軽く咳払いをしたが、その目は案外としっかりしていた。アサ姫がヒメコを見て、ホッとしたように微笑む。
「姫御前、来てくれたのね。ありがとう」
と、戸の外から声がかけられる。アサ姫はそちらに返事をすると、ヒメコを手招きした。
「姫御前、来てくれて早々に悪いのだけれど、少しの間、姫の側にいて貰っていい?」
そう言って立ち上がるアサ姫にヒメコは返事をして八幡姫の側へと進んだ。八幡姫はアサ姫が出て行くのを確認すると、上掛けをサッと取り払い、しっかりした動きでその場に座り直して溜息をついた。
「はぁ、やれやれ」
「あの、大姫様、もしや」
その顔を覗き込む。と、八幡姫はペロッと舌を出した。やはり仮病だったようだ。
「姫さまったら」
呆れる。
「御台さまも将軍様も鎌倉中が心配しておりましたのに」
小言を続けようとしたが、八幡姫の掌に口を塞がれた。
「母上は私を京の一条殿と娶せるつもりよ。そして父上は私を帝の妃にするつもり。でもどちらもひどくおかしなことだと思わない?東国の田舎の武士の娘がどうして京に行って、雅な姫君のフリをしなくてはいけないの?」
ヒメコは八幡姫の手を外して、その手を両手で包む。
「姫さま。将軍様、御台さまとは何かお話をされましたか?」
「母上とは少しだけ話をしたわ。父上とはしてない」
「なら、どうして入内のことを?」
「女官達の噂話はよく耳に届いてくるもの」
「でも具合の悪いフリはそろそろ難しいのでは?」
八幡姫は、ジロリとヒメコを睨んだ。ヒメコはその目を真っ直ぐ見返す。そう、きっとアサ姫は気付いている。母親なのだ。気付かないわけがない。
「どなたか想う方がいらっしゃるなら、御台さまにそうお話しされたらどうでしょうか」
途端、八幡姫は顔を横に背けた。
「話してどうするの?その人に私と結婚するように強制させるの?そんな人の心を操るようなこと、私は絶対に嫌。それに今更母上がなんと言おうと、父上が許す筈ないわ。だって」
そこで八幡姫の声が途切れる。八幡姫はそっと駆けて行って部屋の外の気配を窺っていた。ヒメコはそんな八幡姫を背に、畳んだ膝の上に手を乗せて考えを巡らせる。
やはり、八幡姫は義高殿でない誰かを想っていた。でも、姫の言う通りだ。御台さまの力を持って相手の心を動かすなど、そんなこと八幡姫が望む筈がない。また、将軍が八幡姫の入内を希望して準備しているということは、既に幕府の文官らが京と折衝を開始しているということ。余程のことがない限り、話は覆らない。でも、このままでは……。
「一条様とはお話をされました?」
問うたら、八幡姫は頷いた。抑揚のない声で答える。
「悪い方ではないと思うわ。お幸せになって欲しいわね。私以外のどなたかと」
「でも、姫さまはどうなさるおつもりですか?いつまでもこのままでは」
——いられない。時が経てば経つ程、入内の話は進む。それは八幡姫も分かっている筈。グッと歯を噛みしめた八幡姫が真っ直ぐ顔を上げる。
「そうよ。どうにもならないわ。でも私はここにいたい。鎌倉に居たいの。どこにも行きたくない。ここを離れたくない。見ているだけで良かったのに、どうしてそれすら許されないのよ。ああ、今この瞬間、義高様があの世からお迎えに来てくださればいいのに。入内なんて嫌。他の誰かに嫁ぐのも嫌。嫌よ、嫌!私、もう死んでしまいたい!」
八幡姫は泣き出した。ヒメコは暫し八幡姫の手を握ったまま黙して座っていた。白く細い指。幼い頃はもう少しぷっくりとしていたのに。ぎゅっと胸が締め付けられる。でもヒメコは口を一度引き結んだ後に笑って見せた。
「どうしたんです?そんな弱音を吐くなんて、姫さまらしくもない。どうせ人は皆、いずれ死ぬのです。慌てなくて平気ですよ。でも、そうですね。どうせ皆死ぬのですから、折角なら死んだつもりで夢を見てらっしゃれば良いのでは?」
そう言って、八幡姫の手を強く握り、自分の胸元に寄せる。
「姫さまが想うお相手に夢を見せるのです」
「夢を見せる?」
「ええ」
頷いてヒメコは胸元から袋を取り出した。中から一片の木片を取り出し手渡す。
「一夜の夢です。朝になったら露と消える夢。香りが消えて姫さまの命が尽きる前に小御所へお戻り下さいね。それまで私がここで身代わりになって伏しておりますから」
「身代わり」
八幡姫はそう繰り返した後、くしゃっと顔を歪めた。
「ええ、そうです。身代わりです。さ、侍女の格好で御所をお出になり、江間の屋敷前で待つ馬に乗って行かれませ」
「私は赦して貰えるかしら?」
—赦して貰う。それは誰に?
とは聞かずに八幡姫の手を引っ張りあげ、着ていた女官服を脱ぐと八幡姫に着せ、被ってきた笠をその上に被せる。
「ええ。赦して下さいますよ。だって、皆々、姫さまのことが大好きなのですから」
八幡姫は一瞬泣き笑いの顔を見せたが、直ぐに顎を上げ、眦をきつくして立ち上がった。
「では行く。後は任せる」
——誰の声で、誰に任せたのか、姫の口から出たのは低い声だった。続いてヒタヒタと密やかに駆け抜ける裸足の足音。
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