第六章 明石
一 梅
一 訣れのはじまり
「え、お祖母様が亡くなった?」
出掛けて行ったコシロ兄が昼前に戻って来て告げた言葉にヒメコは茫然と立ち尽くした。
「比企庄のお義父上が寄越された急ぎの使いが、今朝鎌倉に着いた。尼君は一昨日の夜にお休みになられた後、翌朝に目覚めず、義母上がお起こしに行った所、息を引き取っておられていたそうだ。将軍様は今、京からの客人を迎えていて動けぬゆえ、代理として若殿が比企に向かうこととなった。比企能員殿は既に比企に向かわれたので、若殿のご準備が整い次第、俺が若殿を比企までご案内する事になった。お前はどうする?」
「参ります。共に連れて行って下さいませ」
「若君は私が見ておりますからご心配なさいませんよう」
フジの言葉にコシロ兄が頷いた。翌朝、鎌倉を出る。馬を駆けさせながら、つい先日別れたばかりの祖母に想いを馳せる。父と共に比企へと向かった祖母は笑顔で手を振ってくれていたのに。
眠るように。いや、本当に眠っていて、そのまま逝ってしまったのだ。
比企の屋敷に着いたら、眠る祖母の足元に母が座っていた。
「ヒミカ。来てくれたのね」
取り乱してない静かな声に驚きつつ、その隣に腰を下ろす。
「穏やかなお顔でしょう?いつものように眠ってると思ったのよ。あんまり嬉しそうな顔で眠ってるから起こすのを躊躇ったの。だって下手に起こしたら『折角いい夢を見てたのに、何で起こすんだい!』って怒られそうだったから。でも暫くして、今度は『何で起こしてくれなかったんだい』と怒られそうだと思って覚悟を決めて揺り起こしたの。そうしたらとっくに息を引き取っていた後だったの。義母上様は今頃怒ってらっしゃらないかしら?もっと早く私が気付いていたらこんなことになっていなかったのではないかしら?ヒミカ、貴女に会えたことをお義母上はとても嬉しそうに話してくれたのよ。『あたしは馬に乗ったんだよ。お前は乗ったことないだろう?』って得意気に聞かされた。私、悔しくてつい言ってしまったの。『そんな無茶ばかりしてると命を縮めますよ』って。だから私のせいかもしれないわ。だって、前の晩まであんなにピンピンしていて憎まれ口を叩く元気がお有りだったんですもの。私が変なことを言ってしまったから、それで義母上はお亡くなりになったのではないかしら」
そんなことはない。母のせいではない。そう答えようとして、でもヒメコは言わなかった。その言葉はきっと父や家人らに既に何度も聞かされている筈だから。
「何言ってるんだい。やりたいことをやらずに命を永らえたって折角生まれたのに勿体ないじゃないか。それこそ命の無駄遣いだよ。大体お前はそういつまでもグズグズメソメソしてないで、早く客人に酒でも出さないかい。本当にこの子は気が利かない子だねぇ」
代わりに口をついて出たのは、いつもの祖母の憎まれ口。
母がハッと顔を上げた。立ち上がると奥へと駆けて行く。
「あらあら、皆さん。私ったら何もお出しせずに御免なさいね。はい、どうぞ」
その場に居た人らに盃を渡し、酒を注いで回る母。
「あ、そうそう。餅を捏ねておいたのでした。あたたかい汁と共に召し上がれ。義母上は喉につかえたら苦しいからといつも餅は召し上がらなかったのに、急に私に餅を用意するよう命じたのです。月見をするのだと。今年は鎌倉に居て十五夜を祝えなかったから片見月になって嫌だと言いましたのに」
そう言って腕を配る母は笑顔だったが、その目は重く腫れていた。ヒメコは母の手を取ると、祖母の枕元に突っ伏している父の隣に腰を下ろさせた。
祖母は自分の死を予感していたのだろう。自分のことは視えないと言っていたのに。でも、祖母らしい。ヒメコは素直に羨ましいと思った。自分も祖母のように生きて死ねたら幸せだろう。
線香の煙と読経の声ばかりが支配する場で、父と母はずっと静かに泣いていた。
「お婆の瓜は美味かったな」
ふと声を上げたのは頼家だった。ヒメコは顔を上げる。
「父上と母上と姉上と、夏に皆でここに来て、瓜の畑を走り回ったのは誠に楽しい想い出だった。もう出来ないと思うと寂しいのぅ」
「覚えておいででしたか」
「当たり前だ。お婆は私に大きな瓜を取ってこいと挑戦的な口をききおった。おかげで私は母上に叱られた」
それは少し違うと思ったけれど、幼かった彼の中にはそう残ってしまっているのだろう。少し寂しい気持ちになるが、それでも楽しい想い出と言ってくれたのは嬉しかった。
「若殿、瓜でしたらこれからも毎年ご馳走出来ますぞ。この土地は私の物になりますからな」
そう言い出したのは比企能員だった。ヒメコは驚いて比企能員の顔を見る。
「尼君が亡くなった今、ここは比企を継ぐ私のもの。だから毎年夏にはここに瓜を採りに参りましょうな」
——この比企が、比企能員殿のもの?では、父は?母はどうなるの?
「尼君にはここに朝宗殿というお子がおられる。比企の全てが貴殿の物になる訳ではないかと存じますが」
黙ったままの父の代わりにコシロ兄が声をあげてくれる。比企能員がムッとした顔になった。
「また江間殿か。将軍様の気に入りか知らんが、そなたのような若輩者の口を挟む所ではない。下がられよ」
コシロ兄は返事をせずに立ち上がり、祖母の枕元にいたヒメコの後ろに腰を下ろして背に手を当ててくれる。悔しかった。眠る祖母の、泣く父母のすぐ側であんな事を言われるなんて。
祖母が自ら腹を痛めて産んだ子は父の朝宗一人だけ。父は祖父の血を引いていなかった為に祖父の跡は継げずに、祖父の弟の子である能員殿を養子にとったが、祖母は本当は父、朝宗に比企を託したかっただろう。
やがて頼家と比企能員が鎌倉へと戻って行き、やっとヒメコはホッと息をついた。庭を眺めに縁に出たらコシロ兄が隣に立った。
「父が言っていた。比企能員殿は若殿を盾に勢力を広げようとしている。信用ならない、と。だがきっと、能員殿も父や俺のことをそう思っているのだろうな」
「それはもしや、北条と比企が争うかも知れないということですか?」
問うたヒメコに、コシロ兄はそっと目を横に流した。
「そうならないようにと将軍様は俺とお前を縁組させて下さったのだろうがな」
「でも、私では能員殿にとっては何の抑止力にもなりません」
父が比企の正当な後継であれば。でもそれを言っても今更栓無きこと。僧侶の読経の声を聴きながら、ヒメコは祖母が育てていた瓜の畑を眺める。庭に既に白菊はなく、梅の木が侘しげに佇み、虫がか細く鳴いている。そこへ泣き腫らした目のような赤い月が昇ってくる。彼らが祖母との別れを惜しんでくれているように思えて、やっとヒメコの頬を涙が伝った。
死は怖くない。そう言っていた祖母。その通り、安らかに眠って旅立った。ならば、自分も眠れば祖母にまた会える。肉体は無くとも心は繋がる。ヒメコが逢いたいと思えば、いつでも逢えるのだ。
東風吹かば。そう詠った菅原道真公。彼の愛した梅の樹は彼を追いかけて太宰府まで飛んで行ったと聞く。比企も、夏になれば瓜がまた蔓を伸ばし実をならすだろう。ただ、自分はもうここには来られない。そう予感して、風渡る生まれ故郷に、ヒメコはそっと別れを告げた。
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